「いない・いない・ばあの神さま」
聖書箇所 出エジプト記3章13-14節(ヨハネ16章1−6節)
日時場所 2024年11月17日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい
わたしの家族は、娘二人と妻です。もう二人ともふつうに社会人をしています。ときどき会って、食事をしたりするような感じです。大きくなったので、いろいろなことを教えてくれます。博多に行ったらこのお店で食事をしなさいとか、ネットフリックスの「地面師」がおもしろいとか、いろいろと参考になります。大きくなったなあと思いますが、でも子どもは子どもですので、子どもたちが小さい頃のことをよく思い出します。
下の娘は1歳くらいのころ、「いない・いない・ばあ」が大好きでした。はじめて話した「まともな」言葉も、「いない・いない・ばあ」でした。「にゃい・にゃい・ばーあ」と言いました。わたしの娘は小さい頃、ほとんど話しませんでした。娘はよくこんな感じで指をくわえていて、口を塞いでいるような形になりますので、「ああ、こいつは、指くわえとるから、そりゃ話せんやろ」と、わたしは思っていました。上の娘は小さい頃よくしゃべったので、「まあやっぱり姉妹でも個性があるんやなあ」と、妻と二人でしみじみと話をしていました。しかし保育園の年中さんくらいになると、姉と同じように、ぺらぺらぺらぺら、よく話をするようになりました。そうすると「やっぱり姉妹やねえ。よく似るもんや」と、妻と二人でしみじみと話していたことを、いまでも思い出します。
小さいとき、ほとんど話さなかったのですが、しかし「おとーちゃん」「おかーちゃん」という前から、「にゃい・にゃい・ばーあ」だけは異様に上手でした。よくわたしが疲れて寝ころんでいると、背中に乗ってきて、わたしの顔の横で、「にゃい・にゃい・ばーあ」とやってくれました。
わたしの娘だけでなく、あかちゃんは「いないいないばあ」が好きです。ですからこんな絵本もあります。みなさんも小さいとき、お父さんやお母さんによんでもらったかも知れません。松谷みよ子のあかちゃんの絵本、「いないいないばあ」。(絵本を読む)。わたしはこの絵本をむかし見たとき、「なんやこれ」と思いました。「こんなんありか」と、ばかにしました。しかしこの絵本、わたしの娘はやっぱり好きです。わたしは昔「こんなの何がいいんだろう」と思いましたが、いまではこの絵本のすばらしさが少しわかります。この絵本はなかなかたのしい絵本です。絵本というのは、「めくる」という動作が基本ですから、この「いないいないばあ」というのは、その動作にぴったりなのです。「いない いない ばあ にゃあにゃが ほらほら いない いない・・・・・/ばあ」。ちゃんと「いないいないばあ」してくれる絵本なのです。
「いないいないばあ」というのが、なんであかちゃんがうれしがるのかということ、たぶん最後の「ばあ」があるからです。これ最後の「ばあ」がなければ、全然楽しくないのです。「いないいない」でそのままずっと「いないいない」であれば、どうしようもないのです。そこには「いない」ということの悲しさしかありません。しかし「いないいないばあ」にはさいごに必ず「ばあ」があります。そしてあかちゃんは最後に必ず「ばあ」があることを知っているのです。だからさいごの「ばあ」がいつくるか、いつくるか、期待しながら、待っているのです。「いない・いない・・・・・・・ばあ」というように、少々「ばあ」がくるのが遅くても、必ず「ばあ」があるので、あかちゃんは楽しいのです。あかちゃんは「ばあ」があることを信じているのです。わたしはキリスト教の信仰というのは、この「いないいないばあ」のようなものだと思います。私たちの神さまは「いないいないばあ」の神さまなのです。かならず「ばあ」と言って現れるのです。わたしはそう信じています。
今日、読んでいただいた聖書の箇所は「モーセの召命」という表題のついた聖書の箇所の一部です。出エジプト記は、エジプトで奴隷として苦しんでいた人々が、神さまが選んだモーセというリーダーによって、エジプトから導き出されるという話です。今日の聖書の箇所はモーセが神さまからリーダーとして選ばれるという聖書の箇所です。神さまはモーセに、「わたしは人々が苦しんでいる叫び声を聞いたので、おまえを遣わす」と言います。モーセは「あなたは神さまだと言われるけれども、人々にあなたのことを何と伝えれば良いですか。あなたの名前は何ですか」と尋ねます。
出エジプト記3章13ー14節にはこうあります。【モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」】。モーセが神さまの名前を問うたときに、神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。イスラエルの民はいろいろな困難の中で、「神さまはいない。神さまはない」というふうに思います。しかし神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われるのです。
私たちの神さまは「いない、いない、ばあ」の神さまです。私たちもまた、人生の中で出会う大きな困難の中で、「かみさまはわたしと一緒にいてくださらない」と思えるときがあります。本当に孤独で、どうしたらいいのかわからず、ただただ不安になるというときがあります。神さまは「いないいない」というふうに思えるのです。しかしそれは私たちが勝手に「いないいない」と思っているのです。たとえ神さまが共にいてくださり、神さまがあふれんばかりの愛をそそいでくださっていても、私たちが「神さまから愛されていないという」「神さまが共にいてくださらない」と思ってしまうことが多いのだろう、とわたしは思います。わたしはひとつのどうでもいいよな体験からそのことを、思わされました。どうでもいい体験だからこそ、身にしみてそのように思わされたのかも知れません。それはつぎのような体験です。
土曜日の夜に、家に人がいっぱいきて、宴会になりました。みんなでわいわい楽しくやっていたのですが、わたしはあくる日の日曜日の礼拝のことが気になり出し、はやく寝たいなあというふうに思い始めました。しかしみんな盛り上がってしまって、なかなか帰ろうとしませんでした。わたしははやく寝たいと思いながらも、気が弱いですから、「もう明日があるから帰ってください」などということができません。で、しかたなく、勝手に隅の方にふとんをしいて自分だけ寝始めました。しかし、みんな盛り上がってわいわいガヤガヤやっています。ですから眠ろうと思っても眠ることができませんでした。わたしは「もういいかげんにしてくれ、眠れないじゃないか、眠りたい、眠りたい」と思いながら、かけぶとんを頭までかぶりました。そして「ああうるさい、眠りたいのに、眠りたいのに、明日は礼拝があるのに、うるさいなあ」と思っていました。すると、こともあろうに、ふざけて、わたしの足の親指の先をひっぱる者がいます。うるさくしているうえに、わたしの眠るのをじゃまするやつがいるのです。もうわたしは我慢できなくなり、文句を言おうと思いました。そしてわたしが、ふとんからがばっと起き上がり、「もういいかげんにしてくれ、眠れないじゃないか」と言おうとすると、足の親指をひっぱっていた妻がこう言いました。「もう起きてよ」。
じつは、「眠れない眠れない」というのは、わたしの夢でした。わたしは「眠れない眠れない」という夢をみて、ぐうぐう眠っていたのでした。なさけない夢だったなあと思ったわけです。しかしふと考えてみると、なにか非常に教訓的な夢でありました。神さまと自分との関係を考えてみたときに、こうしたことをよくしているのだろうなあと思ったからです。私たちは神さまからあふれんばかりに愛されています。しかし私たちは神さまに対してつぶやきます。なにか自分に都合の悪いようなことが起こったとき、「神さまは何でわたしを愛してくださらないのだろう」「神さまはあの人と共にいるの、わたしと共にいてくださらない」「あの人ばかりが祝福されて、わたしは愛されていない」。しかしそうしたつぶやきは、わたしが眠っていたのに「眠れない、眠れない」と夢の中でつぶやいていたのとよく似ています。神さまから祝福され、愛されているのに、自分が勝手に愛されていないと思い込んでいるのです。共にいてくださっているのに、気づかないのです。
小さなことであわてたり、不平をいったり、自分は神さまから愛されていないんじゃないのかと思えたりする私たちです。神さまから愛され、いろいろな祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわしがこんな目に・・・」というような思いを持ったりする私たちです。
人は悲しいとき、苦しいとき、なかなか神さまが共にいてくださるとは思えません。私たちの信仰はそんなにりっぱなものではありません。つぶやくことの多い者です。「神さま、いない、いない」。そんなふうに思います。しかし私たちが神さまと出会うのは、うれしいとき、幸せなときではなくて、深い悲しみのなか、つらい思いの中であるのも、確かなことです。どうしようもない深い悲しみや不安の中から、私たちは神さまに新しく出会います。そして自分が悲しいとき、苦しいとき、神さまがおられなかったのではなく、自分が神さまに気づかなかっただけだということを知ります。神さまはずっと私たちと一緒にいてくださったということに気づきます。神さまは「いないいない」のではなく、必ず「ばあ」といてくださるのです。
私たちは心の弱い者ですから、しばしば「神さまいないいない」というふうに思います。しかし、また私たちは心の底では「神さまが私たちと共にいてくださる」ということを知っているのです。あかちゃんは「いないいないばあ」が好きで、「いないいない」のつぎにかならず「ばあ」となることを知っています。そのように私たちも苦しみや悲しみのなかで、「神さまいないいない」と思いながらも、しかし心の底では「神さまが共にいてくださる」ことを知っているのです。
私たちの神さまは「いないいないばあ」の神さまなのです。「いないいない」のままでは終わらない。かならず私たちと共にいてくださるのです。
みなさんのこれからの人生も、いろいろなことがあると思います。「なんでわたしがこんな目にあうんだ」と思えること、あるいは「神さまなんて、いない」と思えること、そんなときがあると思います。そんなとき、教会の礼拝にいらしてください。そして「いない、いない、ばあの神さま」に出会ってほしいと思います。
皆様の歩みのうえに、神さまの恵みが豊かにありますようにと、お祈りいたします。
(2024年11月17日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)
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