「イエスさまに守られている」
聖書箇所 ヨハネ10:22-30。289/460。
日時場所 2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝
今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。
年を取りますと、やはり体が痛いというようなことも多くなってきます。また病院にかかることも多くなってきます。わたしは61歳になりました。教会の中ではまだまだ若者という雰囲気がありますが、それでもいろいろなことで病院に通うことが急に多くなりました。わたし自身が「ああ大変だ」というように思うわけですから、わたし以上に年をとっておられる方は、もっと大変なのだろうと思います。若い時のように思うように体が動かないというようなこともありつつ、それでも神さまから命を与えられ、そして「生きよ」と言われていることに感謝をして、神さまが指し示す道を歩んでおられるみなさんはとてもえらいなあと思います。神さまに感謝していきおられる皆さんをみるときに、私たちはとても励まされる思いがいたします。そしてこうして共に神さまを讃美する礼拝を守ることができますことが、こころからの喜びであると感じることができます。
9月6日の金曜日の朝、わたしは左側のお腹と左側の背中が痛くなりました。その日は朝、病院にいくことになっていましたので、すこしはやい時間でしたが、起きて我慢をしていました。食欲がなかったので、牛乳だけを飲んだのですが、いよいよ我慢することができなくなり、「いまから見ていただくことはできますか」ということで病院に電話をかけました。するとだんだと吐き気がして、電話をするのも大変というような感じなりました。「保険証と5千円をもってきてください」ということでしたので、妻に病院まで送ってもらいました。「大丈夫ですか。それではこれに記入してください」と言われたのですが、もう自分で記入できず、お医者さんに書いてもらいました。検尿をして、CT検査をしているうちに、だんだんと落ち着いてきて、結局は尿管結石ということでした。「尿管結石は40代、50代の大の大人が痛くて、痛くて苦しんでいる病気の1つです。『痛みの王様』と呼ばれる病気です!!」ということでした。「死ぬかと思った」というのは大げさですが、ひさしぶりに「病院駆け込まなければ、もうどうしようもない」という感じでした。「結石は大きくないので、自然に出てくるでしょう」ということでしたが、「こんな小さなものに苦しめられるとは、人間とはなんと無力なものなのでしょう」と思いました。
わたしはいまから23年ほど前の2001年に同じように、尿管結石になっています。そのときは妻に、「なんで、身体の中に、石があったりするんやろ。どうせなら、昔話に出てくるダチョウの金(きん)の卵みたいに、石やなくて、金(きん)が身体の中で、できたらいいのになあ」というようなことを言っていました。しかし今回は、そんな冗談を言うことができないほど、苦しかったです。
それでもその後、こうして普通に生活をしているので、「ああ、やっぱり神さまから守られているんだなあ」と思えます。日常生活の中で、大変なことに出会うことが、私たちにはあるわけですが、それでも神さまが御手をもって導いてくださることを信じて、私たちは歩んでいきます。
今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書10章22−24節にはこうあります。【そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」】。
今年度はヨハネによる福音書で話をすることが多いですので、なんとなくユダヤ人の指導者たちがイエスさまのことを信じることができなかったということが書いてある聖書の箇所を読んでいます。今日の聖書の箇所もそんな感じの聖書の箇所です。
神殿奉献記念祭というのはユダヤの「ハヌカ」というお祭りのことです。紀元前2世紀にイスラエルはギリシャ人の支配下にありました。ユダヤ教のおきてを守ることが禁じられていました。ユダヤ人たちはそうした圧政に対してたちあがり、紀元前165年にエルサレム神殿を取戻します。そのことをお祝いするお祭りであるわけです。
イエスさまは神殿の境内のソロモンの回廊を歩いておられました。するとユダヤ人たちがイエスさまのところにやってきて、イエスさまを取り囲みました。そしてユダヤ人たちはイエスさまに「もし自分のことがメシアであるというのであれば、はっきりとそう言ったらよいではないか」と言いました。でもはっきりとそう言うと、ユダヤ人たちは「イエスは神さまを冒涜した」と言って、イエスさまを捕らえるわけです。ですからイエスさまはなかなかはっきりと宣言をされるというのではなく、なんとなくわかるというような発言をされていたということだと思います。
ヨハネによる福音書10章25ー27節にはこうあります。【イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。】。
ユダヤ人たちは「はっきり言え」というわけですが、イエスさまは「わたしははっきり言った」というわけです。はっきり言ったけれども、あなたたちは信じないと言うわけです。でもまあ、ユダヤ人たちはイエスさまを捕らえるために、「はっきり言え」と言っているわけです。イエスさまのことを信じたいというようなことを思っているわけではありません。イエスさまが神さまから託されたわざを行なっているけれども、ユダヤ人たちは信じない。まあそうしたことが重なってくるので、イエスさまも「あなたたちはわたしの羊ではないから信じないのだ」と言うわけです。そして神さまを求めている人たちは、わたしの声を聞き分けて、わたしのことを信じる。わたしは彼らのことを知っている。そして彼らはわたしに従うのだ。と、イエスさまは言われました。
ヨハネによる福音書10章28−30節にはこうあります。【わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」】。
イエスさまはイエスさまを信じる人たちに、「永遠の命を与える」と言われます。イエスさまを信じる人たちは、イエスさまの手から奪うことはできない。父である神さまが、イエスさまに力を与えてくださっている。神さまが与えてくださったものであるので、それらは偉大なものであり、そしてだれもそれを奪うことはできない。そのようにイエスさまは言われました。
私たちはイエスさまの羊です。イエスさまの言葉を信じ、イエスさまが神さまの御子であることを知っています。神さまがイエスさまに力を与えてくださり、イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心を行ないます。そして私たちに永遠の命を与えてくださいます。私たちはそうした力強いイエスさまに守られて生かされています。
イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。思えば、私たちはとても大きな安らぎのうちを歩んでいるのです。「わたしは永遠の命を約束されている」「わたしは決して滅びることはない」「わたしはいつもイエスさまの御手のうちに生きている」。イエスさまの御言葉を聞くときに、わたしはとても安心いたします。尿管結石で不安になっていたのが、うそのような気がします。
私たちはだれからも奪われることのない幸いを手にしています。この世の多くのものは私たちの手から失われていきます。もっと若いときは元気だったのに。もっと若いときは転んでもケガをするというようなことはなかったのに。年をとってくると、体の衰えを感じるということが確かにあります。
しかしどんなに年をとったとしても、私たちはイエスさまのお守りのうちに生きています。イエスさまは「だれもわたしからあなたを奪うことはできない」と、私たちに言ってくださっています。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。イエスさまの御声を聞きつつ、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。イエスさまは私たちをしっかりと受けとめてくださり、私たちに安らぎを与えてくださいます。
(2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝)
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