「イエスさまの言葉に希望を置く」
聖書箇所 ヨハネ4:43-54。211/361。
日時場所 2024年6月30日平安教会朝礼拝式
毎月第一、第三土曜日の午前10時半から、「おっとり学ぶキリスト教」という会をもっています。あまり堅苦しい会でなく、率直に来ておられる方々が、率直に話し合うことができれば良いなあと思っています。いま感じていることなどをお話しくださる方もおられ、「ああ、キリスト教について、そんなふうに思っておられるのだなあ」ということがわかります。
「神さまがおられるのに、どうして世の中には悲しい出来事が起こるのですか」。世界ではいろいろな戦争が行われて、罪のない子どもたちが殺されるというような出来事が起こります。どうしてこんなことが起こるのかということが、私たちの世界では起こるわけです。「それはこういう理由です」と答えられるということでもありませんが、私たちもまた「神さまどうしてですか」との思いをもちつつ、神さまに「御国がきますように」と祈りながら、教会生活を送っています。
いまNHKの朝の連続テレビ小説で「虎に翼」というのをやっています。主人公のモデルは、日本で初めて女性として弁護士になった三淵嘉子(みぶち・よしこ)です。いまドラマは、戦後、家庭裁判所がつくられ、三淵嘉子がそこで働いているところです。戦後、日本国憲法は施行(しこう)されています。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(もんち)により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。しかしそのような世の中になっているかと言えば、そうではないわけです。ましてドラマは戦後、まだ間もない時ですから、世の中は混乱し、だれからも世話をされない戦争孤児たちがあふれています。
日本国憲法第14条に書かれてあるような社会であるわけはありません。いろいろなところで差別が行われていたりします。しかしそれでも戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩んだのです。
清永聡(きよなが・さとし)『家庭裁判所物語』(日本評論社)には、家庭裁判所の父と言われる宇田川潤四郎について書かれてあります。糟谷忠男(かすたに・ただお)という新任の裁判官がいました。どのようにすれば良いのかわからないので、いろいろと先輩に聞いていました。糟谷は、宇田川潤四郎を訪ねて、「少年審判の心得とは何か」と直接質問したそうです。
【糟谷は新任判事補の研修で、宇田川と面識があった。「家庭裁判所の父」として名高い宇田川であれば、役立つテクニックを教えてくれるのではないか。そう考えたのだ。訪ねてきた若い裁判官の質問に、宇田川は大きくうなづくと、こう言った。「ぼくはね、祈るんだ」。予想外の言葉であった。「少年事件をやる時は、審判を受ける少年に祈るんだ。そして拝むんだ。どうか、立派になってくれ。立ち直ってくれと」。宇田川は糟谷の顔の近くまで来ると、おもむろに彼の手を取り、両手で胸の前へと持ち上げ、ぐっと握った。「審判が終われば、こうやって握手をするんだ。いいかい、ここにいる人たちはみんな君の味方だ。君の未来を、一生懸命考えているんだ。どうか、どうか、これから頑張るんだよ。そう言うんだ。 オレ、頑張ろう・・・・・。六〇年あまり前のこの日の思いを語る時、糟谷は今も、涙で言葉を詰まらせる】(P.118)清永聡『家庭裁判所物語』、日本評論社)。
今日の聖書の箇所は「役人の息子をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書4章43−45節にはこうあります。【二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。】。
イエスさまはサマリアの町で、サマリアの人たちに神さまのことを宣べ伝えていました。サマリアの女性がサマリア人たちに、イエスさまのことを紹介したのでした。そのあと、イエスさまはサマリアの町をたって、故郷のガリラヤに帰られます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というのは、まあそうしたこともあるでしょう。小さい時からその人のことを知っているわけです。「赤ちゃんのときに抱っこしてあげた」というような人たちがたくさんいるわけです。「故郷の誉れ」というようなことはあるにしても、「敬う」というのとはまた違った感覚があるということもあると思います。しかしイエスさまはガリラヤの人たちが歓迎を受けました。イエスさまがエルサレムで「神殿から商人を追い出す」というようなことをしていたのを、彼らも見ていたので、「なんかイエスさま、すごいなあ」という雰囲気があったのだと思います。「神殿から商人を追い出す」という話は、ヨハネによる福音書2章13節以下に書かれてあります。新約聖書の166頁です。
ヨハネによる福音書4章46−50節にはこうあります。【イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。】。
イエスさまはガリラヤのカナに行かれます。イエスさまが結婚式に水をぶどう酒に代えるという奇跡を行われた町です。ヨハネによる福音書2章1節以下に「カナでの婚礼」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の165頁です。
カファルナウムに住んでいる王の役人の息子が重い病気にかかり、死にそうになっていました。この役人はイエスさまがカナに来られたということを知り、イエスさまにカファルナウムに来ていただいて、息子の病気を治してもらおうと思い、イエスさまにお願いをします。イエスさまは役人に「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、わたしのことを信じないだろう」と言われました。まあ言葉としてはちょっといじわるな言葉です。しかし役員はそうしたイエスさまの言葉に反応することなく、とにかく自分の子どもが生きているうちいやしにきてくださいと、ただただイエスさまにお願いをします。するとイエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とだけ、役人に言われます。役人はそのイエスさまの言葉を信じて、家に帰りました。
ヨハネによる福音書4章51−54節にはこうあります。【ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。】。
役人は家に帰る途中、僕たちに出会い、息子が元気になってきたことを知らされます。役人は息子がいつ元気になったのかを僕たちに尋ねます。僕たちは「昨日の午後1時に熱が下りました」と答え、それはイエスさまが役人に「あなたの息子は生きる」と言われた時間だということに、役人は気づきました。そして役人も、役人の家族もイエスさまのことを信じるようになりました。
この物語で印象的なのは、役人が「あなたの息子は生きる」と言ったイエスさまの言葉を信じたということです。「そんなことを言われても信じることができません。どうかイエスさま、カファルナウムまできてくださり、わたしの息子をいやしてください」というふうにお願いするのが、まあふつうのことだと思うわけですが、しかし役人はただイエスさまの言葉を信じるのです。
ヨハネによる福音書では、同じように「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書20章34節以下に「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の210頁です。イエスさまは復活されて、トマス以外の弟子たちに合うのですが、トマスは自分だけがあっていなかったので、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。イエスさまはトマスのところにもやってきてくださいます。そしてイエスさまはトマスに言われます。ヨハネによる福音書20章27−29節にはこうあります。【それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。
イエスさまの時代の人たちも、イエスさまをなかなか信じることができずにいた人々も多かったと思います。しかしそれでも、イエスさまの言葉を信じて、私たちの世が神さまの御心にそった世の中になりますようにと祈りつつ歩んでいきました。なかなか信じることはできないけれども、しかしイエスさまの言葉を信じて生きていきたい。そのような思いが、今日の聖書の箇所にも現れているように思います。
役人はただ「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というイエスさまの御言葉を信じて、そしてカファルナウムの家に帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。
その姿は、日本の戦後、日本国憲法第14条を掲げて、歩み始めた人々と似ていると、わたしは思います。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。いまそのような社会でないことは重々承知だけれども、いつの日かそのような社会になってほしい。いつかそのような社会になるはずだ。
いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。1963年8月28日の「ワシントン大行進」のときの演説です。「私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である」。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」。
キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するなのだと言う信仰です。
そして祈るのです。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。
神さまが私たちを守り導いてくださいます。安心して歩んでいきましょう。
(2024年6月30日平安教会朝礼拝式)
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