「平安をもたらす神さまの聖霊」
聖書箇所 ヨハネ20:19-31。326/323。
日時場所 2024年4月7日平安教会朝礼拝式
私たちはグループを作って、何かをするということがあります。趣味のグループもあるでしょうし、学会のような組織である場合もあります。わたしもいろいろな委員会に出席します。そうしたグループとかサークルに出席していると、人間の集まりですから、ときにぎくしゃくして、「なんかいやな感じ」という思いになる出来事に出くわすときがあります。自分自身もなんか嫌なことを言ってしまって、あとから「ああ、言わなければ良かった」と思って、しばらく落ち込んでしまうというようなこともあります。
荒木優太の『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)は、なんとも挑戦的なタイトルです。【一人ひとりは心優しい人間だとしても、全てのメンバーが互いをよく知っている小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」がある。その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒す】(表紙裏)とあります。人の集りというのは、なかなかむつかしいもので、良い人たちの集りであっても、なんかうまくいかず、疲れたり、傷ついたりする出来事に出会うということがあります。
イエスさまのお弟子さんたちの集まりも、ときどきぎくしゃして、互いに対立したりしています。「おれが一番えらい」とか「あいつはイエスさまから贔屓されている」というようなことが起こっています。それでもイエスさまを慕って集まり、イエスさまについて歩んでいくわけです。しかし最終的に、イエスさまが十字架につけられたとき、みんなイエスさまを裏切って逃げ去ったわけです。ちりじりになって逃げてもよさそうなものであるわけですが、なぜかひとところに集まります。そして一つのところに集まりながらも、自分たちはイエスさまを裏切ったという暗い影に脅えていました。
今日の聖書の箇所は「イエス、弟子たちに現れる」「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書では、イエスさまは復活され、マグダラのマリアの前に姿を現されました。そしてそのあと、イエスさまは弟子たちに現れます。
ヨハネによる福音書20章19−21節にはこうあります。【その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」】。
イエスさまの弟子たちはユダヤ人たちが自分たちをも捕まえに来るのではないかと恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そこにイエスさまが現れ、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われます。「あなたがたに平和があるように」というのは、シャロームという日常の挨拶です。しかしまさに弟子たちには平和がなかったのです。弟子たちはイエスさまを裏切って逃げていました。「この方についていこう」「この方を信じていこう」。そう思っていた人を裏切ったわけですから、弟子たちのこころはもうズタズタだっただろうと思います。弟子たちはイエスさまのことを裏切ったわけですから、今度は自分がだれかに裏切られるかも知れないのです。自分が助かりたいがために、ほかの弟子たちをユダヤの指導者たちに売り渡すということを行なうかも知れないわけです。だれも信じられないのです。弟子たちはおびえていました。
そうした弟子たちに、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われます。ほんとうに平和があったら、どんなにいいだろうと思います。そのようにおびえている弟子たちのところに、よみがえられたイエスさまが来てくださったということです。そしてイエスさまは十字架につけられたときの手の釘あとと、槍でつかれたわき腹を、弟子たちにお見せになりました。弟子たちはそれで、イエスさまだということがわかります。そしてイエスさまは重ねて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そしてイエスさまは「あなたがたを遣わす」と弟子たちに言われました。イエスさまは「おまえたちはわたしを裏切っただめな人間なので、新しい弟子たちを集めることにした」とは言われませんでした。「裏切った人は弱い人間だから、もう二度と、わたしの弟子になることはできない」とは言われませんでした。「あなたがたを遣わす」と言われ、あなたたちはいまもなおわたしの弟子なのだと言われました。
ヨハネによる福音書20章22−23節にはこうあります。【そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」】。
イエスさまは弟子たちに「あなたがたを遣わす」と言われ、そして弟子たちに息を吹きかけられます。息を吹きかけるというのは、また奇妙なことをするなあと思いますが、イエスさまは弟子たちに命の息を吹きかけられたのです。創世記の2章に、人間が神さまによってつくられたときの話が出ています。旧約聖書の2頁です。創世記2章7節にはこうあります。【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。】。神さまが命の息を吹き入れて、人をつくられたように、イエスさまもまた弟子たちに命の息を吹きかけられたのです。
そしてイエスさまは「聖霊を受けなさい」と言われました。聖霊というのは、神さまの霊ということです。あなたたちは自分の力で生きることができると思っていたけれども、でもやっぱりだめだっただろう。イエスさまを裏切ることなんか絶対にないと思っていただろうけど、やっぱりだめだっただろう。聖霊を受けて、神さまにより頼んで生きていきなさい。神さまはあなたたちを励まし導いてくださる。そしてそのとき、とっても大切なことがある。それは赦しあって生きることだ。あなたに人の罪を赦す力を与えてあげる。あなたがその人の罪を赦してあげたら、その罪は赦される。でもあなたがその人の罪を赦さなければ、その罪は赦されないまま残る。あなたはこの世界に罪が残られないように、その人を赦してあげなさい。そのようにイエスさまは言われました。
ヨハネによる福音書20章24−25節にはこうあります。ここから「イエスとトマス」の話になります。【十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】。
イエスさまが弟子たちのところに現れた時に、トマスはいませんでした。ほかの弟子たちはうれしくてうれしくて、「わたしたちはイエスさまに会った」というわけですから、トマスの気分が良いわけはありません。それでトマスは「わたしは自分がイエスさまに会って、イエスさまの手の釘のあとをみて、わたしの指を釘跡に入れてみなければ信じない」「わたしはわたしの手を、イエスさまのわき腹に入れてみなければ信じない」と言いました。弟子たちに対して、イエスさまは「手とわき腹とをお見せになった」わけですから、それ以上のことをしないと信じないというわけです。まあ意固地になっているというような感じなのでしょう。
ヨハネによる福音書20章26−29節にはこうあります。【さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。
八日ののちに、イエスさまはトマスが一緒にいるときに、弟子たちを尋ねられました。イエスさまはまた「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは意固地になっていますから、弟子たちの間には平和がないのです。イエスさまはトマスに、「「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われました。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスはいままでの頑なな態度がウソのように、素直に「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。イエスさまはトマスに、「わたしをみたから信じることができたのか。見ないで信じることのできる素直な人は幸いだと思う」と言われました。
ヨハネによる福音書20章29−31節にはこうあります。【このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。】。
この聖書の箇所は「本書の目的」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書の締めくくりの言葉です。私たちの持っている聖書はそのあと、ヨハネによる福音書21章があるので、ここで終わっているわけではないわけです。しかし一般的な聖書学の考えでは、ヨハネによる福音書21章はあとから付け加えられた聖書の箇所であるようです。まあイエスさまは多くのしるしをなさったわけですから、一応書き終えたあと、「ああ、このことも書き加えておいたらよかった」というようなものも出てくるのも当然であるかも知れません。そしてまあ書き加えられたということなのでしょう。私たちはヨハネによる福音書を読むことを通して、イエスさまが私たちの救い主であり、私たちはイエスさまを通して、永遠の命を受け継ぐことができるということを知ることができるのです。
挨拶だからということもありますが、イエスさまは今日の聖書の箇所で、3度、「あなたがたに平和があるように」と言われます。弟子たちは不安であるからです。弟子たちは不安で、不安でたまらないのです。弟子たちはイエスさまを裏切った人たちの集りであるのです。イエスさまを裏切ったわけですから、今度は自分が裏切られるかも知れない。自分が裏切られる前に、自分が裏切って、自分だけが助かるという方法もあるのではないかという思いが、心の中にあるのです。それは自分がそのように考えているわけですから、他の人もそのように考えているかも知れないということは容易に想像できます。
そうした不安を抱える弟子たちのところに、イエスさまはきてくださり、弟子たちの歩むべき道を示してくださいました。それは聖霊を受けて、神さまを信じて生きるということです。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。そして互いに赦しあって生きることの大切さを示されました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。もしかしたら誰かが自分を裏切るかも知れない。そのような疑心暗鬼な気持ちに包まれている弟子たちに、イエスさまは赦しあって生きることが大切だと言われました。だれかから赦すことができないという思いになるようなことを受けたとしても、赦しあって生きていきなさい。確かな気持ちをもって、自分が人生の主人公として生きていきなさい。あなたが罪を赦したら、その罪は赦されるのだ。いつまでも罪に囚われるのではなく、あなたが罪を赦し、あなたが人生の主人公として生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。
イエスさまを裏切る弱さを抱えて生きている弟子たち。その弟子たちが生きていくためには、神さまを信じて、互いに赦しあいながら生きていくということが大切だったのです。弱さを抱えている私たちは、互いに赦しあいながら生きていくのです。そしてイエスさまが疑うトマスに、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたように、疑うことに重きを置くのではなく、信頼しあって生きていくということが大切なのです。「あの人はわたしを裏切るのではないか」という気持ちに支配されるのではなく、「あの人とわたしは同じイエスさまの弟子なのだ、友だちなのだ」という気持ちをもって、信頼しあって生きていくことが大切であるのです。
イエスさまは「平安をもたらす神さまの聖霊」があるのだと言われます。そしてその「聖霊を受けなさい」と言われます。神さまを信じて、健やかに生きる。それがあなたたちの生きる道なのだ。神さまから祝福された道なのだと、イエスさまは言われます。
赦しあい、助け合い、神さまの聖霊を信じて、健やかに生きていく。復活されたイエスさまは、私たちにそのように呼びかけ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちを祝福してくださっています。
(2024年4月7日平安教会朝礼拝式)
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