「広がりゆく神の国」
聖書箇所 ヨハネ7章32-39節。155/412。
日時場所 2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝
わたしは岡山教会で伝道師・副牧師をしたあと、新潟県の三条教会という教会に赴任しました。三条教会は現住陪餐会員20名くらいの教会でした。礼拝出席15名くらいの教会でした。祈祷会や集会も参加者一人ということもめずらしいことではありませんでした。だれも来ないので、ヒムプレーヤーでよく一人で讃美歌の練習をしていました。
三条教会は1948年6月に創立され、今年創立76周年を迎えます。三条教会の信徒の方から聞いた話で、とても印象的な話があります。それは三条教会の創立期に、集会をもつ家が与えられた時の話です。創立期の信徒の方でとても熱心な方がおられました。集会をもつ家が与えられて、ものすごく喜ばれたそうです。その方はとてもうれしかったので、おつれあいに「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」と言ったそうです。そのときそのおつれあいさんは「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!。こんなところにだれが来ますか」と答えたそうです。
「あーんなこというんじゃなかった」と、その熱心な信徒さんのおつれあいが、わたしに話してくださいました。「あのときはぜったいそんなことになるわけないと思っていたけれど、おとうさんのいうとおり、牧師さんがきてくれる教会になったんだから、やっぱりおとうさんが正しかったんですね」。わたしはこの話を聞きながら、「ああ、こういう信徒の方々のあつい願いや祈りによって、教会が立っているんだなあ」と思いました。この熱心な信徒さんのおつれあいは、わたしが赴任した時にはとても熱心な信徒さんでした。でもそのときはおつれあいが言われた「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」という言葉が、まったくばかばかしい言葉に聞こえたわけです。「ありえない!」と思ったのです。
教会の創立期であり、たぶん集っている人たちも数人であったのでしょう。たしかに「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!」と言うのも無理のないことだったと思います。三条市はそんなに大きな街でもないですし、仏教の強いところです。そんなに簡単に教会に集う人々が増えていくとも思えない。冷静に考えれば「ありえない」と考える方がまともな考え方だと思います。しかしこの人の冷静な判断が誤りで、おつれあいの夢のような話が正しかったわけです。「そんなばかなことあるわけないでしょ!」と思えることが実現していくというのが信仰のなせる業です。
今日の聖書の箇所は「下役たち、イエスの逮捕に向かう」という表題のついた聖書の箇所です。今日は教会暦で「キリストの昇天」、イエスさまが十字架につかれよみがえられたあと、天に帰っていかれたということを記念する日です。マルコによる福音書16章19-20節にはこうあります。新約聖書の98頁です。「天に上げられる」という表題がついています。【主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕】。イエスさまは天に帰られ、そして来週はペンテコステを迎えて、イエスさまの代わりに聖霊が私たちのところに来てくださるということになります。
ヨハネによる福音書7章32-34節にはこうあります。【ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」】。
イエスさまは祭司長たちとファリサイ派の人々の企てによって捕えられ、十字架につけられ、そして殺されます。イエスさまはそのことを知っておられました。祭司長たちの側からみれば、イエスさまの十字架の出来事は、自分たちに歯向かった犯罪人であるイエスが裁きを受けるということでした。「犯罪人イエスが十字架につけられる。ざまあみろ」という出来事でした。しかしイエスさまは神さまの側からみたイエスさまの十字架の出来事について淡々と語っておられます。【「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」】。イエスさまにとっては十字架につけられるということは、ご自分をお遣わしになった神さまのところに帰っていくということでした。
ヨハネによる福音書7章35-36節にはこうあります。【すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」】。
祭司長たちやファリサイ派の人々がイエスさまを捕えようとしています。それでイエスさまはどこかに行ってしまおうとしているのではないかと、ユダヤ人たちは考えました。どこかに逃げていくのではないか。このガリラヤ湖畔から逃げ出して、遠く遠く離散しているユダヤ人のところまで、イエスは逃げていくのではないか。そのようにユダヤ人たちは考えました。
ヨハネによる福音書7章37-39節にはこうあります。【祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである】。
イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と人々を招かれました。そして「わたしを信じる者は、聖霊を受ける」と言われました。イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に帰って行かれたあとに、イエスさまを信じる者たちは聖霊を受けて、そしてイエスさまのことを宣べ伝えることになります。
ユダヤ人たちは【「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」】と言いました。これは嘲りの言葉です。「イエスはいなくなると言うけれども、どこか遠くに逃げて行くのか」。そのような嘲りの言葉です。そして「イエスはいなくなると言うけれども、ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところにでも行って、ユダヤ人ではなくギリシャ人に教えるのか。アーハハハハハ」という言葉です。
このときユダヤ人たちは「そんなばかなことあるわけないでしょ!」「ありえない!」と言って笑っているわけです。しかし奇妙なことにキリスト教の歴史というのはこのユダヤ人たちの嘲りが実現したという歴史であるわけです。のちにこのユダヤ人たちは「『そんなばかなことあるわけないでしょ!』『ありえない!』と自分たちは言ってたけど、あのとき自分たちが言っていたことが正しかったんだなあ」と思うことになるわけです。
イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に召されたあと、聖霊が弟子たちにくだり、弟子たちはイエスさまのことを宣べ伝えます。使徒パウロは【ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教える】のです。テサロニケの教会、フィリピの教会、コリントの教会などなど、使徒パウロは手紙を書いて、その手紙が私たちの聖書の中に記されています。ギリシャからローマへそして世界中に教会が建っていくことになります。
イエスさまは弟子たちに「『種を蒔く人』のたとえ」という話をしておられます。マルコによる福音書4章1−9節に記されてあります。新約聖書の66頁です。【イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた】。
このたとえは、マルコによる福音書4章13節以下に「『種を蒔く人』のたとえの説明」というところで説明がされていて、ちょっとややこしいのですが、もともとは「神さまの御言葉は御言葉自体に力があるから、どんどんどんどん広がって行くんだ」という意味のたとえです。【ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】というところが大切なのです。
讃美歌21の412番には「昔主イェスの」という讃美歌があります。【昔主イェスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、樹とはなりぬ】。この「『種を蒔く人』のたとえ」からつくられた讃美歌です。
【種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】】。私たちにとって大切なのは、この御言葉の力を信じるということです。神さまの御言葉には力があり、そして神さまの国は広がって行くんだということを信じるということです。そして広がり行く神さまの国を信じて、私たちは御言葉の種を蒔き続けるのです。御言葉を隣人に、友人に届けて行くのです。
私たちの周りにはまだイエスさまの言葉を知らない人たちがたくさんいます。イエスさまの言葉は、私たちを励まし、私たちを支えてくださいます。私たちは御言葉によって支えられ、そして生かされています。この言葉を待っている人たちがいます。私たちはイエス・キリストの命の言葉に支えられ、そして命の言葉を伝えていきましょう。
(2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝)
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