2024年10月3日木曜日

9月29日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「神の栄光のために」

「神の栄光のために」

  

日時場所 2024年9月29日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ11:1-16。434/532。

ご家族を天に送ったり、ご友人を天に送ったりすることが、私たちにはあります。悲しみと嘆きの中、大切な人を天に送ります。

「人の死をどのように考えたらいいのか」。「肉親をなくされた方に、なんと声をかければいいのか」。私たちは死にまつわることについて、「これが正解です」という答えをもっていません。その人との今までの人間関係がどうであったかということでも違います。またその人の現在の精神状態によっても違います。正解があるわけではありません。

私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」「神さまはどうしてこんなことをなさったのだろう」と思います。わたし自身もそうした思いにかられるときがあります。わたしはわたしの母がアルツハイマーになったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

昔、教会員の方の御家族が天に召されて、仏式の葬儀に参列したことがあります。そのときの葬儀でくりかえし語られ、印象に残っていることは、「人間のむなしさ、はかなさ」ということでした。「昨日生きていても今日は死んでいるかもしれない人間のはかなさを思い、私たちも心して過さなければならない」ということが語られていました。わたしもたしかに人間ははかないと思います。聖書でも人間のはかなさということが語られます。人間は土の器であり、結局は死んでしまうむなしいものであるということが語られます。しかしわたしは人間のはかなさということを思いながらも、はたして人間の生と死とは、そのようにはかないということだけなのかということがそのとき、妙にひっかかりました。

御家族を天に送られたその教会員の方は御家族の死に際して、「【神さまはどうして!】ということより、【神さまはなんのために】ということを考えている」というふうに言っておられました。今日の聖書の箇所は、「ラザロの死」という表題のついた聖書の箇所です。【神さまはなんのために】という訴えに対して、聖書はヨハネによる福音書11章4節で、【神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである】と語っています。この聖書の箇所を心にとめながら、すこし聖書を読んでいきたいと思います。

ヨハネによる福音書11章1ー2節にはこうあります。【ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった】。マリアがイエスさまに香油をぬった話は、ヨハネによる福音書12章に出てきます。新約聖書の191頁です。ラザロの家族はイエスさまにとって特別な家族であったようです。そのラザロの病状はどうもよくありません。

ヨハネによる福音書11章3−4節にはこうあります。【姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」】。マリアとマルタは、イエスさまのもとに使いの者を走らせ、イエスさまに来てもらおうとします。使いの者に、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。マルタとマリアは自分の兄弟のラザロが、イエスさまによっていやされなければ死んでしまうと思い、あせります。しかしそれに対して、イエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

ヨハネによる福音書11章5−10節にはこうあります。【イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう」。弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。イエスはお答になった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」】。

イエスさまはマルタとマリアとラザロを愛しておられました。そして彼らのところにいかなければというふうに思っておられました。しかしイエスさまはラザロが病気だと聞いてからも、どういう事情か、なお二日間同じ所に滞在を余儀なくされます。そしてそれから弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言われました。弟子たちは乗り気ではありません。弟子たちはイエスさまに「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言いました。それに対して、イエスさまは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われ、まだ神さまが定めたわたしがつかまり十字架にかけられるときは来ていないから、大丈夫だと言われました。そしていまのうちにすべきことを一生懸命にしなければならないと弟子たちを戒めました。

ヨハネによる福音書11章11-16節にはこうあります。【こうお話になり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」。すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】。

イエスさまは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。それに対して弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。しかしこのときすでにラザロは死んでいました。イエスさまははっきりと弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と言われました。それに対して、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言い、イエスさまに付き従っていこうとみんなに呼びかけました。

イエスさまが弟子たちと一緒にラザロのところにいくと、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。もう完全に死んでしまっていたのです。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで慰めに来ていました。マルタは、イエスさまが来られたと聞いて、迎えに行きました。マルタはいつも気丈なしっかりした女でした。マルタはイエスさまを迎えにいきましたが、マリアは家の中で座っていました。マルタはイエスさまに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。そして「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」とも言いました。それに対してイエスさまは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。イエスさsまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問いかけました。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。

イエスさまは危険を犯してラザロのところに来られました。弟子たちが「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」というふうに言っているように、イエスさまは危険を承知で、ラザロのところに行かれたのでした。ヨハネによる福音書11章16節に、【すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】とありますように、イエスさまの周りの状況はかなり悪く、イエスさまをつかまえようとしている人々がおり、そして捕まってしまうともう殺されてしまうだろうというような状況になっていたのでした。しかしそうしたことを承知の上で、イエスさまは危険を顧みず、ラザロのところに来られたのでした。

イエスさまは私たちが嘆き悲しんでいるところに、かならず来てくださいます。そこに来ることがイエスさまにとってどんなに困難であったとしても、またイエスさまご自身にどんなことが降かかってくるかもわからなくても、イエスさまは私たちのところに来てくださいます。それだけ私たちひとりひとりは、神さまの前に、大切なかけがえのないものであるということです。私たちはだれひとりとして、いなくてもいいということはないということです。

そしてイエスさまは「死が終わりではない」と言っておられます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。私たちはふつう死んでしまったら、終わりであるというふうに考えます。私たちは天に召された人たちに、いま会うことはできません。この世での生活は天に召されることによって、否応なく終わりとなります。そういう意味では死は終わりです。しかしだからと言って、天に召されたことがすべてむなしい、はかないことであるのではないのです。人の死は、むなしさ・はかなさを感じさせるのと同時に、また私たちに力を与えるものであると、聖書は私たちに語っています。

ラザロの死と復活というのは、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめていると言われます。イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだというふうに言われます。ラザロの死と復活という出来事は、特別な意味があるのです。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストがラザロに対してかけられた愛は、ラザロに対してだけ特別にかけられた愛というのではないのです。

イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、愛をそそがれます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」という言葉を聞くとき、キリスト者として私たちがイエスさまから愛され、またきびしく問われているということです。イエスさまは悲しんでおられる人々、悩みを担っておられる人々、苦しんでおられる人々と共に歩まれた方でした。そしてその苦しみや悲しみという重荷を共に担って歩いてくださる方でありました。人の死によって、その人のこの世での人生は終わります。しかしその人が苦しいとき、悲しいとき、あるいは喜びのときも、イエス・キリストが共にいてくださり、そして慰めを与え、重荷を担い、そして喜びをわかちあってくださったということは、残された私たちにとって大きな励ましであり、慰めとなります。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。この言葉はとても印象的な言葉です。これとよく似た言葉が、ヨハネによる福音書9章3節にあります。新約聖書の184頁です。ヨハネによる福音書9章1節以下に「生れつきの盲人をいやす」という表題のついた聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書9章1−3節にはこうあります。【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」】。生まれつき目の見えない人に対して、イエスは「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。ヨハネによる福音書11章37節に「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という言葉がありますように、ラザロの話と盲人の話は、関連のある話として語られています。

人々は盲人が目が見えないことについて、「神さまはどうして!」という質問をします。そして自分たちのうちで答えをだします。「ばちがあたったからだ」「両親が悪いことをしたからだ」。それに対してイエスさまは「神さまは何のために」という答えを出しました。「神の業がこの人に現れるためにである」。またラザロの死についても、人々はたぶん「神さまはどうして!」という質問をしただろうと思います。それに対してイエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。また人から見れば、絶望であり、むなしさやはかなさという出来事でしかない死ということについても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。イエスさまは悲しみ苦しみ悩みの中にある出来事、人から見ると不幸という言葉で括られてしまう出来事を経験している人々に、それは不幸ではなく、神さまの出来事なんだ。「神の栄光のための出来事なんだ」というふうに言われたのでした。

人の死という悲しみの出来事、絶望に思える出来事を、イエスさまは「それは神さまの出来事である」と言われました。それは私たちが経験するすべてのことにおいて、私たちは神さまの祝福の中にあるということです。死という、人間から見れば、むなしさやはかなさ、あるいは絶望ということ以外思いつかない出来事も、神さまは栄光の出来事へと導いてくださるのです。

「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまはそのように言われました。イエスさまは空言(そらごと)としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。


(2024年9月29日平安教会朝礼拝)

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