「イエスさま、す・て・き」
聖書箇所 ヨハネ5:19-36。226/280。
日時場所 2024年7月7日平安教会朝礼拝式
夢のなかで、自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。殺人事件を起こすとか、そういうことではないのですが、「倫理的にどうよ」というようなことをしてしまい、どうなるんだろうと思っていると、夢から覚めるというような感じでしょうか。まあ詳細を覚えているということではないのですが、とにかくなんか良くないことをしてしまい、「ああ、夢でよかった」と思うのです。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、しかしイエスさまの御心に反したことをしてしまう。そうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。自分はどうしようもない弱さを抱えているけれども、イエスさまがわたしを導き、守っていてくださる。わたしの弱さやこころの醜さを知っておられるのだけれど、それでもわたしのことを愛し、励ましてくださる方がおられる。わたしにはすてきな方がついてくださっている。そのように思いながら、自分なりの歩みをしていきます。
今日の聖書の箇所は「御子の権威」という表題のついた聖書の箇所と、「イエスについての証し」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書5章19−23節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。】。
ヨハネによる福音書は、イエスさまが神さまの御子であることを、私たちに伝えています。そして今日の箇所は、イエスさまと神さまとの関係がどのようなものであるのかということを伝えています。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とありますように、イエスさまは神さまの御心にしたがって歩んでおられるということです。自分勝手に好きなことをしているのではないということです。そしてイエスさまは神さまと同じように、悔い改める者に永遠の命を与えられます。神さまは律法による裁きを求められるのではなく、イエスさまにすべてのことを任せられます。
ヨハネによる福音書5章24−27節にはこうあります。【はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである】。
イエスさまの御言葉を信じて、神さまのことを信じる人は、永遠の命を得ることができる。でもイエスさまのことを知らないで死んでしまった人はどうなるのということがあります。イエスさまが生まれる前に生きていた人はどうなの。イエスさまが活動しておられた地域から遠く離れていて、イエスさまのことを知ることができなかった人たちはどうなの。というように、いろいろな疑問があるわけです。しかしそうした細かな疑問に対して、イエスさまは「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」と言われます。イエスさまの力はとても大きなものだから、たとえ死んだ人であったとしても、イエスさまが良きようにしてくださるのだと言うわけです。神さまがイエスさまに力を与えてくださっているのだから、安心しなさいと言うわけです。
ヨハネによる福音書5章28−30節にはこうあります。【驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」】。
「時が来ると」というのは、世の終わり・終末のときということです。世の終わり・終末の時に、善を行なっていた人はよみがえり永遠の命を受ける。そして悪を行なっていた人はよみがえり、そして裁きを受ける。イエスさまは神さまの御心に従って、裁きを行われる。すべてのことにおいて、イエスさまは神さまの御心に従って行われるということです。
ヨハネによる福音書5章31-36節にはこうあります。【「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。】
イエスさまは自分のことを自分で誇るようなことはされないと言われます。神さまがわたしのことを証してくださると、イエスさまは言われます。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを迫り、そしてヨルダン川で洗礼を授けます。洗礼者ヨハネは、燃えて輝くともし火のように、世を照らし、世の不正や不正義を明らかにしました。世の指導者たちは貧しい人々のことを顧みようとはしませんでした。洗礼者ヨハネは指導者たちを糾弾しました。その姿をみて、世の人々は喜びました。しかし洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺されます。そのあと神さまは洗礼者ヨハネとは違った形で、イエスさまを世に遣わされます。イエスさまは世の罪を取り除く神の子羊として、私たちの世に来られます。そしてイエスさまは私たちの罪のために十字架につけられます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」とは、イエスさまの十字架ということです。イエスさまは十字架は、世の人々を救うために、神さまが用意された出来事でした。
イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書は、今日の聖書の箇所でそのように、イエスさまのことを記しています。
フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、イエスさまのお弟子さんのパウロが書いた手紙です。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちが、イエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。新約聖書の363頁です。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。】。
イエスさまは神さまの御子でありながら、僕の身分となり、私たちの世にきてくださいました。そしてへりくだり、謙虚に歩まれました。そして私たちの罪のために十字架についてくださいました。イエスさまは神さまから託された業を行われ、そして高ぶることなく謙虚に歩まれます。
イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初期のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。
(2024年7月7日平安教会朝礼拝式)
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