「悪より救い出したまえ」
聖書箇所 ヨハネ17:13-26。3/462。
日時場所 2024年10月20日平安教会朝礼拝
今日は午後2時から、平安教会ふれあいコンサートがもたれます。いろいろな方々が出演してくださいます。とても楽しみにしています。秋はいろいろな行事があり、楽しみなことが多いですね。
教会のバザーは11月3日(日)にもたれます。バザー賛美フェスとして、礼拝からはじめます。ぜひ礼拝からご家族・ご友人の方々とご一緒にご参加ください。
今日が小さい頃に通っていた今治教会でも、バザーがありました。わたしはとても楽しみにしていました。小学生・中学生の頃は、父が教会員でしたからバザー券をもらい、バザーにいきました。今治教会のバザーは「やきとり」というのがあって、それを食べるのがとても楽しみでした。あとマドレーヌをいくつも買って、食べるのが楽しみでした。普段は三個も四個も食べることはないですから、バザーのときはお小遣いをためて、うれしげに食べていました。高校生になると、高校生の会が喫茶を任されて、みんなで前の日に用意して、当日もまた朝から店で交代で給仕をしていました。私たちの教会のバザーを毎年楽しみにして来てくださる方々がおられます。楽しく感謝しながら、バザーを行なうことができればと思います。来週は準備の会がありますから、ぜひよろしくお願いいたします。
「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。
「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。
いま政治家の裏金問題でおおごとになっていますが、だぶんやりはじめたときは「まあ大した悪いことではないだろう」というような思いでやっておられたのだろうと思います。「政治家に倫理など求めていないだろう」と、政治家自身も思っていて、「少々悪いことをしても、政治家だから大目に見てもらえるだろう」と思っていたわけですが、まあそうそう大目に見てもらえることはなく、おおごとになってしまったわけです。
私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあるわけです。
(また何気なくはじめたことで、犯罪に巻き込まれていくというようなことも、私たちの世の中にはあります。振り込め詐欺などで、「かけ子」と言われる末端の人たちは、未成年や学生がアルバイトとして応募することがあると言われます。スマホで「運送のアルバイト」とか、「電話をかけるアルバイトです」と思って応募すると、振り込め詐欺の手先として働かされるようになってしまった。住所や電話番号、家族のことなどを知られてしまい、辞めることもできなかったということがあるようです。
私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあるわけです。)
今日の聖書の箇所は「イエスの祈り」という表題のついている聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書18章1節以下には「裏切られ、逮捕される」という表題のついた聖書の箇所があります。ですからヨハネによる福音書では、イエスさまが逮捕される前に、弟子たちのために祈られたということになっています。
ヨハネによる福音書17章13-16節にはこうあります。【しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです】。
イエスさまは神さまのところにいま帰ると言われました。イエスさまは世の罪を除く小羊として、私たちの罪を担うために、この世にきてくださいました。そして今、私たちの罪のために十字架につけられようとしておられます。イエスさまは神さまのみ言葉を語られましたが、世の人々はそれを受け入れようとはしませんでした。しかしイエスさまの弟子たちは、イエスさまの言葉を受け入れました。そしてイエスさまは弟子たちは、イエスさまの言葉を受け入れたので、「この世に属していない」と言われます。イエスさまは弟子たちの心配をしておられます。そして神さまに「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください」と言われました。
ヨハネによる福音書17章17-19節にはこうあります。【真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです】。
イエスさまは弟子たちがみ言葉を信じることによって、聖なる者となることができるようにと、神さまに祈られました。そしてそのために、自分自身をささげて十字架につくと言われました。イエスさまはご自分が十字架という神さまの業を成し遂げることによって、弟子たちもまた神さまの御旨を信じて歩む者になることができると言われました。
ヨハネによる福音書17章20-23節にはこうあります。【また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります】。
イエスさまは弟子たちのために祈られたのではありません。弟子たちによってイエスさまを信じる人たち、そしてその信じた人たちによって信じる人たち。そしてその信じた人たちによって信じた人たちによって信じた人たち。そしてその信じた人たちによって・・・・・、そして私たちへとイエスさまを信じる人々の群れはつながっています。イエスさまは私たちのために祈ってくださっています。そして忘れてはいけないことは、私たちがイエスさまのことを伝える次の世代の人たちのために、イエスさまは祈っておられるということです。
【こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります】。イエスさまが十字架につけられるときは、世はイエスさまを信じていないわけですが、だんだんとイエスさまを信じる人々がイエスさまのことを伝えるようになり、そして神さまがイエスさまを愛され、神さまが人間を愛してくださっていることを、世が知るようになるのです。
ヨハネによる福音書17章24-26節にはこうあります。【父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」】。
イエスさまは「わたしと同じように弟子たちも神さまのことを知っている」と、神さまに祈られました。しかし実際、弟子たちはイエスさまのことを、そして神さまのことを信じ切っていたわけではありませんでした。イエスさまが十字架につけられたあと、弟子たちはみんなイエスさまを裏切って逃げてしまったのです。イエスさまがここで祈られたようなりっぱな弟子たちではありませんでした。何も分かっていない愚かな弟子たちであったわけです。イエスさまはそのことを知っておられました。弱い弟子たちのことを、よく知っておられました。しかしイエスさまは弟子たちのことを知っておられたにも関わらず、「この馬鹿な弟子たちはわたしのことを何も分かっていないダメな人間なんです」とは、祈られませんでした。イエスさまは「わたしの弟子たちは真理を知っている」と神さまに祈ってくださいました。イエスさまはそういう方なのです。
イエスさまは天に帰られる前に弟子たちのため、「悪い者から守ってください」と神さまに祈られました。イエスさまが弟子たちに教えられた祈りが、「主の祈り」としてのちのクリスチャンに伝えられています。マタイによる福音書6章9-13節にはこうあります。新約聖書の9頁です。【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』】。主の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とあります。私たちが普段祈っている主の祈りでは、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」となります。
私たちが主の祈りで、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈り、そしてイエスさまが神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださっています。私たちは誘惑に弱いですし、りっぱな信仰をもっていると言いがたいところがあります。
この世でいろいろな事件が起こる時に、わたしはちょっと不安になるときがあります。もしかしたらこの事件を起こした人のように、自分も誘惑に負けて、同じようなことをしてしまうのではないかというふうに思う時があります。ですから主の祈りのなかにある「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、わたしにとってはとても切実な祈りです。
そんな私にとって、イエスさまが天に召される前に、弟子たちのために神さまに祈られた「悪い者から守ってください」という祈りは、とてもうれしい祈りです。イエスさまは私たちのために「悪い者から守ってください」と、神さまに祈られました。私たちは弱いですから、いろいろな誘惑に陥ってしまうときがあります。ふらふらと悪い者へと誘われてしまうときがあります。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、ものの見事にみんないなくなってしまいました。
使徒ペトロなどは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。マルコによる福音書14章27-31節にはこうあります。新約聖書の92頁です。【イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った】。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」という使徒ペトロに対して、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。そしてそのとおり、使徒ペトロはイエスさまを裏切ることになります。使徒ペトロがイエスさまを知らないと言った話を読むときに、使徒ペトロの弱さはまさに私たちの弱さだと思います。
イエスさまはそうした私たちの弱さを知っていてくださり、私たちのために神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださったのです。イエスさまが私たちのために祈ってくださり、そして私たちは神さまの守りのうちにあります。
神さまが私たちを守ってくださっています。弱い私たちですけれども、確かな方である神さまが私たちを守ってくださっている。このことを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。いたずらに不安になった、恐れたりするのではなく、私たちには確かな方がおられるということを信じて歩んでいきましょう。
(2024年10月20日平安教会朝礼拝)
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