2024年12月5日木曜日

12月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「さあ、クリスマスの準備をしよう」

「さあ、クリスマスの準備をしよう」

聖書箇所 マタイ24:36-44。231/236。

日時場所 2024年12月1日平安教会朝礼拝式・アドヴェント第1

       

アドヴェントに入りました。クランツのロウソクも一つ灯りました。イエスさまのご降誕をお祝いする準備をしていきたいと思います。アドヴェントという言葉は、「到来」を意味するラテン語のアドヴェントゥスからきた言葉です。アドヴェントはイエスさまがお生まれになられるのを待ち望む期間です。キリスト教の暦のことを「教会暦」というふうに言いますが、教会暦によると、一年はアドヴェントから始まります。イエス・キリストを待ち望むことから一年が始まるのです。

今日は12月1日です。12月は「師走」と言われます。どうして「シワス」と言われるのかというのは諸説あるようです。もともと12月のことが「シハス」と言われていたようです。万葉集のころですけれども、「一年が終わる」ということで「トシハツ」、「四季が果てる」ということで「シハツ」というような言葉が、いつまにか「シワス」と言われるようになったのではないかと言われています。まあ一年の終わりということでしょう。「師」が「走」り回るほど忙しいということで、「師走」と呼ばれるようになるというのは、鎌倉室町時代のようです。(平成25年12月一般社団法人全国日本語学校連合会日本人の文化と精神の研究 第11回新しい年を迎える準備で先生も走る「師走」の風物詩、を参照)。

師走はあわただしいですから、いろいろな事件も起こりやすいと言われています。【12月から空き巣被害が急増します!お出かけ前に防犯対策を。12月に入ると全国的に空き巣被害が急増します。元々、空き巣が多い時期は12月と1月です。■年末年始で帰省や旅行で自宅を留守にする期間が長い。■日没が早い時期なので、部屋の明かりの有無で留守が分かりやすい。以上2つの理由で、特に年末年始にかけて空き巣被害が増加する傾向にあります】(https://e-asima.com/winter01/。アシマ株式会社)。

空き巣だけでなく、交通事故や、詐欺事件なども多く起こります。テレビなどでも詐欺事件などは頻繁に伝えられています。「ああ、うちにも詐欺のような変な電話があった」と思われるかたもおられることと思います。あわただしく、いろいろな事件が起こりやすいときだということですから、落ち着いて過ごすことが大切なようです。そしてそういうことが起こりやすい時期であるということを、しっかりとこころに留めて過ごしたいと思います。「目を覚ましていなさい」ということなのでしょうか。

今日の聖書の箇所は「目を覚ましていなさい」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所より少し前から、世の終わり・終末についてのことが記されてあります。マタイによる福音書24章3節以下は「終末の徴」という表題がついています。マタイによる福音書24章15節以下は「大きな苦難を予告する」という表題がついています。そして「いちじくの木の教え」があり、今日の「目を覚ましていなさい」という箇所になります。

マタイによる福音書24章36−39節にはこうあります。【「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。】。

【その日、その時は、だれも知らない】という「その日」というのは、世の終わり・終末の時のことです。イエスさまの時代、世の終わり・終末がくるということが、とても身近なこととして考えられていました。「明日にも来るかも知れない」というような感じです。突然やってくるというのは、ノアの箱船のときの洪水のようなものだと言われています。いまでも大雨というのは突然やってきて、大きな災害をもたらします。ニュースに出てくる人は、「こんな大雨、経験したことがない」と言います。「避難する時間もなかった」と言います。

ノアの箱船の物語は、創世記6−9章に書けて書かれてあります。旧約聖書の8頁です。創世記6章1節以下には「洪水」という表題がついています。神さまはこの地が堕落したので、滅ぼそうとされます。しかしノアの家族だけを助けることにして、ノアに箱船を造るように伝えます。創世記7章6節には【ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱船に入った】とあります。ノアは大きな箱船を造り、そのときのために準備をしたのでした。そして箱船ができたときに、神さまはノアに、「七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」と言われます。七日猶予があったわけですから、突然、明日ということではないわけです。でも洪水は、大洪水ですから、もうどうしようもないわけです。そういう意味では、突然やってくるわけです。

マタイによる福音書24章40−42節にはこうあります。【そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。】。

津波のような災害が起こると、だれが助かるのかはわかりません。畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は助かるかもしれません。それはまあわからないわけです。そしてできることは、「目を覚ましている」ことです。それはいつ災害が来ても良いように、備えをしておくということです。備えをしていたからといって、助かるかどうかはわからないわけですが、まあとにかく助かる確率は高くなります。世の終わり・終末も、いつ来るかわからないので、やはり心備えをしているということが、大切であるということです。

マタイによる福音書24章43−44節にはこうあります。【このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】。

さきほどは洪水というような災害のことを、イエスさまは世の終わり・終末について、たとえとして話されたわけですが、今度は、泥棒をたとえてして話されます。泥棒も夜の何時にやってくるのかわかっていたら、家の主人は対策を立てて、泥棒を自分の家に入らせないようにすることができるだろう。まあいつ泥棒が来るのか分かっていたら、警察に連絡してつかまえてもらうこともできます。しかし、世の終わり・終末はいつ来るかわからないので、それはまあずっと用意をして待つしかないのです。

イエスさまの時代は、世の終わり・終末がもうすぐに起こることと信じられていました。まあですから、「あなたがたも用意をしなさい」と言われると、「そうだなあ」と思えたわけです。でもイエスさまの時代から約2000年がたっているわけですが、まだ世の終わり・終末はきていないわけです。ですから私たちはなかなか、イエスさまが言われることを、「そうだね。準備しなければね」というふうに思うことも、なかなかできません。

ただ世の終わり・終末がいつくるかわからないわけですが、私たちはみな神さまの前に立たされているということは、それはいつであろうと変わらないのです。私たちはみな、最後に、神さまの前に立ち、自分の生きてきた歩みを、神さまにお話ししなければなりません。それはイエスさまの時代も、私たちの時代もかわらないのです。

世の終わり・終末は突然やって来るから、ずっとそれに備えて用意をしていなさい。「だから目を覚ましていなさい」「だから、あなたがたも用意しなさい」と言われると、なかなかつらいものがあります。三日くらいであれば、良い子でいることができるような気もしますが、でもやっぱりそれ以上は無理という気がします。神さまの前にずっと良い子でいられるほど、私たちはりっぱな人間ではありません。ただずっと良い子でいられないかも知れないけれども、ほどほど良い子でいる努力はしたいと思います。完璧な人間であることはできないかも知れないけれども、しかし少しは良い人である歩みでありたいと思います。

今日からアドヴェントが始まります。イエスさまのご降誕をお祝いする準備をしたいと思います。クリスマスは人にやさしい気持ちを与えてくれると言われます。どんな人もクリスマスに人にやさしくしたくなると言われます。

多くの人はクリスマスにプレゼントを買って、だれかにプレゼントをするということをします。今日も街に出ていくと、いろいろな人がクリスマスのプレゼントを選んでいます。「このマフラー、娘に似合うかな」「この服、息子に似合うかなあ」「この髪飾り、彼女が喜んでくれるかなあ」「この鎖、彼の時計にぴったりだわ」。そう思いながら、クリスマスのプレゼントを探しています。その時間は自分のことを考えているのではなく、だれかのための時間であり、とても尊い時間なのだと思います。そうした小さな良き人としての歩みを、神さまが喜んでくださるだろうと思います。自分のことばかりを考えるのではなく、他の人のことを思うときがあるというのは、とても大切なことだと思います。そしてその大切な人と一緒に、ぜひクリスマスの礼拝を守ってくださればと思います。

私たちはいつもいつも神さまの御心にしたがって歩むことはできないかも知れません。しかしこのアドヴェントのとき、神さまのことを中心において、イエスさまのご降誕をお祝いする備えをしたいと思います。

神さまは私たちの救いのために、イエスさまを私たちの世に送ってくださいました。神さまは私たちに大切な独り子であるイエスさまを送ってくださいました。神さまの愛に感謝しつつ、喜びをもって、クリスマスを迎えたいと思います。

 

(2024年12月1日平安教会朝礼拝式・アドヴェント第1)

11月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ちいさなよきわざにはげむ」

「ちいさなよきわざにはげむ」

聖書箇所 マタイ25章31−46節

日時場所 2024年11月24日平安教会朝礼拝・収穫感謝日礼拝

 

今日は収穫感謝日です。秋の実りを、神さまに感謝する日です。神さまから与えられた豊かな恵みは、ひとりじめするものではなく、みんなでわかちあうものであることを、覚えたいと思います。今日は子どもの教会のお友だちやお子さんをそだてておられるご家族の方々と一緒に、礼拝を守っています。

子どもの教会も、子どもたちもなかなか忙しく、集うことができないことも多くなってきました。それは平安教会だけのことでもありません。そうしたなかでも子どもの教会のスタッフの皆さんは祈りつつ、こころを込めて、子どもの教会に取り組んでくださっています。こころから感謝いたします。

子どもの教会との合同礼拝のときのメッセージというのは、どういう感じで話をしたらよいのか迷うところです。今日はこどもが聞いているような感じでやってみます。みなさんも子どもたちが一緒にいるという感じで聞いてくださればと思います。

子どもの教会で、わたしが話をするときはこんな感じで話をします。

ぼくたち、私たちは「人から何かをしてもらう」ということは、好きですね。「お母さん、肩たたいて」とか、みんな言わない?。ああ、そう。でも「おかあさん、お箸とって」とか「おとうさん、これしまっといて」とか、自分でできることも、人に頼むっていうことないですか。ない?。ああ、そう。「わたしのかわりに、トイレにいってきて」というのは?。ない?。ああ、そう。でも、何か自分でやるのがちょっと面倒で、相手の方がちょっとだけ近かったりすると、相手に頼むっていうことあるよね。「テレビつけて」とか。

ぼくたち、私たちはなんとなく、自分のためではなくて、人のために何かをするということを、損なことと思っているっていうことないですか。たとえば、お父さんが洗濯物をたたんでいたりして、「聖子ちゃんも一緒にたたんでくれへん」と言われたら、「えー、そんなんいやや。なんでわたしがせんならんの」と思ったりしませんか。お母さんがお皿を洗っていて、「明菜ちゃん、お皿、ふいてくれへん」と言われたら、「えー、それはわたしのすることじゃないよ。(お父さんがすることよ)」と思ったりしませんか。お母さんから「家の前を掃除してくれない」と言われたら、「お小遣いくれたら、してあげてもいいよ」って思ったりしませんか。「ただで何か人のためにするのは、損だ」というふうに思ったりしませんか。

昔々のクリスチャンの人たちは、私たちが思っている以上に、一生懸命に、人のために働いていました。どうしてそんなことがわかるのかというと、昔々の人の手紙の中にそう書かれてあるからです。昔々、紀元4世紀のこと、いまから1670年くらい前のことです。その時代には、ローマ帝国っていう大きな国がありました。そのローマ帝国の皇帝に、ユリアノスさんという人がいました。

【ユリアヌス Flavius Claudius Julianus 331-363 ローマ皇帝(在位361年—363年)。コンスタンティヌス1世の甥(おい)。伯父のキリスト教公認後に新プラトン主義哲学の研究やミトラス教に近づき,皇帝になるとキリスト教を圧迫,著作によっても〈異教〉の組織化を図った。のちササン朝ペルシア征討で戦死。〈異教〉の復活を企てたとしてのちに〈背教者〉と呼ばれた】(マイペディア97、株式会社日立デジタル平凡社)

このユリアノスさんはクリスチャンがとっても嫌いでした。だからイエスさまを信じるクリスチャンが増えないようにしようと思いました。それで家来の人に手紙を送って、クリスチャンが増えないように、あなたたちも「これこれ、こういうことをしなさい」というふうに命令を出しました。

その手紙で、ユリアノスさんはこう言いました。

【ヘレニズムは、まだ然るべき仕方でうまく発展していない。それをいとなむ我々の責任である・・・。無神論(=キリスト教)をこの上もなく発展させた理由は、他者に関する人間愛、死者の埋葬に関する丁寧さ、よく鍛錬された生き方の真面目さである、ということを、我々は知らないわけではない。このそれぞれを、我々の方も本気になって実行するのがよいと思う。それも、あなただけがする、というのでは十分ではない。・・・。それぞれの町に救護所を多く設置せよ。外来者が、我々の人間愛にあずかることができるように。我々の外来者だけでなく、ほかの者たちも、必要があればそれにあずかれるように】(田川建三『キリスト教思想への招待』、頸草書房)(P124)。

ユリアノスさんは、こう言ったわけです。「あなたもクリスチャンの人たちみんな熱心に、人のために働いているのをよく知っているだろう。彼らは本当に一生懸命に人のために働いている。だから、私たちも彼らの真似をして、人のために働こう。そうしたら、みんな私たちの方の言うことを信じるようになるだろう。クリスチャンは、町に困った人たちのための宿を作っているから、私たちも作ろうじゃないか。クリスチャンがつくった宿は、自分たちの仲間のためだけの宿じゃない。自分たちの仲間以外の人たちで困っている人も、自由にその宿に泊まることができるような宿なんだ。泊まるだけじゃなくて、食べ物も食べることができるし、病気の人たちへの介護もそこではされている。そして身寄りのないお年寄りの人も、そこには泊まることができるんだ。そんな宿を、私たちもつくろう。そんな宿を、クリスチャンの人たち以上につくれば、人々は私たちの言うことを信じるようになるだろう」。

ユリアノスさんはクリスチャンが大嫌いだったんだけど、でもクリスチャンのしていることはとてもいいことだから、私たちも真似しないといけない。悔しいけれど、クリスチャンの人たちは、ほんとうによく、人のために働いている。そんな手紙を残しています。

ふつう、私たちは嫌いな人のことは、悪くいうわけです。「あいつは、だめなやつだ」というふうにけなしたりします。でも昔々のクリスチャンたちは、ユリアノスさんがけなすことができないほど、一生懸命に人のために働いていました。クリスチャンが大嫌いなユリアノスさんも、そのことを認めないわけにはいかないくらい、クリスチャンたちは一生懸命に人のために働いていました。ちょっとすごいよねえ。

今日の聖書の箇所は、「すべての民族を裁く」という表題のついている聖書の箇所です。キリスト教は、世の終わりの時に、イエスさまが一人一人の人間を裁かれるということを信じています。今日、読んだ聖書の箇所には、そのことが書かれてあります。「人の子」や「王」というのは、イエスさまのことです。終わりの時に、イエスさまが天使たちを従えてやってきて、そして羊飼いが、羊と山羊を分けるように、人々を分けられる。羊を右に、山羊を左に。だいたい、羊にはおとなしくていいイメージがあります。山羊は絵本の「三匹の山羊のがらがらどん」みたいに、ちょっと乱暴なイメージがあります。

そしてイエスさまは右側にいた人たちに言われました。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

でも右側にいた正しい人たちは、ちょっときょとんとして言いました。イエスさま、いつ私たちのところに来て下さったのですか。私たちはわかりませんでした。たしかにお腹をすかせていた人に食べ物をあげたり、のどがかわいている人に飲み物をあげたり、旅人に宿を貸してあげたり、貧しい人に服を着せてあげたり、病気の人のところにお見舞にいったり、牢屋にいる人を訪ねたりしたりはしましたけど、それはイエスさまじゃなかったですよ。

すると、イエスさまは言われました。【『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』】。イエスさまは、お腹をすかせていたり、のどがかわいていたり、貧しい旅人であったり、病気だったり、牢屋に捕まっていたりする、小さな者たちを大切にすることが大切だと言われます。自分のためではなくて、困っている人のために、何かしてあげるということは、とても大切なことだ。そしてそれはわたしにやってくれているってことなんだよと、イエスさまは言われました。

このイエスさまの教えのとおりに、4世紀のクリスチャンたちは、やってたんだね。【お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた】。4世紀のクリスチャンたちは、困っている人のための宿をつくって、仲間であろうと、他人であろうと、困っている人に対しては、同じように、手を差し伸べていました。

すごいなあと思います。急に「あなたも言って同じことをしなさい」と言われても、ちょっと困ってしまうけれども、でもやっぱりぼくたち、私たちも4世紀のクリスチャンのように、ちいさなことでもいいから、何か始めることができたらいいなあと思います。「よーし、今日帰ったら、お父さんの肩をたたいてあげるぞ」っていうのもいいと思います。

でも小さな良い業に励むために、いつもみんなの頭のなかに「お先にどうぞ」っていうことを置いておいたらどういいんじゃないかなあと思います。30年ほど前に天に召されたレヴィナス(エマニュエル・レヴィナス)さんっていうフランスの哲学者は、私たちがこの世の中で暮らしていくときには、「お先にどうぞ」っていう気持ちが大切だって言っています。「お先にどうぞ」っていうのは、簡単なようで、むつかしいよね。ドアの前で「お先にどうぞ」っていうのは、そんなに急いでなければ、簡単なことだよね。でも船が沈んでしまうときに、「お先にどうぞ」って、だれかを自分の代わりにボートに乗せてあげたり、浮き輪をゆずってあげたりするっていうのは、むつかしいことだよね。《【レヴィナス先生は、倫理の根本的形態とは「お先にどうぞ」という言葉に集約される、と書いている。「そんなの簡単じゃないか」と言う人がいるかもしれない。たしかに、エスカレーターの前や、ドアの前で「お先にどうぞ」と言うことはそれほどむずかしくない。でも「タイタニック号、最後のボートの最後のシート」を前にして「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない】(内田樹『「おじさん」的思考』、晶文社)(P95)》。

でもいろんなときに、「お先にどうぞ」っていう場面に、ぼくたち、私たちは出くわすよね。朝、洗面台の前で、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。バスに乗るとき、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。切り分けられたおいしそうなケーキが、大きいのと小さいのとがあるときに、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。いろんなときに、「お先にどうぞ」っていうことを考えてみてほしいなあと思います。

イエスさまは私たちに、「この世の小さな人々のためのことを忘れないでほしい」と言われました。「自分のことばかり先に考えて、自分勝手に過ごすのではなくて、人のために働くことも大切だよ」と言われました。私たちはイエスさまの招きに応えて、小さな良き業に励みたいと思います。


(2024年11月24日平安教会朝礼拝・収穫感謝日礼拝)

11月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「いない・いない・ばあの神さま」

「いない・いない・ばあの神さま」

聖書箇所 出エジプト記3章13-14節(ヨハネ16章1−6節)

日時場所 2024年11月17日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい


わたしの家族は、娘二人と妻です。もう二人ともふつうに社会人をしています。ときどき会って、食事をしたりするような感じです。大きくなったので、いろいろなことを教えてくれます。博多に行ったらこのお店で食事をしなさいとか、ネットフリックスの「地面師」がおもしろいとか、いろいろと参考になります。大きくなったなあと思いますが、でも子どもは子どもですので、子どもたちが小さい頃のことをよく思い出します。

下の娘は1歳くらいのころ、「いない・いない・ばあ」が大好きでした。はじめて話した「まともな」言葉も、「いない・いない・ばあ」でした。「にゃい・にゃい・ばーあ」と言いました。わたしの娘は小さい頃、ほとんど話しませんでした。娘はよくこんな感じで指をくわえていて、口を塞いでいるような形になりますので、「ああ、こいつは、指くわえとるから、そりゃ話せんやろ」と、わたしは思っていました。上の娘は小さい頃よくしゃべったので、「まあやっぱり姉妹でも個性があるんやなあ」と、妻と二人でしみじみと話をしていました。しかし保育園の年中さんくらいになると、姉と同じように、ぺらぺらぺらぺら、よく話をするようになりました。そうすると「やっぱり姉妹やねえ。よく似るもんや」と、妻と二人でしみじみと話していたことを、いまでも思い出します。

小さいとき、ほとんど話さなかったのですが、しかし「おとーちゃん」「おかーちゃん」という前から、「にゃい・にゃい・ばーあ」だけは異様に上手でした。よくわたしが疲れて寝ころんでいると、背中に乗ってきて、わたしの顔の横で、「にゃい・にゃい・ばーあ」とやってくれました。

わたしの娘だけでなく、あかちゃんは「いないいないばあ」が好きです。ですからこんな絵本もあります。みなさんも小さいとき、お父さんやお母さんによんでもらったかも知れません。松谷みよ子のあかちゃんの絵本、「いないいないばあ」。(絵本を読む)。わたしはこの絵本をむかし見たとき、「なんやこれ」と思いました。「こんなんありか」と、ばかにしました。しかしこの絵本、わたしの娘はやっぱり好きです。わたしは昔「こんなの何がいいんだろう」と思いましたが、いまではこの絵本のすばらしさが少しわかります。この絵本はなかなかたのしい絵本です。絵本というのは、「めくる」という動作が基本ですから、この「いないいないばあ」というのは、その動作にぴったりなのです。「いない いない ばあ にゃあにゃが ほらほら いない いない・・・・・/ばあ」。ちゃんと「いないいないばあ」してくれる絵本なのです。

「いないいないばあ」というのが、なんであかちゃんがうれしがるのかということ、たぶん最後の「ばあ」があるからです。これ最後の「ばあ」がなければ、全然楽しくないのです。「いないいない」でそのままずっと「いないいない」であれば、どうしようもないのです。そこには「いない」ということの悲しさしかありません。しかし「いないいないばあ」にはさいごに必ず「ばあ」があります。そしてあかちゃんは最後に必ず「ばあ」があることを知っているのです。だからさいごの「ばあ」がいつくるか、いつくるか、期待しながら、待っているのです。「いない・いない・・・・・・・ばあ」というように、少々「ばあ」がくるのが遅くても、必ず「ばあ」があるので、あかちゃんは楽しいのです。あかちゃんは「ばあ」があることを信じているのです。わたしはキリスト教の信仰というのは、この「いないいないばあ」のようなものだと思います。私たちの神さまは「いないいないばあ」の神さまなのです。かならず「ばあ」と言って現れるのです。わたしはそう信じています。


今日、読んでいただいた聖書の箇所は「モーセの召命」という表題のついた聖書の箇所の一部です。出エジプト記は、エジプトで奴隷として苦しんでいた人々が、神さまが選んだモーセというリーダーによって、エジプトから導き出されるという話です。今日の聖書の箇所はモーセが神さまからリーダーとして選ばれるという聖書の箇所です。神さまはモーセに、「わたしは人々が苦しんでいる叫び声を聞いたので、おまえを遣わす」と言います。モーセは「あなたは神さまだと言われるけれども、人々にあなたのことを何と伝えれば良いですか。あなたの名前は何ですか」と尋ねます。

出エジプト記3章13ー14節にはこうあります。【モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」】。モーセが神さまの名前を問うたときに、神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。イスラエルの民はいろいろな困難の中で、「神さまはいない。神さまはない」というふうに思います。しかし神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われるのです。

私たちの神さまは「いない、いない、ばあ」の神さまです。私たちもまた、人生の中で出会う大きな困難の中で、「かみさまはわたしと一緒にいてくださらない」と思えるときがあります。本当に孤独で、どうしたらいいのかわからず、ただただ不安になるというときがあります。神さまは「いないいない」というふうに思えるのです。しかしそれは私たちが勝手に「いないいない」と思っているのです。たとえ神さまが共にいてくださり、神さまがあふれんばかりの愛をそそいでくださっていても、私たちが「神さまから愛されていないという」「神さまが共にいてくださらない」と思ってしまうことが多いのだろう、とわたしは思います。わたしはひとつのどうでもいいよな体験からそのことを、思わされました。どうでもいい体験だからこそ、身にしみてそのように思わされたのかも知れません。それはつぎのような体験です。

土曜日の夜に、家に人がいっぱいきて、宴会になりました。みんなでわいわい楽しくやっていたのですが、わたしはあくる日の日曜日の礼拝のことが気になり出し、はやく寝たいなあというふうに思い始めました。しかしみんな盛り上がってしまって、なかなか帰ろうとしませんでした。わたしははやく寝たいと思いながらも、気が弱いですから、「もう明日があるから帰ってください」などということができません。で、しかたなく、勝手に隅の方にふとんをしいて自分だけ寝始めました。しかし、みんな盛り上がってわいわいガヤガヤやっています。ですから眠ろうと思っても眠ることができませんでした。わたしは「もういいかげんにしてくれ、眠れないじゃないか、眠りたい、眠りたい」と思いながら、かけぶとんを頭までかぶりました。そして「ああうるさい、眠りたいのに、眠りたいのに、明日は礼拝があるのに、うるさいなあ」と思っていました。すると、こともあろうに、ふざけて、わたしの足の親指の先をひっぱる者がいます。うるさくしているうえに、わたしの眠るのをじゃまするやつがいるのです。もうわたしは我慢できなくなり、文句を言おうと思いました。そしてわたしが、ふとんからがばっと起き上がり、「もういいかげんにしてくれ、眠れないじゃないか」と言おうとすると、足の親指をひっぱっていた妻がこう言いました。「もう起きてよ」。

じつは、「眠れない眠れない」というのは、わたしの夢でした。わたしは「眠れない眠れない」という夢をみて、ぐうぐう眠っていたのでした。なさけない夢だったなあと思ったわけです。しかしふと考えてみると、なにか非常に教訓的な夢でありました。神さまと自分との関係を考えてみたときに、こうしたことをよくしているのだろうなあと思ったからです。私たちは神さまからあふれんばかりに愛されています。しかし私たちは神さまに対してつぶやきます。なにか自分に都合の悪いようなことが起こったとき、「神さまは何でわたしを愛してくださらないのだろう」「神さまはあの人と共にいるの、わたしと共にいてくださらない」「あの人ばかりが祝福されて、わたしは愛されていない」。しかしそうしたつぶやきは、わたしが眠っていたのに「眠れない、眠れない」と夢の中でつぶやいていたのとよく似ています。神さまから祝福され、愛されているのに、自分が勝手に愛されていないと思い込んでいるのです。共にいてくださっているのに、気づかないのです。

小さなことであわてたり、不平をいったり、自分は神さまから愛されていないんじゃないのかと思えたりする私たちです。神さまから愛され、いろいろな祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわしがこんな目に・・・」というような思いを持ったりする私たちです。

人は悲しいとき、苦しいとき、なかなか神さまが共にいてくださるとは思えません。私たちの信仰はそんなにりっぱなものではありません。つぶやくことの多い者です。「神さま、いない、いない」。そんなふうに思います。しかし私たちが神さまと出会うのは、うれしいとき、幸せなときではなくて、深い悲しみのなか、つらい思いの中であるのも、確かなことです。どうしようもない深い悲しみや不安の中から、私たちは神さまに新しく出会います。そして自分が悲しいとき、苦しいとき、神さまがおられなかったのではなく、自分が神さまに気づかなかっただけだということを知ります。神さまはずっと私たちと一緒にいてくださったということに気づきます。神さまは「いないいない」のではなく、必ず「ばあ」といてくださるのです。

私たちは心の弱い者ですから、しばしば「神さまいないいない」というふうに思います。しかし、また私たちは心の底では「神さまが私たちと共にいてくださる」ということを知っているのです。あかちゃんは「いないいないばあ」が好きで、「いないいない」のつぎにかならず「ばあ」となることを知っています。そのように私たちも苦しみや悲しみのなかで、「神さまいないいない」と思いながらも、しかし心の底では「神さまが共にいてくださる」ことを知っているのです。

私たちの神さまは「いないいないばあ」の神さまなのです。「いないいない」のままでは終わらない。かならず私たちと共にいてくださるのです。

みなさんのこれからの人生も、いろいろなことがあると思います。「なんでわたしがこんな目にあうんだ」と思えること、あるいは「神さまなんて、いない」と思えること、そんなときがあると思います。そんなとき、教会の礼拝にいらしてください。そして「いない、いない、ばあの神さま」に出会ってほしいと思います。

皆様の歩みのうえに、神さまの恵みが豊かにありますようにと、お祈りいたします。


(2024年11月17日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》