2024年11月15日金曜日

11月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「謙虚な人として生きる」

「謙虚な人として生きる」

聖書箇所 マタイ3:7-12。461/465。

日時場所 2024年11月10日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝


今日は聖徒の日です。先に天に召された方々を覚え、ご家族の方々と共に、礼拝を守っています。愛する人を天に送られたご家族の皆様は、とても悲しい思いをしておられることと思います。神さまの慰めがありますようにとお祈りいたします。

みなさんのご家族は、この平安教会で日曜日に礼拝を守っておられました。毎日曜日に教会に集い、聖書を読み、賛美歌を歌い、こころを合わせて祈っておられました。ご家族のみなさんもぜひ教会にいらしてください。そのことを天に召された方々はとても喜んでおられることと思います。 

教育情報サイトのベネッセの、「小学生のあこがれの人ランキング」というのがあります。毎年ランキングをつけているようです。2023年のランキング1位は、友達です。2位はお母さん、3位は星野アイ『推しの子』(注:マンガの主人公)、4位は学校の先生、5位はSnow Manだそうです。ちなみに6位は大谷翔平です。小学生ですから身近な人が多いようです。2022年も1位は友達、2位はお母さんです。2020年は1位が、竈門炭治郎かまどたんじろう(鬼滅の刃)で、2位はお母さんです。2020年は1位から10位まで、お母さん、先生、お父さん以外の7名はみんな鬼滅の刃の主人公でした。胡蝶しのぶ(鬼滅の刃)こちょうしのぶ。冨岡義勇(鬼滅の刃)とみおかぎゆう。竈門禰豆子(鬼滅の刃)かまどねずこ。煉獄杏寿郎(鬼滅の刃)れんごくきょうじゅろう。我妻善逸(鬼滅の刃)あがつまぜんいつ。時透無一郎(鬼滅の刃)ときとうむいちろう。竈門炭治郎が1位であるのは、竈門炭治郎が倫理的であるからです。憧れているところとして「誰にでも優しい」「家族想(おも)い」「あきらめずにがんばる」「炭治郎のことを思い出すとがんばれる」が挙げられている。ということのようです。やっぱりいまの小学生にとっても「誰にでも優しい」ということは大切なことのようです。お母さんや先生、お父さんなどがあこがれの人としてあげられるのは、身近で自分のために配慮をしてくれるからでしょうし、良き手本であるということでしょう。

今日の聖書の箇所に出てくる、洗礼者ヨハネという人は人気のある人でした。当時の人々にとっては、ランキングの高い人だったと思います。ちょっと怖い人でもありました。

今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。洗礼者ヨハネはイエスさまより先に生まれた人です。洗礼者ヨハネは神さまに従って歩んでいない人々に悔い改めを迫りました。世の終わりが近づいているので、悔い改めて、神さまを信じなさい」と呼びかけました。そして悔い改めた人々にヨルダン川で洗礼を授けていました。洗礼者ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯をしていました。ですからちょっと怖い人という印象があります。今日の聖書の箇所でも、洗礼者ヨハネの言葉はちょっと恐ろしい感じがします。

マタイによる福音書3章7−10節にはこうあります。【ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。】。

洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派というユダヤの指導者たちが、洗礼を受けにきたときに、彼らを叱りつけます。だれが、おまえたちに、「洗礼を受けたら、神さまの怒りを受けることがない」と教えたのか。悔い改めて、神さまの御心にかなった良き業を行なえ。私たちの先祖はアブラハムだから、神さまは許してくださるに違いないなどと思うな。神さまはこんな石からでも、アブラハムの子孫をお作りになることができる。もうお前たちを裁くための斧は用意されているのだ。おまえたちは良き業を行なわないのであれば、おまえたちは裁かれて、そして火に投げ込まれるだろう。そのように洗礼者ヨハネはユダヤの指導者たちを責め立てました。

マタイによる福音書3章11−12節にはこうあります。【わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」】。

洗礼者ヨハネは自分のあとから自分より優れた方が現れると言いました。イエス・キリストのことです。自分はイエスさまの履物を脱がせる値打ちもないと、洗礼者ヨハネは言いました。履物を脱がすのは、当時、奴隷の仕事でした。イエスさまは聖霊と火で洗礼をお授けになる。そして脱穀場をきれいに掃除をするように、すべてのことについて最終的な裁きを行われる。そのように洗礼者ヨハネは言いました。

洗礼者ヨハネはとても激しい人です。言葉遣いも荒いですし、言っていることも本当のことだとは思いますが、でももうちょっとやさしい言い方ができないものだろうかというふうにも思います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。まあ、そうだとは思いますが、でもやっぱり怖いなあと思えます。昔の人はよくこんな怖い人のところに行って、洗礼を受けたものだと思います。

洗礼者ヨハネはとても激しい人であったわけですが、しかしとても謙虚な人でありました。洗礼者ヨハネは自分のあとからやってくる救い主イエス・キリストについて、自分はその履物をお脱がせする値打ちもないと言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」。洗礼者ヨハネはとても激しい人でしたが、しかし自分のことを誇ったりすることのない人でした。

天に召された皆様のご家族も、神さまの前にはとても謙虚な人たちでした。神さまを信じている。イエスさまを信じているということは、そういうことです。人に対しては、だれしも高慢になったりすることがあります。しかし神さまの前には、人は謙虚にならざるを得ないのです。自分のすべてを納めておられる神さまの前には、人は謙虚にならざるを得ないのです。皆さんのご家族もまた、神さまを信じ、イエス・キリストを信じて歩まれました。神さまの前に謙虚な思いをもって生きられました。

私たちもまた先に召された先達と同じように、神さまの前に謙虚なものでありたいと思います。自分が神さまの前に立たされているひとりの人間であるという思いをしっかりともつ時に、人は良き人として歩むことができます。神さまがわたしのことをみていてくださる。神さまがわたしのことを支えてくださる。神さまがわたしのことを愛してくださっている。そのように思えるとき、私たちは私たちの人生を、恐れることなく、希望をもって歩むことができるのです。

皆さんのご家族があゆまれたように、神さまの前に謙虚な人として歩んでいきたいと思います。ここに集われたお一人お一人のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

   


(2024年11月10日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝)

11月3日平安教会礼拝説教要旨(関谷直人牧師)「新しい歌を主に向かってうたえ!」 

2024年11月3日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「新しい歌を主に向かってうたえ!」 関谷直人牧師

詩編 96:1-4節

平安教会では毎年、11月3日にバザーを行なってきました。11月3日が日曜日のときは、その前後で行なってきました。ことしはどうしようかとバザー委員会で話し合った結果、11月3日(日)に礼拝からバザーを始めるということにいたしました。そして音楽礼拝のような形でもつことにいたしました。音楽でメッセージを語ってくださる方はおられないかと考え、同志社大学神学部の教授の関谷直人牧師にお願いをいたしました。バザーの名称も、「バザー賛美フェス」といたしました。

関谷直人牧師が歌ってくださった歌の一曲目は、「君は愛されるために生まれた」でした。2000年代に韓国でよく歌われた賛美歌です。韓国で自死が多くあったときに、こころを痛めた方が作られた賛美歌ということです。

君は愛されるため生まれた

君の生涯は愛で満ちている

君は愛されるためにうまれた

君の生涯は愛に満ちている

永遠の神の愛は

われらの出会いの中で実を結ぶ

君の存在が 私には

どれほど大きな喜びでしょう

君は愛されるためうまれた

今もその愛受けている

君は愛されるため生まれた

今もその愛受けている

そのほか、こどもさんびか改訂版の「きみがすきだって」、こどもさんびか改訂版の「かなしいことがあっても」、「土の器」「帰り道」「感謝します」「勝利者」「うるわしの白百合」「イェス君イェス君」を歌ってくださいました。

 ふだんとは少しちがった賛美歌にふれながら、とても力強い神さまの愛を感じることができました。ゆたかなときをバザー賛美フェスにきてくださった方々と共にわかちあうことができました。            (記:小笠原純)


2024年11月8日金曜日

10月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしは神さまのすてきな人」

「わたしは神さまのすてきな人」

聖書箇所 マタイ10:28-33。6/542。

日時場所 2024年10月27日平安教会朝礼拝式

  

わたしが小さい頃になかったもので、いまふつうに使われている文房具に、ポスト・イットというものがあります。みなさんも付箋として、いろいろなものに貼り付けて、メモ書きをしたりして使っておられると思います。ポスト・イットは1980年に3M(スリーエム)という会社が発売をしました。わたしが高校生のときです。

ポスト・イットはこういうものを作ろうと思って、作られたものではありません。1970年、3Mの調査研究室で働いていたスペンサー・シルヴァーは、協力な接着剤を作ろうとおもって実験をしていました。でもできた接着剤は、接着力の弱い接着剤で、くっつくけれども、かんたんにはがせてしまうというものでした。その接着剤が何に使えるか、だれも思いつかなかったのですが、シルヴァーはそれを捨ててしまうということはしませんでした。それから4年後のある日曜日に、3M(スリーエム)の研究者だったアーサー・フライは、教会の聖歌隊で歌っていました。アーサー・フライは賛美歌の自分の歌うページにしおりをはさんでいたのですが、それが賛美歌からすぐに落ちてしまいます。アーサー・フライはそのとき、シルヴァーが開発した接着剤を思い出します。そしてそれを自分のしおりに塗ってみました。その弱い接着剤はしおりをしっかりと固定し、そして賛美歌を傷つけることはありませんでした。こうしてポスト・イットは製品開発されて、売り出されることになります。

ポスト・イットは言わば、失敗から生まれた製品です。「ああ、失敗だった」と思えることであっても、状況が変わったり、用いられ方が変わったりすることによって、「いや、ぜんぜん、失敗ということじゃなかった」というようなことも起こるわけです。私たちは小さな失敗を気にして、「ああ、わたしはだめだ」というように思いがちですし、「この前、失敗したから、もうやらない」というような思いになりがちです。でもあまり恐れることなく、前向きな気持ちになって行なっていくということも、また大切なことだと思います。

今日の聖書の箇所は「恐るべき者」という表題のついた聖書の箇所の一部です。今日の聖書の箇所の前の聖書の箇所は「迫害を予告する」という表題のついた聖書の箇所となっています。初期のキリスト教はいろいろな迫害にあいました。今日の聖書の箇所も、そうした流れの中に位置づけられています。またイエスさまご自身も、ファリサイ派の人々や律法学者たちといろいろなところで対立していました。ユダヤの指導者たちは、自分たちに批判的なイエスさまを殺そうと計画をしていきます。

マタイによる福音書10章28節にはこうあります。【体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい】。

イエスさまは勇気がある方ですから、威勢の良いことを言われます。しかしまあ私たちはいつもびくびくとした思いを持ちながら生活しますから、「体を殺しても」と言われても、「いや、体殺されたらやっぱりいやだなあ」とも思えます。迫害にあうのも嫌ですし、つらいめにあうのもいやだなあと思います。しかしそうは言っても、人生の中でいろいろな困難な出来事に出会います。「いやだ」と言っても、向こうからやってくることがあるわけです。イエスさまの弟子たちもそうだったと思います。迫害にあうことを好むわけではないですが、しかしイエスさまに付き従って歩むときに、困難な出来事に出会うことがあったのです。

困難な出来事に出会う人々に対して、イエスさまは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました。もしかしたら危害を加えられるような出来事が起こるかも知れないけれども、それは私たちの魂に関わることではないと、イエスさまは言われます。それは私たちの魂は、神さまのものであり、神さまによって守られているからです。だから困難な出来事にあっても、魂を売り渡すようなことをしてはだめだと、イエスさまは言われました。私たちの命はつかさどっておられる方は、神さまであり、恐れるべき方は、神さまであると、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書10章29−31節にはこうあります。【二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」】。

聖書の後ろのほうに、「度量衡および通貨」というところがあります。それによりますと、「アサリオン」というのは貨幣の単位で、「ローマの青銅貨で、1デナリオンの1/16」ということです。1デナリオンというのは、「ローマの銀貨で、1ドラクメと等価(1日の賃金に当たる)」ということです。1日の賃金を1万円とすると、1アサリオンは625円です。二羽の雀は625円ですから、一羽の雀は315円くらいでしょうか。でも一羽で買うことはできず、二羽で売っているわけです。そんな細かい商売はできないわけです。でも神さまはその1羽の雀に目をとめてくださっています。小さな1羽の雀のことを心に留めてくださっている神さまは、あなたのことを心に留めてくださらないわけがない。神さまはあなたの髪の毛の一本一本をも心に留めてくださっている。だから恐れることなく、神さまにお委ねして歩みなさいと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書10章32−33節にはこうあります。【「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」】。

イエスさまはなかなか激しいことを言われます。二つに一つ、どちらかだと言われるわけです。人々の前で、「わたしはイエスさまの仲間だ」という人に対して、イエスさまはその人のことを、神さまの前で「この人はわたしの仲間だ」と言う。でも人々の前で、「わたしはイエスさまのことを知らない」という人に対しては、イエスさまも神さまの前で、「この人のことはわたしは知らない」という。二つに一つ。イエスさまを信じて、イエスさまについて行くのか、どうかということが問われているわけです。

厳しい話と言えば、厳しい話であるわけですが、迫害を受けるという状況の中の話であるわけですから、どちらにしても二つに一つであるわけです。イエスさまを信じるのであれば、迫害を受けることになります。イエスさまを信じないのであれば、神さまから祝福を受けることができないということです。そして、【体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい】と、イエスさまは言われるのです。

私たちは信仰の弱い者ですから、「二つに一つ」とか、「どちらかだ」というふうに言われると、もうどうしたら良いのかわからなくなります。イエスさまは「二つに一つ」「どちらかだ」というふうに言われるわけですが、しかし同時に神さまは力強い方であり、その力強い方が、私たちを守り導いてくださっていると教えてくださいます。

私たちは神さまの大いなる御手のうちに守られているのです。私たちは信仰の弱い者で、すぐに恐れたり、だまだと思ったりするけれども、私たちの失敗を良いものに変えてくださる神さまがおられます。イエスさまのお弟子さんたちはいろいろな失敗をしています。使徒ヤコブと使徒ヨハネは、イエスさまに「私たちを他の弟子たちよりもえらくしてほしい」と言いました。マルコによる福音書10章35節以下に、「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の個所があります。新約聖書の82頁です。【ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」】と言いました。イエスさまはヤコブとヨハネに言われました。【「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」】。

また、使徒ペトロは、イエスさまのことを三度知らないと言いました。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、みんな逃げ出してしまいました。そうした失敗をしたわけですが、しかしその失敗を、神さまは豊かに用いてくださり、弟子たちが悔い改めて歩み出す信仰を与えてくださいました。

大切なことは、「私たちが失敗をする愚かな人間である」ということではありません。神さまが私たちのことを愛してくださっているということが大切なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、イエスさまは言われました。イエスさまは私たちが「神さまのすてきな人」なのだと言われました。

神さまは小さな雀をも心にとめておられる。あなたの髪の毛一本のことも、神さまは気にかけてくださっている。あなたは神さまのすてきな人なのだ。だから「恐れるな」。恐れず、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまに付き従った歩んでいきなさい。神さまのすてきな人として、神さまにふさわしく小さな良き業に励みなさい。

神さまが私たちを愛してくださっています。そのことをしっかりと受けとめて歩んでいきたいと思います。



(2024年10月27日平安教会朝礼拝式)



12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》