「謙虚な人として生きる」
聖書箇所 マタイ3:7-12。461/465。
日時場所 2024年11月10日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝
今日は聖徒の日です。先に天に召された方々を覚え、ご家族の方々と共に、礼拝を守っています。愛する人を天に送られたご家族の皆様は、とても悲しい思いをしておられることと思います。神さまの慰めがありますようにとお祈りいたします。
みなさんのご家族は、この平安教会で日曜日に礼拝を守っておられました。毎日曜日に教会に集い、聖書を読み、賛美歌を歌い、こころを合わせて祈っておられました。ご家族のみなさんもぜひ教会にいらしてください。そのことを天に召された方々はとても喜んでおられることと思います。
教育情報サイトのベネッセの、「小学生のあこがれの人ランキング」というのがあります。毎年ランキングをつけているようです。2023年のランキング1位は、友達です。2位はお母さん、3位は星野アイ『推しの子』(注:マンガの主人公)、4位は学校の先生、5位はSnow Manだそうです。ちなみに6位は大谷翔平です。小学生ですから身近な人が多いようです。2022年も1位は友達、2位はお母さんです。2020年は1位が、竈門炭治郎かまどたんじろう(鬼滅の刃)で、2位はお母さんです。2020年は1位から10位まで、お母さん、先生、お父さん以外の7名はみんな鬼滅の刃の主人公でした。胡蝶しのぶ(鬼滅の刃)こちょうしのぶ。冨岡義勇(鬼滅の刃)とみおかぎゆう。竈門禰豆子(鬼滅の刃)かまどねずこ。煉獄杏寿郎(鬼滅の刃)れんごくきょうじゅろう。我妻善逸(鬼滅の刃)あがつまぜんいつ。時透無一郎(鬼滅の刃)ときとうむいちろう。竈門炭治郎が1位であるのは、竈門炭治郎が倫理的であるからです。憧れているところとして「誰にでも優しい」「家族想(おも)い」「あきらめずにがんばる」「炭治郎のことを思い出すとがんばれる」が挙げられている。ということのようです。やっぱりいまの小学生にとっても「誰にでも優しい」ということは大切なことのようです。お母さんや先生、お父さんなどがあこがれの人としてあげられるのは、身近で自分のために配慮をしてくれるからでしょうし、良き手本であるということでしょう。
今日の聖書の箇所に出てくる、洗礼者ヨハネという人は人気のある人でした。当時の人々にとっては、ランキングの高い人だったと思います。ちょっと怖い人でもありました。
今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。洗礼者ヨハネはイエスさまより先に生まれた人です。洗礼者ヨハネは神さまに従って歩んでいない人々に悔い改めを迫りました。世の終わりが近づいているので、悔い改めて、神さまを信じなさい」と呼びかけました。そして悔い改めた人々にヨルダン川で洗礼を授けていました。洗礼者ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯をしていました。ですからちょっと怖い人という印象があります。今日の聖書の箇所でも、洗礼者ヨハネの言葉はちょっと恐ろしい感じがします。
マタイによる福音書3章7−10節にはこうあります。【ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。】。
洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派というユダヤの指導者たちが、洗礼を受けにきたときに、彼らを叱りつけます。だれが、おまえたちに、「洗礼を受けたら、神さまの怒りを受けることがない」と教えたのか。悔い改めて、神さまの御心にかなった良き業を行なえ。私たちの先祖はアブラハムだから、神さまは許してくださるに違いないなどと思うな。神さまはこんな石からでも、アブラハムの子孫をお作りになることができる。もうお前たちを裁くための斧は用意されているのだ。おまえたちは良き業を行なわないのであれば、おまえたちは裁かれて、そして火に投げ込まれるだろう。そのように洗礼者ヨハネはユダヤの指導者たちを責め立てました。
マタイによる福音書3章11−12節にはこうあります。【わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」】。
洗礼者ヨハネは自分のあとから自分より優れた方が現れると言いました。イエス・キリストのことです。自分はイエスさまの履物を脱がせる値打ちもないと、洗礼者ヨハネは言いました。履物を脱がすのは、当時、奴隷の仕事でした。イエスさまは聖霊と火で洗礼をお授けになる。そして脱穀場をきれいに掃除をするように、すべてのことについて最終的な裁きを行われる。そのように洗礼者ヨハネは言いました。
洗礼者ヨハネはとても激しい人です。言葉遣いも荒いですし、言っていることも本当のことだとは思いますが、でももうちょっとやさしい言い方ができないものだろうかというふうにも思います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。まあ、そうだとは思いますが、でもやっぱり怖いなあと思えます。昔の人はよくこんな怖い人のところに行って、洗礼を受けたものだと思います。
洗礼者ヨハネはとても激しい人であったわけですが、しかしとても謙虚な人でありました。洗礼者ヨハネは自分のあとからやってくる救い主イエス・キリストについて、自分はその履物をお脱がせする値打ちもないと言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」。洗礼者ヨハネはとても激しい人でしたが、しかし自分のことを誇ったりすることのない人でした。
天に召された皆様のご家族も、神さまの前にはとても謙虚な人たちでした。神さまを信じている。イエスさまを信じているということは、そういうことです。人に対しては、だれしも高慢になったりすることがあります。しかし神さまの前には、人は謙虚にならざるを得ないのです。自分のすべてを納めておられる神さまの前には、人は謙虚にならざるを得ないのです。皆さんのご家族もまた、神さまを信じ、イエス・キリストを信じて歩まれました。神さまの前に謙虚な思いをもって生きられました。
私たちもまた先に召された先達と同じように、神さまの前に謙虚なものでありたいと思います。自分が神さまの前に立たされているひとりの人間であるという思いをしっかりともつ時に、人は良き人として歩むことができます。神さまがわたしのことをみていてくださる。神さまがわたしのことを支えてくださる。神さまがわたしのことを愛してくださっている。そのように思えるとき、私たちは私たちの人生を、恐れることなく、希望をもって歩むことができるのです。
皆さんのご家族があゆまれたように、神さまの前に謙虚な人として歩んでいきたいと思います。ここに集われたお一人お一人のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。
(2024年11月10日平安教会朝礼拝式・聖徒の日礼拝)
0 件のコメント:
コメントを投稿