「愛、憎しみの世界での約束」
聖書箇所 ヨハネ15:15-27。18/483。
日時場所 2024年4月28日平安教会朝礼拝式
ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナのハマスの戦争など、私たちの世界はここ数年、とても重苦しくつらい戦争の出来事に覆われています。またイスラエルとイランが行なったミサイル攻撃など、私たちを不安にさせます。
アメリカはイスラエルに次ぐユダヤ人居住国家ですから、国家としてユダヤ人の影響が強いので、親イスラエル国家であるとされます。国連安全保障理事会が4月18日にとりあげられた、パレスチナの国連正式加盟を勧告する決議案は、アメリカが拒否権を行使することによって、否決されました。ガザ即時停戦を求める決議案も、アメリカが拒否権を行使することによって否決されています。ヨーロッパの国々は、アメリカほどではないですが、第2次世界大戦のときのナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の歴史があるので、ドイツなどでもイスラエルに対する特別な配慮がなされます。イスラエルとパレスチナのハマスの戦争に対して、ドイツのシュルツ首相は、「イスラエルの国家の存立と安全のために立ち上がることがわれわれの使命だ」と言いました。しかしやみくもに一方の国のしていることに賛成するというのは、やはりおかしなことであるわけです。
ドイツは戦後の戦争責任ということでも、日本にとって学ぶべきことが多かった国です。お手本となるような国であったわけです。しかし国というはいつもいつも正しいわけではありません。戦後のドイツは見習うべきことが多くありましたが、ナチスの時代のドイツはひどい国でした。日本も戦後、民主主義の国として歩んでいるわけですので、一般的に良い国であるわけですが、戦争中はアジアの国々に対してひどいことをした歴史があります。よいときと悪い時があるので、国家が起こした出来事を、丁寧にみる必要があります。ロシアがひどいことをすれば、それはよくないことですし、ウクライナがひどいことをすれば、それはよくないことです。イスラエルが良くないことをすれば、イスラエルが良くないことをしていると言わなければならないですし、ハマスがひどいことをすれば、ハマスがひどいことをしたと言わなければなりません。イスラエルでも、自分たちの国の指導者がパレスチナのガザに対してひどいことをしているという人たちがいて、そうした人たちのことも少しずつ報道されるようになっています。
争いの多い世界にあって、イエスさまが逮捕された時に言われた言葉を思い起こしたいと思います。マタイによる福音書26章52節の言葉です。新約聖書の54頁です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。イエスさまは力に頼るのではない道を歩まれた方でした。
今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「迫害の予告」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、イエスさまが十字架につかれるのを前に、弟子たちに大切な話をしているという設定になっています。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木」といわれ、弟子たちを「わたしにつながって生きなさい」と招かれました。
ヨハネによる福音書15章15−17節にはこうあります。【もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】。
イエスさまは弟子たちのことを、「友」と呼ぶと言われました。僕は主人が何をしているのかよくわかっていないけれども、しかしあなたたちはわたしのことをよく知っているので、わたしはあなたたちのことを「友」と呼ぶと言われました。わたしがあなたたちを選び、あなたたちに神さまのことを伝えた。そしてこののちあなたたちがわたしのかわりに出かけて行って、わたしに代わって神さまのことを伝え、人々を癒やしていくことになる。そのために必要なものをあなたたちが望めば、神さまが用意してくださる。わたしがあなたたちをそのように任命したからだと言われました。そして最後に大切なことをあなたたちに伝えると、イエスさまは言われ、「互いに愛し合いなさい」と言われました。「互いに愛し合いなさい」というのが、イエスさまが最後に弟子たちに伝えた教えであるのです。
ヨハネによる福音書15章18−21節にはこうあります。【「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである】。
イエスさまは弟子たちに、迫害が起こることを告げられました。イエスさまはわたしは神さまに属していて、この世に属していない。あなたたちもこの世に属していない。わたしがあなたたちを、この世から選び出したからだ。だから世はあなたたちを憎むだろう。世の人々がわたしのことを迫害するように、あなたたちのことも迫害するだろう。人々は私たちが神さまに属しているということを知らず、私たちは彼らにとって厄介な言葉をかけてくる気にくわない者なのだから。
ヨハネによる福音書15章22−25節にはこうあります。【わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。】。
イエスさまはユダヤの指導者たちに、神さまの御心について話されました。しかし彼らはそのことを理解しませんでした。自分たちが高慢になっていることに気がつきませんでした。わたしがそのことを指摘したのだから、彼らには罪があると、イエスさまは言われます。イエスさまが悲しんでいる人々、苦しんでいる人々、病の中にある人たちに手を差し伸べていたのに、ユダヤの指導者たちは、イエスさまの話に耳を傾けようとはしませんでした。彼らはイエスさまから非難をされることに腹を立て、逆にイエスさまを憎み、イエスさまを十字架につけようとします。
ヨハネによる福音書15章26−27節にはこうあります。【わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。】。
イエスさまはユダヤの指導者たちによって、十字架につけられます。そして三日目によみがえられ、弟子たちの前に現れます。そしてそののち、イエスさまは天に帰られます。イエスさまはご自分が天に帰られたあと、弟子たちのところに自分の代わりに、「弁護者」を遣わすと言われます。自分がいないと心細いだろうけれども、神さまからの弁護者である聖霊を送るから安心しなさいと、イエスさまは弟子たちに言われます。あなたたちを迫害する人たちもいるし、いろいろな困難なこと、不安なことがあるかも知れないけれども、神さまはあなたたちのことをご存知で、聖霊を送ってくださり、あなたたちに必要なものを備えてくださる。だから安心して歩みなさい。そのようにイエスさまは言われました。
イエスさまが十字架につけられる前に、最後に弟子たちに伝えた「命令」は、「互いに愛し合いなさい」ということでした。あなたたちが生きていくためには、互いに愛し合うことが必要なのだと、イエスさまは言われました。そのあと、イエスさまは弟子たちに、世の人々はあたなたちを憎み、あなたたちは迫害されることになるだろうと言われました。
迫害をされるということですから、弟子たちは人々から憎まれるということです。弟子たちは憎しみの多い世界で生きることを強いられます。争いや憎しみの多い世界では、力で持って押さえつけるようなことが良いことのように言われます。しかしイエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うということが大切なのだと、イエスさまは言われました。イエスさまは憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うことが最後の砦なのだと、イエスさまは言われました。互いに愛し合うこと、互いに尊敬しあうこと、それが私たちの世の中で大切なことなのだと、イエスさまは言われました。
そしてイエスさまは十字架への歩みへと進まれます。マルコによる福音書15章25−32節にはこうあります。新約聖書の96頁です。【イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。】。
十字架につけられ、人々からののしられるイエスさまが、「互いに愛し合いなさい」と言われるのです。イエスさまは多くの人々を救いました。しかし自分を救うことはできませんでした。そのイエスさまが、私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われます。憎しみや悲しみにが満ちている世界にあって、互いに愛し合うことが最後の砦であるのです。
憎しみや怒りに支配されることなく、イエスさまの愛を拠り所にして生きていく。それがイエスさまが私たちに対してくださった約束です。
イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちに永遠の命を約束してくださいました。憎しみや怒りに支配されそうになることが私たちには多いですけれども、イエスさまが私たちのところに送ってくださる弁護者である聖霊の働きを信じて、寛容なこころを取戻したいと思います。
イエスさまの愛に包まれて、こころ平安に歩んでいきましょう。
(2024年4月28日平安教会朝礼拝式)
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