「ただ、神さまの愛がある」
聖書箇所 マタイによる福音書5章43ー48節
日時場所 2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい
童話作家の新美南吉の「ごんぎつね」は、よく国語の教科書でとりあげられる作品です。道徳の教材などにも使われたりするので、何となくうまく使われてしまっているような気がするわけですが、しかし新美南吉自身は、愛国主義的な教育が嫌いでした。
こんなことを書いています。(P235.236)(堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』、河出書房新社)
【昨日午後われわれの講堂で講演会が行はれた。この頃はやりのなんでもかんでも日本は有難いくに、よい国、なんでもかんでも西洋は個人主義の嫌らしい国といふ千ぺん一律の話をするのはくそ面白くない会の一つだ】(昭和一五年二月一五日の日記)
【教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか】(友人・河合弘に宛てた手紙、昭和一五年九月二二日)
「ごんぎつね」とか「てぶくろをかいに」といった、児童文学を書いている新美南吉からは想像できないような言葉遣いです。「くそ面白くない」とか「教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか」。
新美南吉は四歳で母と死に別れます。あまりに深い孤独を感じたため、安易に感動をもとめるような世の中のあり方には、新美南吉はなじむことができなかったのだと思います。
わたしの好きな新美南吉の詩に、「天国」という詩があります。
【天国
おかあさんたちは
みんな一つの、天国をもっています。
どのおかあさんも
どのおかあさんももっています。
それはやさしい背中です。
どのおかあさんの背中でも
赤ちゃんが眠ったことがありました。
背中はあっちこっちにゆれました。
子どもたちは
おかあさんの背中を
ほんとの天国だとおもっていました。
おかあさんたちは
みんな一つの、天国をもっています。】(新美南吉『新美南吉詩集』、ハルキ文庫)。
新美南吉が小さな頃、お母さんは天に召されました。新美南吉が4才のときです。ですから新美南吉のお母さんに対する思い入れは、とても大きいものだったと思います。
【おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。どのおかあさんも どのおかあさんももっています】。そのように言われると、「おかあさんはうれしい」という面と、「どうしてお母さんだけに子育てを押し付けるのか」という批判も出るのではないかと思います。「最近はこどもを背負っているお母さんをあまり見たことがない」ということもあるかと思います。しかしそれでも【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。】と言われると、なんとなく体験的にそんな感じがします。
「おとうさんの背中は天国ではないのか」という疑問もないわけではないです。もちろんお父さんの背中が天国である場合もあると思います。わたしはそうしたことよりも、だれしも天国を持っているということが大切なのだと思います。お母さんであろうとお父さんであろうとおじいさんであろうとおばあさんであろうと、なんらかの天国をもっている。ただそのことに気づかないということが人間にはあります。【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています】。
人は自分のもっているものに気がつかないということがあります。大切なものを神さまから与えられているにも関わらず、そのことに気がつかないということがあります。それはおかあさんの背中ばかりではなく、お父さんの肩であるかもしれません。いろいろな賜物を与えられているにもかかわらず、そのことに気がつかないということがあります。また人は自分がだれかからとても愛されているということに気がつかないということがあります。たとえば父親や母親からどんなに愛されていたのかわからないということがあります。自分が母親や父親になって、「ああ、母は、自分のことをこんなふうに愛してくれていたのだろう」と気がつくというようなことがあります。だけれども中学生・高校生の時は親はとてもうっとうしく感じるということがあったりします。なかなか人は愛を理解することができなかったりします。
父や母、あるいは家族や友人だけでなく、私たちは神さまからどんなに愛されていても、気がつかないということがあります。神さまのことなど忘れて、勝手に遊びに行ってしまうこともありますし、まあちょっと仕事をしなければと思ったりもします。私たちは神さまからどんなに愛されているのか知らずに、自分勝手なことをします。そして時に神さまに反抗したり、神さまに不平を言ったりします。しかしそれでも神さまは辛抱強く私たちを導き、私たちを愛して下さっています。
今日の聖書の箇所は「敵を愛しなさい」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまは神さまの愛ということについては、極端なことも言われます。マタイによる福音書5章44節には【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】とあります。【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】といわれると、「いや、そんなできないだろう」というふうに思えます。自分にいじわるをする人を愛することはできないし、わたしに暴力を振るうような人を愛することはできないと思えます。
しかし愛するということの前に、何か理由があるというのも、さみしいわけです。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか」と言っておられます。自分に何かいいことをしてくれるから、この人のことを愛してあげるというのも、ちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。何かいいものをくれるとか、この人はできがいいから愛してあげるというのは、それはちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。
マタイによる福音書5章45節にはこうあります。【あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである】。神さまの愛は悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも注がれる。それは神さまが愛について資格を問うておられるわけではないからです。ふさわしいとか、ふさわしくないとかということが、神さまの愛が注がれることの前提ではないからです。
私たちは愛ということの前に、権利とか資格ということを問題にしがちですが、しかしイエスさまは言われるのです。私たちに権利があるとか資格があるということが大切なのではない。神さまの愛があるということが大切なのだ。神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。それは私たちにそれを受ける権利があるとか、私たちにそれを受ける資格があるとか、そういうことではない。ただ神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。そのことが大切なのだ。
愛ということを考える時に、イエスさまはまず「あなたが神さまからただ愛されている」ことが大切なのだと言われました。あなたが優秀だから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。あなたが良いことをするから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。神さまは、ただ、あなたを愛しておられる。神さまは、ただ、あなたのことが大好きなのだ。
神さまの愛に私たちがふさわしいのかと言えば、そういうわけでもありません。私たちの心の中には、良くない思いもあります。また人を傷つけてしまいようなことを行ってしまったり、じっさいに行ってしまったりすることもあります。神さまの愛にふさわしいとは思えない私たちがいます。
でも神さまはただ、私たちを愛してくださっています。私たちはそうした慈しみ深い神さまの愛の中に生かされています。どんなときも、神さまは私たちを愛してくださり、私たちを見守ってくださっています。
神さまがわたしを愛してくださっているということを、こころにしっかりと受けとめて、安心して歩んでいきましょう。
(2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)
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