2024年11月8日金曜日

10月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしは神さまのすてきな人」

「わたしは神さまのすてきな人」

聖書箇所 マタイ10:28-33。6/542。

日時場所 2024年10月27日平安教会朝礼拝式

  

わたしが小さい頃になかったもので、いまふつうに使われている文房具に、ポスト・イットというものがあります。みなさんも付箋として、いろいろなものに貼り付けて、メモ書きをしたりして使っておられると思います。ポスト・イットは1980年に3M(スリーエム)という会社が発売をしました。わたしが高校生のときです。

ポスト・イットはこういうものを作ろうと思って、作られたものではありません。1970年、3Mの調査研究室で働いていたスペンサー・シルヴァーは、協力な接着剤を作ろうとおもって実験をしていました。でもできた接着剤は、接着力の弱い接着剤で、くっつくけれども、かんたんにはがせてしまうというものでした。その接着剤が何に使えるか、だれも思いつかなかったのですが、シルヴァーはそれを捨ててしまうということはしませんでした。それから4年後のある日曜日に、3M(スリーエム)の研究者だったアーサー・フライは、教会の聖歌隊で歌っていました。アーサー・フライは賛美歌の自分の歌うページにしおりをはさんでいたのですが、それが賛美歌からすぐに落ちてしまいます。アーサー・フライはそのとき、シルヴァーが開発した接着剤を思い出します。そしてそれを自分のしおりに塗ってみました。その弱い接着剤はしおりをしっかりと固定し、そして賛美歌を傷つけることはありませんでした。こうしてポスト・イットは製品開発されて、売り出されることになります。

ポスト・イットは言わば、失敗から生まれた製品です。「ああ、失敗だった」と思えることであっても、状況が変わったり、用いられ方が変わったりすることによって、「いや、ぜんぜん、失敗ということじゃなかった」というようなことも起こるわけです。私たちは小さな失敗を気にして、「ああ、わたしはだめだ」というように思いがちですし、「この前、失敗したから、もうやらない」というような思いになりがちです。でもあまり恐れることなく、前向きな気持ちになって行なっていくということも、また大切なことだと思います。

今日の聖書の箇所は「恐るべき者」という表題のついた聖書の箇所の一部です。今日の聖書の箇所の前の聖書の箇所は「迫害を予告する」という表題のついた聖書の箇所となっています。初期のキリスト教はいろいろな迫害にあいました。今日の聖書の箇所も、そうした流れの中に位置づけられています。またイエスさまご自身も、ファリサイ派の人々や律法学者たちといろいろなところで対立していました。ユダヤの指導者たちは、自分たちに批判的なイエスさまを殺そうと計画をしていきます。

マタイによる福音書10章28節にはこうあります。【体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい】。

イエスさまは勇気がある方ですから、威勢の良いことを言われます。しかしまあ私たちはいつもびくびくとした思いを持ちながら生活しますから、「体を殺しても」と言われても、「いや、体殺されたらやっぱりいやだなあ」とも思えます。迫害にあうのも嫌ですし、つらいめにあうのもいやだなあと思います。しかしそうは言っても、人生の中でいろいろな困難な出来事に出会います。「いやだ」と言っても、向こうからやってくることがあるわけです。イエスさまの弟子たちもそうだったと思います。迫害にあうことを好むわけではないですが、しかしイエスさまに付き従って歩むときに、困難な出来事に出会うことがあったのです。

困難な出来事に出会う人々に対して、イエスさまは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました。もしかしたら危害を加えられるような出来事が起こるかも知れないけれども、それは私たちの魂に関わることではないと、イエスさまは言われます。それは私たちの魂は、神さまのものであり、神さまによって守られているからです。だから困難な出来事にあっても、魂を売り渡すようなことをしてはだめだと、イエスさまは言われました。私たちの命はつかさどっておられる方は、神さまであり、恐れるべき方は、神さまであると、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書10章29−31節にはこうあります。【二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」】。

聖書の後ろのほうに、「度量衡および通貨」というところがあります。それによりますと、「アサリオン」というのは貨幣の単位で、「ローマの青銅貨で、1デナリオンの1/16」ということです。1デナリオンというのは、「ローマの銀貨で、1ドラクメと等価(1日の賃金に当たる)」ということです。1日の賃金を1万円とすると、1アサリオンは625円です。二羽の雀は625円ですから、一羽の雀は315円くらいでしょうか。でも一羽で買うことはできず、二羽で売っているわけです。そんな細かい商売はできないわけです。でも神さまはその1羽の雀に目をとめてくださっています。小さな1羽の雀のことを心に留めてくださっている神さまは、あなたのことを心に留めてくださらないわけがない。神さまはあなたの髪の毛の一本一本をも心に留めてくださっている。だから恐れることなく、神さまにお委ねして歩みなさいと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書10章32−33節にはこうあります。【「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」】。

イエスさまはなかなか激しいことを言われます。二つに一つ、どちらかだと言われるわけです。人々の前で、「わたしはイエスさまの仲間だ」という人に対して、イエスさまはその人のことを、神さまの前で「この人はわたしの仲間だ」と言う。でも人々の前で、「わたしはイエスさまのことを知らない」という人に対しては、イエスさまも神さまの前で、「この人のことはわたしは知らない」という。二つに一つ。イエスさまを信じて、イエスさまについて行くのか、どうかということが問われているわけです。

厳しい話と言えば、厳しい話であるわけですが、迫害を受けるという状況の中の話であるわけですから、どちらにしても二つに一つであるわけです。イエスさまを信じるのであれば、迫害を受けることになります。イエスさまを信じないのであれば、神さまから祝福を受けることができないということです。そして、【体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい】と、イエスさまは言われるのです。

私たちは信仰の弱い者ですから、「二つに一つ」とか、「どちらかだ」というふうに言われると、もうどうしたら良いのかわからなくなります。イエスさまは「二つに一つ」「どちらかだ」というふうに言われるわけですが、しかし同時に神さまは力強い方であり、その力強い方が、私たちを守り導いてくださっていると教えてくださいます。

私たちは神さまの大いなる御手のうちに守られているのです。私たちは信仰の弱い者で、すぐに恐れたり、だまだと思ったりするけれども、私たちの失敗を良いものに変えてくださる神さまがおられます。イエスさまのお弟子さんたちはいろいろな失敗をしています。使徒ヤコブと使徒ヨハネは、イエスさまに「私たちを他の弟子たちよりもえらくしてほしい」と言いました。マルコによる福音書10章35節以下に、「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の個所があります。新約聖書の82頁です。【ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」】と言いました。イエスさまはヤコブとヨハネに言われました。【「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」】。

また、使徒ペトロは、イエスさまのことを三度知らないと言いました。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、みんな逃げ出してしまいました。そうした失敗をしたわけですが、しかしその失敗を、神さまは豊かに用いてくださり、弟子たちが悔い改めて歩み出す信仰を与えてくださいました。

大切なことは、「私たちが失敗をする愚かな人間である」ということではありません。神さまが私たちのことを愛してくださっているということが大切なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、イエスさまは言われました。イエスさまは私たちが「神さまのすてきな人」なのだと言われました。

神さまは小さな雀をも心にとめておられる。あなたの髪の毛一本のことも、神さまは気にかけてくださっている。あなたは神さまのすてきな人なのだ。だから「恐れるな」。恐れず、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまに付き従った歩んでいきなさい。神さまのすてきな人として、神さまにふさわしく小さな良き業に励みなさい。

神さまが私たちを愛してくださっています。そのことをしっかりと受けとめて歩んでいきたいと思います。



(2024年10月27日平安教会朝礼拝式)



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