「あなたならできる」
聖書箇所 ヨハネ21章15-25節。17/470。
日時場所 2024年4月21日平安教会朝礼拝
水は摂氏0度で氷になりますから、なんとなく私たちは0度になるとすべてのものが凍ってしまってもうだめになってしまうというふうに思います。くだものを冷凍庫のなかにいれておくとかちかちに凍ってしまって食べられないというふうに思います。しかし0度以下でも食品が凍らない温度域があります。その温度域を「氷温」と言います。食品をこの氷温域に設定することによって、おいしく安全に貯蔵したり加工したりする技術を「氷温技術」(http://www.hyo-on.or.jp/)と言います。
この氷温技術は鳥取県で開発されました。山根昭美(やまね・あきよし)さんという農学博士が『氷温貯蔵の科学 食味・品質向上の革新技術』(農文協)という本のなかでこんなことを記しておられます。【私がこの氷温の研究にのめり込むようになったのは、じつは二十数年前のある大失敗がヒントになっている。鳥取県の食品加工研究所長だったわたしは、県から委託を受け、ナシの二十世紀の長期貯蔵の研究をしていた。ちょうど青森県がリンゴの炭酸ガス貯蔵に成功したころで、私はこの方法を二十世紀にも応用できないかと腐心していた。炭酸ガス貯蔵とは、炭酸ガスを増やすことによって、果実の呼吸を抑えながら果実の鮮度を保とうとする貯蔵方法である。当時は食べものを凍結させるとみんなダメになってしまうという固定観念があったから、私も貯蔵庫を炭酸ガスでいっぱいにする一方、温度は三度に保つように細心の注意を払っていた。ところがある日、若い研究員が真っ青になって私のところに飛び込んできた。「たいへんです、山根所長。二十世紀がみんな凍ってダメになってしまいました」。貯蔵庫に駆けつけてみると、四トンの二十世紀が全部、透きとおって凍ってしまっている。貯蔵庫の温度調節器が故障してしまい、温度計はマイナス四度を指して止まっていた。科学技術庁の補助金で購入した二十世紀で、暮れになればどこにもないから、私も慌てた。慌てたけれどもどうしようもなく、やけになって、捨てるつもりで貯蔵庫を開け放ち、炭酸ガスを出して空気を入れて放置してしまった。ところがである。三日後に捨てるつもりで貯蔵庫に行ってみると、凍って透明になっていた二十世紀が、再び自然の果皮色(かひしょく)に戻っていたのである。かじってみると味も申し分ない。というよりも、炭酸ガスで保存していた以前とは比較にならないほど「うまい」のである。】
氷温技術は山根昭美(やまね・あきよし)さんの失敗によって発見され研究が進んだ技術です。失敗することによって思わぬ幸いを得るということがあります。「失敗は成功のもと」ということわざがありますから、あたりまえのことなのでしょうけど、でもやっぱり私たちは何かに失敗するとふつうは落ち込んでしまいます。受験に失敗したりすると、もう人生の落伍者のように思ってしまう人もいます。また失敗をすると評価にひびいてくるということもあります。氷温を発見した山根昭美さんなど、4トンのなしを腐らせたと思ったわけですから、もう真っ青だったと思います。でもそれが氷温の発見につながったわけですから、まあ人生わからないものだと思います。
キリスト教の一番の特色は、失敗者・落伍者によって広められた宗教だということです。イエスさまのお弟子さんたちはみんなイエスさまを裏切った失敗者・落伍者でした。そしてその失敗者であり、落伍者である弟子たちがキリスト教を宣べ伝えました。
今日の聖書の箇所は「イエスとペトロ」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書21章15-17節にはこうあります。【食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。】。
イエスさまから三度「わたしを愛しているか」と言われて、ペトロが悲しくなるというのは、ペトロが三度イエスさまのことを知らないと言ったことを思いださせたからでした。ヨハネによる福音書18章15節以下には「ペトロ、イエスを知らないと言う」(204頁)、18章25節以下には「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」(205頁)という表題のついた聖書の箇所があります。イエスさまはペトロがイエスさまを裏切ることを知っておられました。ヨハネによる福音書13章36-38節以下には「ペトロの離反を予告する」(196頁)という表題のついた聖書の箇所があります。ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ったわけですが、しかしイエスさまのことを三度知らないと言ってしまいました。弟子としては大きな失敗でした。
ペトロはイエスさまから「ヨハネの子シモン」と三度呼びかけられています。わたしの先輩の牧師でいま愛知県の南山教会で牧師をしておられる村山盛芳牧師という方がおられます。お父さんも村山盛敦という牧師でした。昔、村山盛敦牧師がいたずらをした盛芳少年を「もりよし」と言って叱ったそうです。それを聞いていた教会員の方が「先生のとこの子どもは怒られる時だけ正式な名前で呼んでもらえるんやなあ」と何気なく村山盛敦牧師に言うと、村山盛敦牧師がえらく落ち込んでおられたそうです。イエスさまも「ヨハネの子シモン」と正式にペトロのことをよんでおられます。ペトロは三度イエスさまのことを知らないと言ったわけですから、ここはやっぱりしっかりとペトロにご自分の気持ちを伝えておこうと思われたのでしょう。ちなみに、いま「ちゅらさん」という沖縄を舞台にしたNHKの連続テレビ小説の再放送が行われていますが、登場人物の妻はいつもは夫のことを「ぶんちゃん」と呼びますが、怒っている時は正式に「恵文さん」と呼びます。こういうのも、よく考えてみると、怒っているのか怒っていないのかすぐにわかっていいですね。
イエスさまはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。わたしの羊を飼いなさいというのは、牧者としてわたしを信じる人々を導きなさいということです。これはなかなか大変な仕事です。ペトロを初めてとして、イエスさまが十字架につけられたとき、イエスさまのお弟子さんたちはみんな逃げ去ってしまったわけです。みんな心に重荷をもっています。一応、よみがえられたイエスさまにみんなで出会ったわけですが、しかしイエスさまは天に帰っていかれます。ペトロはこの心に重荷をもっている弟子たちを、そしてイエスさまのことを信じる人々をまとめる人にならなければならないわけです。それもイエスさまのことを三度知らないと言った者でありながらです。
ペトロがえらそうなことを言ったら、みんな言うでしょう。「そんなこと言ったって、お前はイエスさまのことを三度知らないと言ったじゃないか」。ペトロが模範的な弟子であったのであれば、「まあペトロさまが言うんだから、やっぱりみんなペトロさまの言うことは聞かなければならないだろう」と思うでしょう。でもペトロはそんな人ではなかったのです。ペトロがえらそうなことを言うと、みんな文句を言うでしょう。しかしだからこそ、ペトロは弟子たちのまとめ役を担うことになったのです。「わたしの羊を飼う」ことになったのです。それがイエスさまの選びなのです。イエスさまはあえてえらそうにできない人を選ばれたのです。
ヨハネによる福音書21章18-19節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた】。
ペトロは伝説によると、紀元64年のローマ皇帝ネロの迫害のときに殉教したと言われています。ペトロは【両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれ】、そして逆さ十字架の刑で殉教したと言われています。
ヨハネによる福音書21章20-23節にはこうあります。【ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである】。
ヨハネによる福音書には「イエスの愛しておられた弟子」というなんとも意味深な名前の弟子が出てきます。イエスさまが復活されたときにもペトロと一緒に墓にいった弟子として出てきています。イエスさまから特別に愛されていたと言われる弟子ですから、ペトロもこの人のことが気になったのでしょう。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とイエスさまに尋ねました。するとイエスさまは「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」とペトロに言われました。だれしも人のことは気になるものです。でもやっぱり大切なことは「自分がどれほど神さまか愛されているのか」「自分がどのように神さまから憐れみを受けているか」ということです。それは人と比べるものではありません。愛は比べると卑しくなります。
ヨハネによる福音書21章24-25節にはこうあります。【これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう】。
ヨハネによる福音書はだれが書いたのだろうということですが、このイエスの愛しておられた弟子の証をもとに、イエスの愛しておられた弟子の弟子たちが書いたというわけです。【一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう】というのはちょっと大げさな気もしますが、それだけ多くの恵みをキリスト者は受けているということです。昔から一杯一杯、イエスさまから恵みを受けてキリスト者は生きてきたのです。
ペトロはイエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまからペトロは大切な役割りを命じられたのでした。そのことはペトロにとって荷が重かったのではないかと思います。
ペトロはイエスさまから「わたしを愛しているか」と問われたとき、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えませんでした。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。同じようなことではないかと思われるかもしれませんが、微妙に違うわけです。
たとえば恋人があなたに「わたしのこと愛してる?」と聞いたら、みなさんは何と答えますか。そんなこと聞かれたことないですか?。でも聞かれたどうですか?。「愛しているよ」と答えるでしょう。お家に帰ってからためしてみてください。もし恋人が「わたしがあなたを愛しているってことはあなたは知っているじゃないか」と答えると、たぶん「そうじゃなくて、わたしのこと愛してるって言って。わたしのこと愛してる?」と、また尋ねると思います。
映画「オペラ座の怪人」の中にはそんな感じの会話が出てきます。クリスティンが「Say you love me(愛してるって言って)」と言うと、ラウルが「You know I do(知ってるじゃないか)」と答えます。これはまあラウルが「I love you(愛している)」と言わずにじらしているってことですが、やっぱり「I love you(愛している)」と言うのと言わないのとでは、微妙に違うのです。
クリスティンとラウルの場合はそうですが、イエスさまとペトロの場合はちょっと意味が違うわけです。ペトロがイエスさまをじらしているということではありません。
ペトロがイエスさまに「主よ、わたしはあなたを愛しています」と言わないのはわけがあります。それはペトロはイエスさまに「愛している」とは言えないわけです。ペトロはイエスさまを裏切りました。ペトロはイエスさまに「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのです。しかしペトロはイエスさまの十字架を前にして逃げ出してしまいました。ペトロの言葉はイエスさまの前に意味を持たないのです。「愛してる」と言ったって、また裏切ってしまうかも知れません。ペトロは確信をもって語ることができないのです。そしてペトロは自分が「愛している」というのではなく、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言いました。
それはまたペトロにとっては大きな意味をもつ言葉でした。ペトロは「わたしが愛している」とか「わたしがどうである」ということよりも、「イエスさまがどうである」「イエスさまがご存知じである」ということを自分の生きていく拠り所としたのです。自分がどうするこうするということから、イエスさまに自分をお委ねする生き方へと導かれていったのです。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。
そしてイエスさまはそういうペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは自信を失っているペトロを励まされました。「ペトロ、あなたにはできる」という気持ちを込めて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。
私たちは人生においていろいろな失敗をします。「こうしたらよかった」とか「ああしたらよかった」とか思います。「おれはだめなやつだ」「わたしはだめな人間だ」。そんなふうに思えるときがあります。どんなに計画をたててやったとしても、人間のすることですから、やっぱりいたらないことがあります。「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」というのは、人間の常なのです。でもやっぱり失敗すると落ち込んだり、自信がなくなったりします。そして次の一歩が踏み出せないときがあります。
でもイエスさまは「だいじょうぶなんだ」と言われます。「あなたはだいじょうぶ。あなたならできる。わたしが共にいるから」。イエスさまはそう言って、私たちを導いてくださっています。使徒ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。あなたにはできる」と言ってくださったイエスさまは、私たちにも「あなたならできる」と言ってくださっています。イエスさまは私たちを導き、私たちを励まし、そして私たちを用いてくださいます。イエスさまの招きに応えて、安心して歩んでいきましょう。
(2024年4月21日平安教会朝礼拝)
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