「私たちに寄り添うイエスさま」
聖書箇所 ヨハネ11:28-44。437/487。
日時場所 2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日
今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。世界中のクリスチャンと共に、聖餐にあずかり、私たちが神さまの民として歩んでいることを、こころにとめたいと思います。同じ神さまを信じる人たちが、日本の中だけでなく、世界にいて、そして共に祈りあいつつ歩んでいます。とても幸いなことだと思います。私たちと姉妹教会であるアメリカのサンディエゴのPOV教会の通信にも、世界聖餐日の喜びについて書かれてありました。
世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都教会でもたれます。午後3時からもたれます。
日常生活をしていると、いろいろなことで後悔したり、落ち込んだりすることがあります。最近、わたしもあることで、気落ちすることがありました。「あんなこと言わなければ良かった」と思ったり、「そういうつもりではないのだけれど、なんかうまく説明することができず、なんかだめなことになったなあ」と思ったり、「自分の悪いところが出てしまったのだろうなあ」と反省したり。いろいろと自己分析をしながら、なんとなく悶々と過ごしていました。あまり良い人間ではないので、メッキがはがれるということがあるので、それはまあ仕方がないかなあとも思いました。みなさんにもあることと思いますが、やっぱり日常生活の中で、私たちはいろいろなことで悩み、落ち込んだりします。
そうしたときふと父や母のことを思い出すことがあります。わたしの母はもう24年前に天に召されています。父は3年前に召されています。思い出すというのは、「ああもう父も母もいないんだ」ということを思い出すのです。父が生きているとき、わたしは「元気にしているか」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか、なんか用か」と言いました。別に用事があって電話をしているのではなく、わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。
今日の聖書の箇所にも「主よ、もしここにいてくださいましら」という印象的な言葉が出てきます。今日の聖書の箇所は、「イエス、涙を流す」「イエス、ラザロを生き返らせる」という表題のついた聖書の箇所です。先週の聖書の箇所の続きの箇所です。イエスさまの友人のラザロが死に、ラザロのところにイエスさまがかけつけているという流れになります。ラザロは墓に葬られて四日たっています。ラザロの兄弟姉妹であるマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが慰めにやってきていました。マルタはイエスさまが来られたと聞いて、イエスさまを迎えにいき、そしてイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
そして今日の聖書の箇所では、マルタの姉妹、マリアがイエスさまに会うことになります。ヨハネによる福音書11章28ー32節にはこうあります。【マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った】。
マルタはマリアに、イエスさまがマリアを呼んでいることを伝えます。マリアはイエスさまのところに行くために、立ち上がりました。マルタやマリアを慰めに来ていた人たちは、マリアが悲しくて悲しくてたまらなくなったから、ラザロのお墓に泣きに行こうとしているのだろうと思います。マリアはイエスさまのところに来て、そしてイエスさまの足もとにひれ伏しました。そしてマリアはイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
マルタもマリアも同じように、「イエスさまがここにいてくださった」「イエスさまがここにいてくださったら、ラザロは死ぬことはなかったでしょうに」と言います。マルタもマリアも、そして私たちも、「イエスさまがここにいてくださった、こんなことになるはずがないのに」と思うのです。どうしようもない悲しみやつらい出来事に出会うとき、「イエスさまさえここにいてくださった」と思うのです。
ヨハネによる福音書11章33ー37節にはこうあります。【イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた】。
みんなラザロの死を悼んで、悲しみ、泣いています。マリアも、また一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。イエスさまもそれを見て、感情をあらわにされます。イエスさまは人々に「ラザロをどこに葬ったのか」と言われ、人々に案内をしてもらいます。イエスさまもまた涙を流されます。その様子をみて、人々は「この人も、ラザロのことをどんなに愛しておられただろう」と嘆きます。しかし「この人もラザロを死なないようにはできなかった」と、人々は言いました。
ヨハネによる福音書11章38−40節にはこうあります。【イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。】。
このラザロの死に関しては、イエスさまはいつもの落ち着いたイエスさまではありません。「心に憤りを覚え、興奮したり」「泣いたり」「再び心に憤りを覚えたり」されます。愛するラザロに死に際して、イエスさまもまたいつものように振る舞うことはできないのです。
イエスさまはラザロの墓に来て、墓の中にいるラザロに会いに行こうとします。しかしラザロの姉妹のマルタは、「イエスさま、もう四日もたっているので、だめなのです」と言います。しかしイエスさまは「わたしを信じることができるのなら、神さまの栄光を見ることができる」と、あなたに言っておいたではないかと、マルタに言いました。
ヨハネによる福音書11章41−44節にはこうあります。【人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。】。
イエスさまは、神さまに祈り、そしてラザロに命を与えられます。神さまはイエスさまの願いを聞いてくださり、そしてラザロに命を与えてくださいました。イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」と言われ、ラザロは手足を布でまかれ、顔を覆いで包まれたまま、人々の前に現れます。
イエスさまは神さまの御子だから、何でもできるんだという思いが、私たちにはあります。ですからラザロの復活の出来事のなかで、「まあ、そうなんだろうなあ」というふうに思います。
ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」と言われますから、合理的に考えると、イエスさまはラザロの死に際して、何も心配はしておられないということなのでしょう。神さまがラザロを必ず復活させてくださるということを、イエスさまは信じています。しかしイエスさまはラザロの死に際して、私たちと同じように、心に憤りを覚えたり、私たちと同じように、泣いたりされるのです。
わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。
日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。
ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、なさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。
ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。
どんなときも、イエスさまは私たちと共にいてくださる。私たちはそのことを信じて生きています。つらいとき、かなしいとき、また自分のなさけなさやいやになり、こんなわたしのことはだれも気にかけてくれることはないのではないかと思える時も、イエス・キリストは私たちと共にいてくださいます。
イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。
(2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日)
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