「ちいさなよきわざにはげむ」
聖書箇所 マタイ25章31−46節
日時場所 2024年11月24日平安教会朝礼拝・収穫感謝日礼拝
今日は収穫感謝日です。秋の実りを、神さまに感謝する日です。神さまから与えられた豊かな恵みは、ひとりじめするものではなく、みんなでわかちあうものであることを、覚えたいと思います。今日は子どもの教会のお友だちやお子さんをそだてておられるご家族の方々と一緒に、礼拝を守っています。
子どもの教会も、子どもたちもなかなか忙しく、集うことができないことも多くなってきました。それは平安教会だけのことでもありません。そうしたなかでも子どもの教会のスタッフの皆さんは祈りつつ、こころを込めて、子どもの教会に取り組んでくださっています。こころから感謝いたします。
子どもの教会との合同礼拝のときのメッセージというのは、どういう感じで話をしたらよいのか迷うところです。今日はこどもが聞いているような感じでやってみます。みなさんも子どもたちが一緒にいるという感じで聞いてくださればと思います。
子どもの教会で、わたしが話をするときはこんな感じで話をします。
ぼくたち、私たちは「人から何かをしてもらう」ということは、好きですね。「お母さん、肩たたいて」とか、みんな言わない?。ああ、そう。でも「おかあさん、お箸とって」とか「おとうさん、これしまっといて」とか、自分でできることも、人に頼むっていうことないですか。ない?。ああ、そう。「わたしのかわりに、トイレにいってきて」というのは?。ない?。ああ、そう。でも、何か自分でやるのがちょっと面倒で、相手の方がちょっとだけ近かったりすると、相手に頼むっていうことあるよね。「テレビつけて」とか。
ぼくたち、私たちはなんとなく、自分のためではなくて、人のために何かをするということを、損なことと思っているっていうことないですか。たとえば、お父さんが洗濯物をたたんでいたりして、「聖子ちゃんも一緒にたたんでくれへん」と言われたら、「えー、そんなんいやや。なんでわたしがせんならんの」と思ったりしませんか。お母さんがお皿を洗っていて、「明菜ちゃん、お皿、ふいてくれへん」と言われたら、「えー、それはわたしのすることじゃないよ。(お父さんがすることよ)」と思ったりしませんか。お母さんから「家の前を掃除してくれない」と言われたら、「お小遣いくれたら、してあげてもいいよ」って思ったりしませんか。「ただで何か人のためにするのは、損だ」というふうに思ったりしませんか。
昔々のクリスチャンの人たちは、私たちが思っている以上に、一生懸命に、人のために働いていました。どうしてそんなことがわかるのかというと、昔々の人の手紙の中にそう書かれてあるからです。昔々、紀元4世紀のこと、いまから1670年くらい前のことです。その時代には、ローマ帝国っていう大きな国がありました。そのローマ帝国の皇帝に、ユリアノスさんという人がいました。
【ユリアヌス Flavius Claudius Julianus 331-363 ローマ皇帝(在位361年—363年)。コンスタンティヌス1世の甥(おい)。伯父のキリスト教公認後に新プラトン主義哲学の研究やミトラス教に近づき,皇帝になるとキリスト教を圧迫,著作によっても〈異教〉の組織化を図った。のちササン朝ペルシア征討で戦死。〈異教〉の復活を企てたとしてのちに〈背教者〉と呼ばれた】(マイペディア97、株式会社日立デジタル平凡社)
このユリアノスさんはクリスチャンがとっても嫌いでした。だからイエスさまを信じるクリスチャンが増えないようにしようと思いました。それで家来の人に手紙を送って、クリスチャンが増えないように、あなたたちも「これこれ、こういうことをしなさい」というふうに命令を出しました。
その手紙で、ユリアノスさんはこう言いました。
【ヘレニズムは、まだ然るべき仕方でうまく発展していない。それをいとなむ我々の責任である・・・。無神論(=キリスト教)をこの上もなく発展させた理由は、他者に関する人間愛、死者の埋葬に関する丁寧さ、よく鍛錬された生き方の真面目さである、ということを、我々は知らないわけではない。このそれぞれを、我々の方も本気になって実行するのがよいと思う。それも、あなただけがする、というのでは十分ではない。・・・。それぞれの町に救護所を多く設置せよ。外来者が、我々の人間愛にあずかることができるように。我々の外来者だけでなく、ほかの者たちも、必要があればそれにあずかれるように】(田川建三『キリスト教思想への招待』、頸草書房)(P124)。
ユリアノスさんは、こう言ったわけです。「あなたもクリスチャンの人たちみんな熱心に、人のために働いているのをよく知っているだろう。彼らは本当に一生懸命に人のために働いている。だから、私たちも彼らの真似をして、人のために働こう。そうしたら、みんな私たちの方の言うことを信じるようになるだろう。クリスチャンは、町に困った人たちのための宿を作っているから、私たちも作ろうじゃないか。クリスチャンがつくった宿は、自分たちの仲間のためだけの宿じゃない。自分たちの仲間以外の人たちで困っている人も、自由にその宿に泊まることができるような宿なんだ。泊まるだけじゃなくて、食べ物も食べることができるし、病気の人たちへの介護もそこではされている。そして身寄りのないお年寄りの人も、そこには泊まることができるんだ。そんな宿を、私たちもつくろう。そんな宿を、クリスチャンの人たち以上につくれば、人々は私たちの言うことを信じるようになるだろう」。
ユリアノスさんはクリスチャンが大嫌いだったんだけど、でもクリスチャンのしていることはとてもいいことだから、私たちも真似しないといけない。悔しいけれど、クリスチャンの人たちは、ほんとうによく、人のために働いている。そんな手紙を残しています。
ふつう、私たちは嫌いな人のことは、悪くいうわけです。「あいつは、だめなやつだ」というふうにけなしたりします。でも昔々のクリスチャンたちは、ユリアノスさんがけなすことができないほど、一生懸命に人のために働いていました。クリスチャンが大嫌いなユリアノスさんも、そのことを認めないわけにはいかないくらい、クリスチャンたちは一生懸命に人のために働いていました。ちょっとすごいよねえ。
今日の聖書の箇所は、「すべての民族を裁く」という表題のついている聖書の箇所です。キリスト教は、世の終わりの時に、イエスさまが一人一人の人間を裁かれるということを信じています。今日、読んだ聖書の箇所には、そのことが書かれてあります。「人の子」や「王」というのは、イエスさまのことです。終わりの時に、イエスさまが天使たちを従えてやってきて、そして羊飼いが、羊と山羊を分けるように、人々を分けられる。羊を右に、山羊を左に。だいたい、羊にはおとなしくていいイメージがあります。山羊は絵本の「三匹の山羊のがらがらどん」みたいに、ちょっと乱暴なイメージがあります。
そしてイエスさまは右側にいた人たちに言われました。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
でも右側にいた正しい人たちは、ちょっときょとんとして言いました。イエスさま、いつ私たちのところに来て下さったのですか。私たちはわかりませんでした。たしかにお腹をすかせていた人に食べ物をあげたり、のどがかわいている人に飲み物をあげたり、旅人に宿を貸してあげたり、貧しい人に服を着せてあげたり、病気の人のところにお見舞にいったり、牢屋にいる人を訪ねたりしたりはしましたけど、それはイエスさまじゃなかったですよ。
すると、イエスさまは言われました。【『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』】。イエスさまは、お腹をすかせていたり、のどがかわいていたり、貧しい旅人であったり、病気だったり、牢屋に捕まっていたりする、小さな者たちを大切にすることが大切だと言われます。自分のためではなくて、困っている人のために、何かしてあげるということは、とても大切なことだ。そしてそれはわたしにやってくれているってことなんだよと、イエスさまは言われました。
このイエスさまの教えのとおりに、4世紀のクリスチャンたちは、やってたんだね。【お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた】。4世紀のクリスチャンたちは、困っている人のための宿をつくって、仲間であろうと、他人であろうと、困っている人に対しては、同じように、手を差し伸べていました。
すごいなあと思います。急に「あなたも言って同じことをしなさい」と言われても、ちょっと困ってしまうけれども、でもやっぱりぼくたち、私たちも4世紀のクリスチャンのように、ちいさなことでもいいから、何か始めることができたらいいなあと思います。「よーし、今日帰ったら、お父さんの肩をたたいてあげるぞ」っていうのもいいと思います。
でも小さな良い業に励むために、いつもみんなの頭のなかに「お先にどうぞ」っていうことを置いておいたらどういいんじゃないかなあと思います。30年ほど前に天に召されたレヴィナス(エマニュエル・レヴィナス)さんっていうフランスの哲学者は、私たちがこの世の中で暮らしていくときには、「お先にどうぞ」っていう気持ちが大切だって言っています。「お先にどうぞ」っていうのは、簡単なようで、むつかしいよね。ドアの前で「お先にどうぞ」っていうのは、そんなに急いでなければ、簡単なことだよね。でも船が沈んでしまうときに、「お先にどうぞ」って、だれかを自分の代わりにボートに乗せてあげたり、浮き輪をゆずってあげたりするっていうのは、むつかしいことだよね。《【レヴィナス先生は、倫理の根本的形態とは「お先にどうぞ」という言葉に集約される、と書いている。「そんなの簡単じゃないか」と言う人がいるかもしれない。たしかに、エスカレーターの前や、ドアの前で「お先にどうぞ」と言うことはそれほどむずかしくない。でも「タイタニック号、最後のボートの最後のシート」を前にして「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない】(内田樹『「おじさん」的思考』、晶文社)(P95)》。
でもいろんなときに、「お先にどうぞ」っていう場面に、ぼくたち、私たちは出くわすよね。朝、洗面台の前で、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。バスに乗るとき、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。切り分けられたおいしそうなケーキが、大きいのと小さいのとがあるときに、「お先にどうぞ」って言えるかなあ。いろんなときに、「お先にどうぞ」っていうことを考えてみてほしいなあと思います。
イエスさまは私たちに、「この世の小さな人々のためのことを忘れないでほしい」と言われました。「自分のことばかり先に考えて、自分勝手に過ごすのではなくて、人のために働くことも大切だよ」と言われました。私たちはイエスさまの招きに応えて、小さな良き業に励みたいと思います。
(2024年11月24日平安教会朝礼拝・収穫感謝日礼拝)
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