「神さまの導きに従って」
聖書箇所 マタイ2:13ー23。267/268。
日時場所 2025年1月5日平安教会朝礼拝式・新年礼拝
クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2024年を終え、2025年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。
毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。ことしは、アモス書5章14節のみ言葉を選びました。「善を求めよ。悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために(旧約聖書 アモス書5章14節)」「私たちの世の中が、奪い合いではなく、わかちあいの世の中であることを信じて歩みます」。
私たちの世の中、倫理的なことがだんだんと大切にされなくなってきているような気がします。私的なことに重きをおく社会になり、公のことに重きを置くことが少なくなってきているからでしょうか。とくに政治の世界ではそうで、「倫理的でないけれども、仕事がよくできる政治家と、倫理的だけれども、仕事ができない政治家と、どちらが良いですか」というようなことが言われたりします。でも私たちは「ふつうの倫理観をもって、仕事もよくできる政治家がいい」としか言いようがないわけです。
私たちは倫理的といっても、自分の家財をなげうって政治を行なってくださいというようなことを言っているわけではありません。せいぜい、裏金をつくるようなことはしないでほしいとか、権力でもって女性をだますようなことをしないでほしいというようなレベルの倫理的なことをお願いをしているわけです。政治家が女性をだますようなことをしていると、こんどは検事が女性をだますようなことをするようになり、そうすると「まあ、政治家も検事もやっているのだから、私たちもやっていてもいいのではないか」というような社会になっていきます。世の人々はそうした社会になってはいけないと思うので、政治家の人たちに「もうすこし倫理的な大切にして政治を行なってほしい」とお願いをしているということです。
預言者アモスは、「善を求めよ。悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために」と言いました。不正や不信仰が満ちている社会のなかで、アモスは「みんな神さまの御心に反して生きている。それはよくない」と言いました。神さまの御心にしたがって、善を求め、悪を遠ざけ、私たちの社会が良き社会になるようにしていこうと、人々に呼びかけました。やはり、善を求め、悪を求めず、こころやさしいわかちあいの社会になってほしいと思うのです。
今日の聖書の箇所は「エジプトへ避難する」「ヘロデ、子供を皆殺しにする」「エジプトから帰国する」という表題のついた聖書の箇所です。
マタイによる福音書2章13ー15節にはこうあります。【占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。】。
占星術の学者たちは、ユダヤの王としてお生まれるなる、イエスさまを探して旅をしていました。ユダヤの王であれば王宮に生まれるに違いないということで、ヘロデ王のところを訪ねます。ヘロデ王は自分に代わって王となる人が生まれたということで、その赤ちゃんを見付けて殺そうとします。そのため、占星術の学者たちにその赤ちゃんを探させようとします。占星術の学者たちに、「わたしも行って拝もう」と嘘をつき、みつけたらどこにいたかを報告してほしいと頼みます。占星術の学者たちは、イエスさまたちにお会いすることができました。そのあと「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、ヘロデのところに帰ることなく、自分たちの国へ帰っていきました。
主の天使はヨセフのところにも現れ、ヘロデ王がイエスさまを殺そうとしているので、イエスさまとマリアを連れてエジプトに逃げるようにと、ヨセフに言います。ヨセフはイエスさまとマリアと一緒に、エジプトにに逃げていきます。
マタイによる福音書2章16−18節にはこうあります。【さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」】。
ヘロデ王は自分が占星術の学者たちにだまされたと知ります。正確にイエスさまがおられる場所がわからないので、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を殺させます。しかしヨセフがイエスさまとマリアを、エジプトに避難をさせたので、イエスさまは無事でした。
マタイによる福音書2章19−23節にはこうあります。【ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。】。
ヘロデ王がなくなったと、主の天使はヨセフに、イエスさまの命をねらっていた人たちがいなくなったので、イスラエルに帰っても大丈夫だと告げます。ヨセフはイエスさまとマリアと一緒に、イスラエルの地に戻ります。しかしヘロデ王のあと、アルケラオ王がユダヤ地方を治めているということを聞いて、ユダヤ地方は怖いので、別のところにしようと思います。そのときヨセフに夢でお告げがあります。ヨセフたちはガリラヤ地方のナザレという町に住むことになりました。
実際に、ヘロデ王が【ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた】というような幼児虐殺が行なわれたのかということについては、史実としてはなかったのではないかと言われています。ヘロデ王がとても残虐な王さまであったと言われています。自分の代わりに王になろうとする人たちに対して、ヘロデ王は容赦がなかったと言われています。それが自分の身内の者であろうと、そうであったと言われています。ローマ皇帝アウグストゥスは「ヘロデの息子であるよりも豚の方がまだ安全だ」と言ったということです。
イエスさまの誕生のときに行われたとされる事柄は、悲しいことですけれども、いまの時代でも行われていることであるわけです。イスラエルの攻撃によって、パレスチナの病院は爆撃を受け、多くの病気の人たち、子どもたちがケガをしたり、亡くなりました。自分たちの住んでいる土地を追われて、外国へ避難をしていく人たちがたくさんいます。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」。そうしたことが、時を超え、場所を変えて、行われているのです。
イエスさまはお生まれになられたあと、ヘロデ王から命をねらわれ、そしてエジプトに難民となって逃げることになりました。そのときヘロデ王による幼児虐殺が行われ、人々は王の圧政に苦しみます。そうした大変な出来事が記されてあるわけです。しかし聖書は同時に、そうした大変な出来事の中で、神さまの導きがあり、イエスさまたちが守られたということが記しています。
また悲しい出来事も「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と、マタイによる福音書は記しています。これは悲しい出来事を神さまが行われたのだということを言っているのではありません。悲しい出来事が起こったけれども、しかし神さまはそのことを知っていてくださるのだということです。神さまが知っていてくださり、そしてそののち、神さまの御心が行われていくのだということが記されているのです。
私たちは生活のなかで、いろいろな出来事に出会います。うれしいこともありますが、悲しいこともあります。とても受け入れれがたい出来事だと思えるような出来事をも、私たちは拳々します。しかしそうしたなかにあっても、私たちは神さまの導きがあると信じて歩んでいます。
イエスさまの誕生の物語の後半は、イエスさまが大変な出来事に出会うという物語です。しかしそうしたなかにあっても、【主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】【預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した】【預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった】と記され、預言者たちをとおして示されている神さまの御心が行われていくことが記されてあります。
神さまは私たちを愛してくださり、私たちを導いてくださいます。新しい年も、神さまの愛のうちを、お迎えしたイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。
(2025年1月5日平安教会朝礼拝式・新年礼拝)
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