2024年5月23日木曜日

5月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまと共に生きる幸い」

 「神さまと共に生きる幸い」

聖書箇所 ヨハネ14:15-27。346/343。

日時場所 2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式

ペンテコステ、おめでとうございます。

ペンテコステは「教会の誕生日」と言われます。イエスさまのお弟子さんたちが集まっている家に聖霊が降り、そして聖霊の力によって、お弟子さんたちがいろいろな国の言葉で、神さまのこと、イエスさまのことを話しはじめ、そしてそのことによってキリスト教が広まっていき、そして教会が誕生していくことになるからです。

ペンテコステは赤いものを身に着けるというキリスト教の風習がありますから、赤いネクタイをしています。今日は南部地区の青年部の方がきておられるので、赤いクリアファイルに週報や教会案内を入れてお渡しいたしました。そしてほかにペンテコステのプレゼントとして、教会のペーパークラフトをお渡ししています。ガウディのサグラダファミリアです。

ペンテコステはキリスト教の三大祭りの一つであるわけですが、クリスマスやイースターに比べると、お祭りとしての位置づけが弱いような気がします。クリスマスはアドベントを経て、イースターはレント・受難節を経てやってきますが、ペンテコステは突然やってきます。そしてクリスマスにはクリスマスケーキやクリスマス・プレゼントがありますし、イースターにはイースターエッグがあります。しかしペンテコステはそうしたものがあまりありません。

わたしはペンテコステにもふさわしいものがないのかと考えました。いちばんふさわしいのはもちろん「聖霊はthe Holy Spirit」ですから「お酒(アルコール分の強い蒸留酒、ブランデー・ウオツカなど)、spirits」ということなのでしょう。しかしまあそれもなあと思いますので、よくあるのは鳩サブレです。でもなかなか身近で手に入りにくいので、どこででも手に入るものいいと思い、わたしはみなさんにアイスクリームをお勧めしています。ペンテコステは聖霊によって熱くなった体を冷やすために、アイスクリームがふさわしいと思いました。わたしはペンテコステにアイスクリームを食べることにしています。わたしは今日も食べるつもりです。アイスクリームを食べるようになって、なんとなくペンテコステが待ち遠しくなりました。でも「アイスクリームはちょっと。お腹がひえちゃうわ」という人に、新たにペンテコステにふさわしい新しいものを見つけました。みなさん、知りたいですか?。と言っても、まあそんなに知りたくはないと思いますが。それはティラミスです。

ティラミスは、イタリア発祥のチーズケーキの一種です。ティラミスはイタリア語です。「tira」は「引っ張って」、「mi」は「わたしを」、「su」は「上へ」という意味です。「わたしを上に引っ張って」ということですから、「わたしを元気にして」という意味です。聖霊に満たされて、元気になった弟子たちが、イエスさまのこと、神さまのことを宣べ伝え始めたのが、ペンテコステの出来事であったわけですから、「わたしを元気にして」という意味のティラミスは、ペンテコステにふさわしいデザートだと思います。ただちょっと気をつけなくてはならないのは、ティラミスは「わたしを元気にして」という意味のほかに、「わたしを恋人にして」という意味があります。「わたしを一段、上へと引き上げて」ということで、「友だちから恋人にして」という意味になります。だからちょっと異性(もちろん同性の場合もあるかもしれませんが)と食べる場合は、ちょっと相手に誤解を与えないか気をつけたほうがいいでしょう。

今日、家族にティラミスを買って帰って、「今日はペンテコステだから、ティラミスを食べるの」と言って、みんなでティラミスを食べると、たぶんみなさんのご家族は「来年のペンテコステはいつ?」と尋ねてくださるだろうと思います。2025年、来年のペンテコステは6月8日(日)です。たぶん、来年、ご家族はペンテコステが来るのを楽しみにしてくれて、5月の下旬頃になると、「もうすぐペンテコステよね」と教えてくださるだろうと思います。ぜひご家族とペンテコステをお祝いしてください。こういうのを家族伝道と言います。

もしかしたらご家族の方が、「ペンテコステって、どんな出来事」と質問されるかも知れませんから、ペンテコステの聖書の箇所を読みましょう。ペンテコステの聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節です。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた】。

イエスさまの弟子たちはイエスさまのことを裏切り、そしてイエスさまを十字架につけました。イエスさまは三日目によみがえってくださり、弟子たちを赦し、そして弟子たちを世に遣わされました。そしてイエスさまは天に帰られます。そしてイエスさまはご自分の代わりに、聖霊をあなたたちのところに遣わすと、弟子たちにお約束になりました。そしてペンテコステに聖霊が弟子たちに降ったのです。

今日の聖書の箇所は「聖霊を与える約束」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章15ー18節にはこうあります。【「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る】。

イエスさまは「別の弁護者を遣わす」と言われました。イエスさまがおられないと弟子たちは不安です。その不安な弟子たちのところに、イエスさまは「別の弁護者」、すなわち聖霊を送ると言われました。それは「私たちはどんなときでも恐れることはない」ということです。私たちはいつも守られているということです。聖霊はいつも私たちと共にいてくださり、私たちの内にいる。神さまは私たちを一人にしたりはしない。神さまはいつも私たちと共にいてくださる。私たちは神さまの平安の中に生かされているのです。

ヨハネによる福音書14章19−21節にはこうあります。【しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」】。

イエスさまはご自分が天に帰っても、あなたたちは大丈夫だと、弟子たちに言われました。それは「わたしが神さまの内におり、あなたたちがわたしの内におり、わたしもあなたたちの内にいる」からだ。「わたしと神さまとあなたたちはひとつなのだ」と、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛している。だからかみさまはあなたたちのことを愛しておられる。あなたたちは何の恐れもない。あなたたちには何の不安もない。神さまがあなたたちと共にいてくださる。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書14章22−25節にはこうあります。【イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した】。

イエスさまは神さまのことを信じない世の人々と、イエスさまの弟子たちとの違いを明らかにしておられます。イエスさまを愛する人は、イエスさまの言われたこと、イエスさまの御教えを守って生きようとします。もちろんすべての御教えを守ることはできないかも知れません。私たちは弱さを抱えていますから、イエスさまのようには生きられません。しかし私たちはイエスさまを愛し、イエスさまの言葉を守っていきようと、イエスさまに希望を置いて生きていきます。自分の弱さを知っているからこそ、私たちはイエスさまに希望を置いて生きています。そしてそんな私たちにイエスさまは聖霊を送り、私たちを祝福し、導いてくださるのです。

ヨハネによる福音書14章26−27節にはこうあります。【しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな】。

「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われました。私たちは弱さを抱えて生きていますから、心を騒がせたり、おびえたりすることが、よくあります。年中、なんかかんかの煩いのなかにあるのが、私たちだと言えるかも知れません。そうした弱さを抱える私たちに、イエスさまは別の弁護者、すなわち聖霊を送ってくださるのです。私たちに聖霊が送られるというのは、私たちが強いからではありません。私たちがイエスさまの御言葉、御教えを守って、イエスさまがおられなくなっても、未来永劫、しっかりと歩んでいくことができるというのであれば、私たちに聖霊が送られる必要はないのです。私たちが弱く、力のないものだからこそ、聖霊は私たちを包み込み、私たちを守り、私たちを励まし、元気にしてくださるのです。

私たちは神さまによって生きています。私たちはイエス・キリストによって生きています。【わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる】と、イエスさまは言われました。私たちは神さまと共に生きています。これが私たちにとっての大きな幸いです。イエス・キリストは「神、われらと共にいます」ということの徴として、私たちの世に来てくださいました。そして聖霊もまた「神、われらと共にいます」という徴として、私たちの上に注がれるのです。

神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。ペンテコステ、聖霊を受けて、神さまに感謝して歩みましょう。神さまはいつも私たちと共にいてくださいます。


(2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式)


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