「イースター、穏やかな日常へ」
聖書箇所 マタイ28:1-10。327/333。
日時場所 2024年3月31日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝式
イースター、おめでとうございます。私たちのために、イエスさまがよみがえってくださいました。よみがえられたイエスさまと共に、神さまに祝福された歩みをしていきたいと思います。
ことしのイースターは愛餐会を行ないます。野の花会のみなさんが用意をしてくださいました。こころから感謝いたします。新型コロナウイルス感染症のために、教会の交わりも制限を受けてきました。今年度から少しずつもいろいろなことができるようになりました。コロナ禍においては、いろいろなことで日常生活が制限を受けました。私たちの日常生活が、どんなに尊いものであり、多くの人々がそうした私たちの日常生活のために働いてくださっているのかを知ることができました。私たちの世界にあっては、戦争によって日常生活が奪われ、辛い思いや悲しい思いのなかにある多くの方々がおられることを、私たちは知っています。どうか神さまの義と平和に満ちあふれた世界になりますようにと、祈りをあわせたいと思います。
またことしのイースターは洗礼を受けてクリスチャンとしての歩みを始められる方が、2名。そして転入会をしてくださる方が1名、おられます。私たちの教会にとりましては、とても大きな喜びです。神さまにこころから感謝いたします。
今日の聖書の箇所は「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書28章1−4節にはこうあります。【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。】。
イエスさまが十字架につけられ、天にめされたあと、アリマタヤのヨセフがイエスさまの遺体を引き取って、新しいお墓に入れました。そのあと安息日になりました。ユダヤ教では安息日は何もしてはいけない期間でしたので、イエスさまの葬りの準備をすることができませんでした。ですから安息日が終わったあと、マグダラのマリアともう一人のマリアが、お墓にいって、葬りの準備をしようとしました。そのときに大きな地震が起こります。そして天使が天から降ってきて、お墓の入り口にあった大きな石をころがし、その上に座ります。イエスさまのお墓で見張りをしていた番兵たちは驚き、恐れました。
マタイによる福音書28章5−7節にはこうあります。【天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」】。
天使は女性たちに「恐れることはない」と言いました。大きな地震が起こり、番兵たちも震え上がり死人のようになったわけですから、女性たちも怖かっただろうと思います。しかし天使は女性たちに「恐れることはない」と言い、彼女たちが驚くことを言いました。イエスさまが復活された。遺体の置いてあったところを見てみなさい。そこにはイエスさまの遺体はもうない。さあ、急いで弟子たちのところに行き、そしてこう伝えなさい。「イエスさまは死者の中から復活された。そしてあなたたちより先にガリラヤへ行かれる。そしてそこでお会いすることができる」。確かにあなたたちに伝えましたよ。
マタイによる福音書28章8−10節にはこうあります。【婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】
女性たちは少しびっくりしましたが、イエスさまが復活されたことを知り、とても喜び、そして弟子たちに知らせるために墓をあとにしました。すると、女性たちの行く先に、イエスさまが立っておられました。イエスさまは女性たちに「おはよう」と言われました。そして女性たちはイエスさまに近寄り、イエスさまの足を抱き、そしてイエスさまの前にひれ伏しました。イエスさまは言われました。「恐れることはない」「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように行ってください。そこでわたしに会うことができると」。
マタイによる福音書のイエスさまの復活の物語は、番兵たちが出てくるということです。イエスさまの死体を弟子たちが盗み出して、イエスは復活したと言い広めるということが起こってはいけないから、イエスさまの墓に番兵たちがおかれています。しかしイエスさまは復活されます。マタイによる福音書28章11節以下には「番兵、報告する」という表題のついた聖書の個所があります。番兵はすなおにイエスさまが復活したことを報告するわけです。しかし祭司長たちはそれでは困るので、番兵にウソの噂を広めるように支持します。「イエスさまの遺体は、弟子たちが盗み出して、そしてイエスさまは復活したと弟子たちが言い広めている」というウソの噂を、番兵たちが言い広めるのです。
この番兵たちの話以外は、マタイによる福音書ではイエスさまの復活について、とても淡々と信じられた出来事として記されています。マグダラのマリアやもう一人のマリアたちも、実際によみがえられたイエスさまに、イエスさまの墓から帰る途中で出会っています。イエスさまのお墓がからっぽだったということだけで終わったのであれば、まあちょっと心配になるわけですが、マグダラのマリアたちはそのあと実際によみがえられたイエスさまに会っているので、「ああ、イエスさまがよみがえられた」と素直に思えます。
よみがえられたイエスさまは女性たちを通して弟子たちに「ガリラヤ出会う」ということを伝えます。弟子たちがイエスさまがよみがえられたあとに会う場所は、ガリラヤです。ガリラヤというところは、イエスさまや弟子たちの多くの出身の町です。弟子たちはイエスさまにガリラヤで出会い、そしてイエスさまと共に歩みます。イエスさまが十字架につけられるときに、弟子たちは逃げ出してしまいます。しかしイエスさまがよみがえられたあと、弟子たちはまたガリラヤから新しく歩み始めるのです。
ガリラヤは弟子たちがイエスさまと出会った場所というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と言われる地域でした。エルサレムと違って、ユダヤの中心ではないわけです。ユダヤ人は自分たちの民族はすばらしく、他の民族はだめであるという考え方が強かったですから、「異邦人のガリラヤ」という言い方は、その地域に住んでいる人たちに対する蔑みの言葉であるわけです。「ガリラヤからすばらしい人が出るはずがない」というような言われ方をするのが、ガリラヤでありました。そうしたエルサレムという中心から離れた地域がガリラヤであるわけです。ガリラヤはまた貧しさを抱え、蔑みを受けるところでありました。イエスさまはそのガリラヤで、復活のあと、弟子たちに会われたのでした。
ガリラヤの地もいろいろな問題や課題を抱えるところでありました。それは私たちの生きている世の中や、私たちの生活でもあることです。私たちも生活の中で、いろいろな悩みや困難に出会います。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。すべてのことがうまくいっているわけでもないですし、私たちにとって不都合なことも起こります。ひとから誤解を受けるようなこともありますし、ひとから傷つけられることもあります。さみしい思いをすることもありますし、また自分が人を傷つけてしまい、そのことでまた自分自身が傷つくというようようなこともあります。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。
イエスさまはいろいろな問題や課題があるガリラヤで、よみがえられたあと、弟子たちに会われます。いろいろなことがあるけれども、しかしその場所からまた新しい思いになって歩み始めることを、イエスさまは望んでおられます。
私たちの毎日の生活の中で、イエスさまは私たちに伴ってくださり、私たちの歩みを支えてくださっています。
イースター、弟子たちがガリラヤに帰ったように、私たちもまた穏やかな日常に帰っていきたいと思います。イエスさまが私たちの歩みを導いてくださいます。よみがえられたイエスさまと共に、健やかな歩みをしていきたいと思います。
(2024年3月31日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝式)
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