2025年2月7日金曜日

2月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すなおにおなり」

「すなおにおなり」

聖書箇所 ルカ5章1-11節。484/493

日時場所 2025年2月9日平安教会朝礼拝

今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい、親しみやすい話をすることにしています。

わたしの故郷は四国の愛媛県・今治市です。海の近くの町だからでしょう、教会学校のキャンプは海で行なわれていました。今治の向いの大島という島で行なわれていました。学校の運動会などで使われるようなテントを立てて、側面もちゃんとテントをはります。水もボートにのって近くの民家にもらいにいくというようなところでしたから、用意する教会学校の先生たちは大変だっただろうと思います。

高校生のときなどは、海辺のキャンプ場で、海をみつめながら、みんなでいろいろなことを話しました。人生について、愛について、教会について、などなど、こころの思いを夜遅くまで話し合い、わかちあうことができました。月の光、星が輝き、波の音。それらは高校生であるわたしのこころを素直にさせてくれました。「おれって、こんなにこころがきれいだっただろうか」と思わされます。すこしロマンチックな気分にさせられます。好きな女の子の中山(前田)さんと二人で海を見つめていると、「美穂(敦子)さん、ぼくはあなたのことが、・・・」というような気持ちにもなります。教会学校のキャンプは、そんなすてきなキャンプでした。

またひとりで夜の海をみつめるということもありました。夜、トイレに行きたくなって起きて、トイレに行くと、なんとなく目がさえてしまって、なかなか眠れそうにないとき、ひとり、夜の海を見つめていました。ひとりでみつめる夜の海は、みんなでみつめる夜の海と、また違った感じがします。暗い闇のなかでひとりみつめている海は、自分の心の深淵に通じているような気がします。「なぜぼくの心の中にはよこしまな思いがあるのだろう」「どうしてわたしは人を憎んだり、人につらくあたったりするのだろう」「どうして人の不幸を笑っているような自分がいるのだろう」。自分のこころのなかのどろどろとした感情、どうにもできないような冷たさ。キリスト教の用語では、罪ということができるかも知れません。ひとりでみつめる夜の海は、そうした自分の心の深淵をひしひしと感じさせます。

漁師であったペトロやヨハネやヤコブは、どんな思いで、いつも夜の暗い海をみつめていたのでしょうか。危険を伴う夜の海、すこし間違えばあやうく命を落としてしまうというようなことも経験したでしょう。生と死とがとなりあわせの海です。またペトロやヨハネやヤコブは、暗い夜の海をみつめながら、自分の罪やこころのなかの暗闇に出会うことがあったのではないかと思います。互いに傷つけあったり、いがみあったり、ありのままの自分を受け入れることができず、ののしりあったり。夜の海をみつめながら、自らの心の深淵を嘆くこともあったと思います。

今日の聖書の箇所は、「漁師を弟子にする」という表題がついています。この箇所はイエスさまの弟子たちの召命の物語です。

イエスさまの周りには、いつもイエスさまのお話を聞こうとしてついてくる群衆がいました。群衆たちはイエスさまのお話を聞きたくて聞きたくてしょうがなかったのです。しかしあまりの勢いですので、湖畔にたって話をすることができそうになくなったので、イエスさまは湖の上からお話をしようとさないました。そこで漁から帰ってきていたシモン・ペトロに頼んで、舟を出してもらって、舟の上に腰を下ろして、群衆たちに神さまのお話をすることになりました。

イエスさまは群衆に話し終えられたあと、シモン・ペトロに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。それに対してペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。ペトロは夜通し働き、それでもなんの収穫もなかったわけですから、もう今日はどんなに考えてもだめだろうと思っています。しかしイエスさまが言われるのであれば、網を降ろしてみましょうと言いました。そしてペトロたちはイエスさまの言うとおりにします。

この「イエスさまの言うとおりにする」ということが大切なわけです。私たちは人間ですから、いろんな迷いや疑いというものがあるわけですけれども、とにかくイエスさまの言われるとおりにするということが大切なわけです。そしてペトロたちは、イエスさまの言われるとおりにしました。すると網がやぶれそうになるほどのたくさんの魚がかかりました。一そうの舟ではたりそうにないので、仲間に合図をしてきてもらいます。しかしそれでも魚は二そうの舟にいっぱいになり、舟が沈みそうになるほどでした。

とれるはずのないおびただしい魚がとれた奇跡を見たシモン・ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。ペトロの漁師仲間であったヤコブやヨハネも、ペトロと同じようにイエスさまにこころを奪われてしまいす。そんなペトロたちにイエスは言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。そしてペトロたちは舟から上がり、「すべてを捨てて」イエスさまに従います。

この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。それは大切な物語ですから、ある意味でよく考えられて書かれています。イエスさまと弟子たちが出会います。そしてイエスさまは弟子たちに漁に出るように言われます。弟子たちは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスさまの言われたことを行ないます。そしておびただしいほどの魚がとれるという奇跡が行われます。それに対して、使徒ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスさまに対する信仰告白を行います。それに対して、イエスさまが弟子たちを「あなたは人間をとる漁師になる」と招かれます。そして弟子たちはすべてを捨ててイエスさまに従います。

私たちはこの箇所を読むと、だいたい【しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう】、【彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った】というような箇所に心をひかれます。「私たちもやっぱり、イエスさまの御言葉を聞いて、素直に従っていこう」「すべてを捨ててイエスさまに従っていこう」と思います。

しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い海を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い海をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。ペトロは【先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした】と言いました。ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の海をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い海のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

そして弟子たちは、イエスさまの御言葉に出会ったのです。「おまえたちの苦労を神さまは知ってくださっている」「おまえのよこしまな心を神さまは許してくださっている」「おまえを神さまはかけがえのないたったひとりの人として愛してくださっている」。夜の海で揺られながら、自らの罪について考えていた、ペトロたちの心にイエスさまの御言葉はしみわたったのです。そして二そうの舟にいっぱいの魚がとれたという奇跡のあとの、ペトロの信仰告白になるのです。【主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです】。ペトロは自分たちが夜通し苦労する者であり、そしてまたそれゆえに互いに傷つけあいながら生きている。そしてそのことをこころの痛みとして生きている。苦しみながら生きている。しかしそんなわたしを神さまは見捨てられないで、「よし」としてくださっている。そうした思いが、【主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです】と現れたのでした。

私たちもまた、ペトロたちと同じように、夜通し苦労する者です。暗闇の中で悩んだり、叫んだり、傷つけあって生きています。「わたしはこんなに一生懸命しているのに、だれもわたしのことを理解してくれない」。「わたしの一生懸命さは、神さまが知ってくださっているのだから、わたしはこれでいいんだ、しかたがないんだ」と居直ったりします。ほんとは自分ではいいと思えなくても、「もうどうしようないんだ」との叫びとともに、強がってみたりします。人を恐れ、自分のなかのどうしようもない不安におそれ、だれもわかってくれないという孤独を恐れます。

イエスさまは「恐れることはない」と言われました。そんな私たちにとって「恐れるな」というイエスさまの御言葉は、なにか確信をついているような気がします。強がったり、居直ったりするのではなくて、もっと神さまに委ねて歩みなさい。心から神さまにすべてを委ねて歩むとき、あなたは強がったり、居直ったり、「これでいいんだ」と無理矢理に思い込んだりしなくても、もっと自然に周りの人々とともに歩んでいくことができるのです。互いに傷つけあう必要はなく、互いにわかちあい支えあうことができるように、神さまが道を整えてくださるのです。

イエスさまは弟子たちに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。「人間をとる」とは「人間を生け捕りにする」ということです。それは「人を生きたまま危険から救う」ということです。いろいろな問題をかかえながらも懸命にいる生身の人間をそのままで救うということです。そのままで、ありのままで神さまから救っていただくということなのです。それは恐れたり、格好をつけたり、強がったり、居直ったりすることではなく、こころ素直に神さまの救いをそのままで待つということです。

夜の暗闇の海に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の海に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。



(2025年2月9日平安教会朝礼拝)



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