2024年7月1日月曜日

6月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

聖書箇所 ヨハネ4章27-42節。197/566。

日時場所 2024年6月23日平安教会朝礼拝


翻訳という仕事は一風変わった仕事です。翻訳家の鴻巣友季子さんは『全身翻訳家』(ちくま文庫)という本の中で、翻訳家という職業についてこんなふうに書いています。

【役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う。この夏で、翻訳の仕事を始めてから丸二十年が経った。・・・。以前、自分が翻訳に費やした時間を計算してみたら、六万時間ほどになった。六万時間、他人として生きてきたのかと思うと、おかしくなった。「きみはこれまでどんな仕事をしてきた?」「三十年間、翻訳をやってきたよ」「なるほど、三十年間、何もしてこなかったということだな」たしか、ルネサンスの哲人たちのこんな会話があった。わたしも「わたし」としては、ほとんど何もしてこなかったわけだ】(P.218)。

小説を書きながら翻訳をしているとか、大学で教えながら翻訳をしているとか、何かしながらという人も多いのでしょうけれど、自分の作品を書くというのではなく、他人の作品を訳すというのは、楽しそうではありますが、やはり地味な感じがします。たんに本を読むのとは違って翻訳は時間もかかるでしょう。でもよく考えてみると、わたしはこの翻訳家の人たちのお世話になっていると思います。わたしは日本語以外の言語を読むことができませんから、なおさらです。聖書やキリスト教の知識などもほとんど翻訳してくれた人たちによってもたらされたものです。そもそも聖書自体が、日本語の聖書です。

翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。もちろん仕事であるわけですから、それで食べているということはあるわけですが、でもやはり「この本を多くの人々に知ってもらいたい」という強い思いがあるからできるのでしょう。翻訳家という人の存在を思うとき、【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている箇所の一部です。先週の礼拝も「イエスとサマリアの女」の話でした。いろいろな事情のあるサマリアの女性に、イエスさまが「水を飲ませてください」と話しかけたのでした。そしてサマリアの女性はイエスさまこそ、自分の魂の渇きをいやしてくださる方であることに気がつきました。イエスさまは永遠の命に至る水をくださる方であるからです。

そして今日の箇所になるわけです。ヨハネによる福音書4章27−30節にはこうあります。【ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た】。

イエスさまとサマリアの女性が話しておられたのは、弟子たちが食べ物を買うために町に行っている間のことでした。イエスさまとサマリアの女性が話をしておられるのに、弟子たちはすこしびっくりします。イエスさまが女性と二人で話をしておられるということにも、すこし驚いたでしょう。そして相手がユダヤ人とけんかをしているサマリア人であるということにも驚いただろうと思います。弟子たちはどうしたものかよくわからなかったので、あえてイエスさまに聞いてみるということをしませんでした。

サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。【水がめをそこに置いたまま】ということですから、急いで町に行ったのでしょう。自分がすばらしい人に出会ったということを、町の人々に知らせたくて知らせたくてたまらなかったのだと思います。サマリアの女は正午頃に井戸に水をくみにいく人であったわけですから、たぶん町の人々からはあまりよく思われていなかっただろうと思います。またサマリアの女性も町の人たちのことをよく思っていなかっただろうと思います。そんな関係であったわけですが、でもイエスさまのことは知らせずにはいられなかった。すばらしい人がいたということを、町の人々に知らせずにはいられなかったのです。サマリアの女性はイエスさまのことを町の人々に伝道します。サマリアの女性が町の人にイエスさまのことを伝えたのです。

ヨハネによる福音書4章31−38節にはこうあります。【その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」】。

サマリアの女性が伝道をしている間に、弟子たちはイエスさまから「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」という話を聞きました。【「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである】ということですから、イエスさまの食べ物とは神さまのことを宣べ伝えるということなのでしょう。【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】ということですから、神さまのことを信じる人々がどんどんと出てくるということでしょう。でも弟子たちはそのことに気づいていません。弟子たちは【『刈り入れまでまだ四か月もある』】と思っています。でも実際には種を蒔いてくれている人がいて、どんどんと成長しているのです。【あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした】ということですから、弟子たちは福音の種まきをしていないけれど、でも刈り入れるために弟子たちはイエスさまによって招かれているのです。

『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』とイエスさまは言われるわけですが、ではだれが種を蒔いているのでしょうか。今日の聖書の箇所の場合は、サマリアの女性であるわけです。サマリアの女性は町の人々のところにイエスさまのことを伝えに行っています。サマリアの女性はサマリアの町の人々からあまりよく思われていないにも関わらず、彼らのところにイエスさまのことを知らせに行っています。

ヨハネによる福音書4章39−42節にはこうあります。【さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」】。

多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。サマリア人たちはでももう少し、いろいろな話をイエスさまから聞きたかったのでしょう、イエスさまにもう少し自分たちのところに留まってほしいと願いました。イエスさまは二日間サマリアに滞在されました。そのことによって更に多くの人々が、イエスさまの言葉を信じることになりました。そしてサマリアの人々ははっきりと自分で、イエスさまが本当に世の救い主であるということがわかりました。そしてそのようにサマリアの女性に言いました。

イエスさまの弟子たちではなく、サマリアの女性がサマリアの町の人々に、イエスさまのことを宣べ伝えました。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』。そして弟子たちは労苦しなかったものを刈り入れることになります。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの世の中というのは、そうした面があるということを、やはり心にとめておかなければならないと思います。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】。人の労苦の実りを、自分の労苦の実りとしてかすめ取っていく人々がいます。そしてそうしたことこそが、この世にあって頭のいい人のすることであるかのような雰囲気を作り出していく社会のあり方があります。どれだけ自分が能力があるのかということをアピールして、他の人々がした労苦の実りさえも自分の労苦の実りであるかのように強弁して、自分をアピールしていく。そうしたことがスマートな生き方であるかのように思わせる社会のあり方があります。わたしはそうした社会のあり方は、なんかとてもいびつな気がします。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

サマリア人がサマリアの女性に言った言葉は、ある意味ではすこし釈然としない言葉です。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】。なんとなくサマリアの女性に対して、とげのある言葉のように思えます。サマリアの女性がイエスさまのことを伝えることによって、多くのサマリア人がイエスさまを信じることができたのです。ですからサマリア人はサマリアの女性に「ありがとう。あなたのおかげでイエスさまにお会いすることができた」と言ってあげてほしいと思います。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」】という言葉は、なんとなくこころない言葉のように思えます。サマリアの女性の労苦によって、サマリア人たちはその労苦の実りにあずかっているということを認めてほしいと、わたしは思います。

しかしこの【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】という言葉は、すこし別の側面のある言葉なのです。それはこの言葉が「信じる」ということに関しての言葉だからです。この言葉はサマリア人がサマリアの女性に言った言葉ということだけでなく、「信仰とはこういうものだ」ということを言い表している言葉です。信仰とはたんにだれかから聞いて信じたということではなく、その人の個人のなかで「確かにこの方が本当に世の救い主だ」と心の底から感じることができたということが大切なのだということです。なんとなく誘われたからとか、なんとなくこの人に勧められて、ということではなく、その人自身が心底「信じる」ということでなければだめなのだということです。

サマリアの女性にとっては少し気の毒なことかも知れませんが、結局は、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」というところがあるのです。イエスさまは弟子たちに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たち、私たちには「知りえない」ことがあるのです。ある意味、私たちの世の中には秘密が隠されているのです。私たちが知りえないことがたくさんあるのです。「だれがどうした」か、わからないことがたくさんあるのです。ですから私たちはだれかわからないので、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」のです。そして神さまの前に、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ】という世界へと導かれていきます。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】のですが、そのことを受けとめた上で、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、神さまに感謝して生きていきます。

私たちは豊かな実りをもたらしてくださる神さまを信じて歩んでいます。私たちの神さまは必ず、私たちに良きものを用意してくださるということを、私たちは信じています。そして私たちは神さまのために働きます。

【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】。私たちの世の中にはイエスさまの御言葉を待っている人たちがおられます。イエスさまの御言葉を必要としている人たちがおられます。サマリアの女性のように、また私たちのように、心の渇きを覚えて、永遠の命に至る水を必要としている人たちがおられます。ですから私たちはそのことのために働きます。わたしが刈り入れたいとか、わたしが種を蒔いたのにということではなくて、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、私たちは神さまのために働きます。

私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、豊かな歩みをしていきたいと思います。



(2024年6月23日平安教会朝礼拝)

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