「おぼろに見ている」
聖書箇所 コリントの信徒への手紙(1)13章1ー13節
日時場所 2025年1月12日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい
今日は成人祝福礼拝ということで、二十歳を迎える愛児園の卒園児を覚えて礼拝を守っています。また今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい話をすることにしています。
老眼鏡をかけるようになって18年になります。文字をみるときは、この老眼鏡をかけて、テレビを見る時は別の老眼鏡をかけています。なかなか不便です。食事をする時も老眼鏡をかけています。かけていないと、食べるものがぼやけて見えて、ちょっとさみしい気がします。食べるって言うのは口で食べるだけでなく、目でも食べているんだなあと思わされます。
いつ自分が老眼になったということがわかったのかというと、電車で本を読んでいる時でした。はじめは手から少し話したところで本を読んでいました。これはふつうですね。それがだんだんと手が身体から離れて来るわけです。これくらいになります。でもまだ自分が老眼だとは気がつきませんでした。それが、これくらい離れてきて、そしてこれくらいになり、どんなに手を伸ばしても本の文字がぼやけているということに気がついた時にはじめて、自分が老眼であるということに気がつきました。びっくりしました。
でも老眼鏡をかけてよかったこともあります。老眼鏡をかけるようになって一番よかったことは、みなさん、なんだと思いますか?。それは、いままで自分がはっきりと見えていたと思っていたことが、ぼんやりとしか見えていなかったということがわかったということです。これは思い込みが強く、自分が正しいと思い込みやすいわたしにとってはとても大きいことでした。老眼鏡をかけるたびに、自分は「おぼろに見ていた」ということを思い起こすことができます。(2008年2月17日高槻日吉台教会朝礼拝・受難節第2主日)。
今日の聖書の箇所は結婚式でよく読まれる聖書の箇所です。「愛は決して滅びない」なんて、とってもいい言葉だなあと思います。この聖書の箇所はイエスさまのお弟子さんのパウロさんという人が書きました。パウロさんという人は「信仰の人」と言われます。「信仰」、「神さまを信じる」ということがとっても大切だというふうに思っていました。そしてパウロさんは今日の聖書の箇所の最後のところでこう言いました。【それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る】。パウロさんは大切なことが三つあると言いました。一つは「信仰」。パウロさんは「信仰の人」と言われるくらいの人だったから、やっぱり一つは「信仰」だと言いました。そしてもう一つは「希望」。そして最後は「愛」です。「信仰と希望と愛がとても大切」。それでこの三つの中でもっとも大切なのは、何なのか。パウロさんは「信仰の人」だったから、「もっとも大切なのは信仰だ」と言ってもおかしくないような気がするんだけど、でもこう言いました。【その中で最も大いなるものは、愛である】。
パウロさんは自分が一番大切にしている「信仰」ではなくて、「最も大いなるものは、愛である」と言いました。それは「『愛』っていうのは、神さまから与えられるものだ。愛は神さまがくださるものだから、やっぱり一番大切だ」と、パウロさんは思っていました。信仰は大切だけど、それは人間のすることだから、一番にはならないとパウロさんは思っていました。やっぱり神さまが私たちを愛してくださっているってことが一番大切だと思っていました。
パウロさんは「人間ははっきりとものをみていない」と思っていました。「だからたとえ自分が絶対正しいと思っていても、やっぱり間違っているかもしれない」と思っていました。パウロさんは【わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている】と言っています。
人はしっかりと物事をみているようで、実はいい加減に見ていることが多いです。たとえばファッションに興味のない人は、いちいち人が着ている服を見ていたりはしません。ファッションに興味のない男の人に、「今日、あなたのおつれあいはどんな服を着ていましたか?」と聞いてみてくだしあ。たぶん答えることができないと思います。
みなさんは「自分のことは自分がよく知っている」と思っていると思います。お母さんと喧嘩などして、「わたしのことはわたしが一番よくわかってる!」というふうに言ったりすることがあること思います。そんなことないですか?。でもみなさんは自分の赤ちゃんのときのことを知っているわけではありません。(たぶんお母さんは知っています)。あるいは自分が寝ているときどんなふうであるのかということも知っているわけではありません。(たぶんお母さんは知っています)。あるいは自分の背中がどんな背中であるのかも知りません。(たぶんお母さんは知っています)。
「自分のことは自分がよく知っている」というのであれば、自分の顔がどんな顔かはっきりと見ていてもいいような気がしますが、私たちは自分の顔を直接見ることはできません。私たちは自分の顔も「鏡に映ったものを見ています」。【鏡におぼろに映ったものを見ている】のです。みなさんは自分がどんなふうに笑うか見たことがありますか。自分が心から笑っている顔を見ようとして、鏡をのぞき込んでも、もうそこには心から笑っている自分の顔はありません。自分の笑い顔を観察しようとしている自分の顔が鏡に映っているだけです。わたしが心から笑っている顔は、わたしの友人やわたしの家族が知っているわけです。わたしが知っているわけではありません。まあ最近はビデオというものがありますから、少しはそうしたものを見ることができるかも知れません。でもそれはビデオを通してであって、直接ではありません。
笑っている顔や幸せそうにしている顔であれば、ビデオや写真でみることができるかも知れません。では自分が怒っているときの顔はどうでしょうか。楽しいときの笑顔をビデオでとられるということは、いまの時代ですからあるでしょう。家族で旅行した時のビデオだとか。でもよっぽどのことがない限り、自分が怒っている顔をビデオで見たという方は、そんなにはおられないのではないかと思います。わたしも残念ながら自分の怒っている姿をビデオで見たことはありません。
私たちは意外に自分のことを知りません。周りの人のほうがはるかにわたしのことを知っているということがあります。みなさんのお母さんは、みなさんがどんなにかわいらしく笑うかを知っています。みなさんのお父さんは、みなさんがどんなに気持ち良さそうに眠っているのかを知っています。みなさんの友だちは、みなさんがどんなにやさしい顔を友だちにむけてくれるのかを知っています。みなさんの恋人は、みなさんがどんなにすてきな瞳で自分をみつめてくれるかを知っています。(恋人はちょっと早すぎますか?)。
パウロさんは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言いました。わたしはこの聖書の言葉は、とても大切な聖書の言葉のような気がします。パウロさんは私たちの知っていること一部でしかないと言いました。私たちが知っていることは一部であり、そして私たちが見ているものは、「鏡におぼろに映ったもの」であるということを、しっかりと心に留めておかなければならないと、パウロさんは言いました。「私たち人間が見ているものは、鏡におぼろに映ったものにすぎない」のです。私たちは自分の顔でさえも「鏡におぼろに映ったもの」としてしか見ることはできません。
だから私たちはお互いに謙虚にならなければなりません。私たちが真理を振りかざして人を問いつめようとしたり、人を裁こうとするとき、自分が絶対に正しいと思い込んでいるとき、私たちは自分たちが見ているものが「鏡におぼろに映ったものにすぎない」ということを思い起こさなければなりません。
パウロさんは自分が大切にしていた「信仰」ではなくて、神さまがくださる「愛」がもっとも大切なものだ、最後に残るのは人間に関することではなくて、神さまの愛なんだと言いました。
大切なことは神さまが私たちを愛してくださっているということです。このことが一番大切なことであると、パウロさんは言いました。自分がりっぱであるとか、自分がりっぱでないとか、そういうことが大切なのではない。神さまがわたしのことを愛してくださっているということが大切なのだと、パウロさんは言いました。
私たちは大きな神さまの愛のなかに生かされています。神さまが私たちを守ってくださっています。私たちのことを愛してくださる神さまにより頼んで、神さまの愛に感謝して歩んでいきましょう。
(2025年1月12日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)
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