2025年2月7日金曜日

2月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ほっとできるところがいいよね」

「ほっとできるところがいいよね」

聖書箇所 マタイ21:12-16。486/487。

日時場所 2025年2月2日平安教会朝礼拝式 

2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、周囲には学童保育施設や小学校、保育園があり、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。しかし子どもの声がうるさいということがありました。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

いろいろな教会のなかでも長年、礼拝は静かに守りたいという人と、少々うるさくてもこどもたちも一緒に守ることができたら、とても豊かな礼拝を守ることができるのではないかということが話されてきました。平安教会ではいま、こどもと一緒に礼拝を守るということも考えて、子ども連れでお父さんやお母さんが来やすい教会の礼拝の形を、すこし考えてみたらよいのではないかというようなことが、子どもの教会のスタッフ会や、役員会の中でも話されています。

わたしの友人が牧師をしている教会は、おかあさんと一緒に赤ちゃんがやってくるときは、出席者の人数が増えるそうです。遠くにすんでいる牧師の娘さんが赤ちゃんと一緒にやってくるときは、出席人数が増えるのです。赤ちゃんに会いにくるのです。「先生、娘さんの聖子ちゃん、こんどいつ赤ちゃんと一緒に帰ってくるの」と聞かれるそうです。そして娘さんの聖子ちゃんがいつも出席している教会の方は、出席人数が減るそうです。「あかちゃんの力って、すごいなあ」と教えてくれました。

まあ人間ですから、あかちゃんが好きという人もいれば、あかちゃんは苦手という人もいるだろうと思います。飛行機のサービスで、座席を指定する時に「赤ちゃんマーク」が出るようにしている航空会社があります。赤ちゃんが苦手な人は、あらかじめ赤ちゃんがいる席が分かるので、あかちゃんがいるところから遠く離れた席を予約することができるわけです。

いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。ですから自分の思いどおりにならないこともやはりあると思います。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」とか「どなられた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

今日の聖書の箇所は「神殿から商人を追い出す」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書21章12−13節にはこうあります。【それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」】。

多くの人々が神殿に礼拝のためにやってきていました。礼拝のなかで羊や山羊や鳩を、犠牲の献げ物としてささげるということが行われていました。神さまにささげる献げ物ですから、傷ついたものをささげることはできません。ですから遠くから来ている人たちは、自分で持ってくるというわけにもいかず、神殿の境内でそうした献げ物を買うというようなことが行われていました。まあ便利と言えば便利ですから、まあ商売としてもそんなに変な商売というわけでもなかっただろうと思います。お墓の入り口に花屋がやって、そこで花を買ってお墓に飾るというようなことが行なわれいるのと同じような感じです。まあ人が集まるわけですから、礼拝にきている人たちに、ちょっとした食べ物を売るというようなことも行われていたかも知れません。いろいろな神殿の境内にいろいろな店が出てきたとしても、まあそんなにびっくりぎょうてんするような話でもないわけです。

でもそもそも、神殿は「祈りの家」であるわけですから、そこで商売が行われ、いろいろな利権がからむようになってくると、それはふさわしいことではないわけです。でもまあやっぱりそうしたことが行われていて、「神殿は祈りの家であるはずなのに、どうしたもんかなあ」というような状態になってしまっていたということです。それで、イエスさまは神殿の境内で商売をしている人を追い出して、神殿は「祈りの家」と呼ばれるのにふさわしいものでありたいと呼びかけられたということでしょう。

それはまた神殿の境内で商売が行われているということについての批判ということだけではなかったと思います。神殿そのものが、神さまの祈りの家にふさわしいものであるのかということを、イエスさまは問われたのでした。神殿が神さまの御心を行なうところとなっているのか。神さまは小さき者たちを大切にされ、こころにかけておられる。そうした神さまの御心にふさわしい神殿であるのかということを、イエスさまは問われたのでした。

マタイによる福音書21章14−16節にはこうあります。【境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」】。

イエスさまに病気をいやしてもらうと、いろいろな人がイエスさまのところにやってきていました。神殿の境内でも同じように、イエスさまがおられるということで、目の見えない人や足の不自由な人たちが、イエスさまのところにやってきます。イエスさまは人気です。神殿の境内にいた子どもたちも、イエスさまを「ダビデの子にホサナ」と言ってほめたたえました。それをみた祭司長たちや律法学者たちは、イエスさまに嫉妬して怒ります。祭司長たちや律法学者たちは、神殿で大きな声を上げている、子どもたちの声が耳につくのです。「神殿は子どもが大きな声をあげるところではない」「だれだこの原因を作っている張本人は、とんでもないやつだ」。そしてその原因をつくっているイエスさまを非難するのです。それに対してイエスさまは「子どもたちが讃美の声を上げるのはよいことだ」と、反論しました。

『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』というのは、詩編8編3節からの引用です。詩編8編2−3節にはこうあります。【主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。 幼子、乳飲み子の口によって。】。詩編8編3節には、神さまをほめたたえる者として、幼子、乳飲み子が出てきます。

ユダヤの社会でもちいさな子どもは、邪魔者扱いされることが多くありました。それはまあいまの私たちの社会と変わらないわけです。まあ小さなこどもにも都合があるわけですから、泣いたりすることもあります。そのため大切な話をしているのに、声が聞えないというようなことがあったりするので、まあ邪魔者扱いされるわけです。しかしそうしたユダヤの社会の中にあっても、子どもは神さまをほめたたえる者として記されているのです。

私たちの時代はいま、とても対立の多い時代になっています。国と国とが争い、政治の世界でも対立が多く、「自分の国さえよければそれが良い」というような世の中になっています。わたしはもう少し、お互いに対話をして、穏やかな解決策を少しでも見いだしていく社会形成をしたほうが良いと思います。

政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」ということを言っています。【「家族から地域、そして国家へと続く共同体において、人々の帰属意識や相互義務感、社会的調和が失われています。自分たちがどう統治されるべきか、意味のある発言権を持っていると誰もが感じられるよう、自治のプロジェクトを活性化させなければなりません】【「公園や公民館、図書館、公共交通など、多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう】。

マイケル・サンデルは「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしはそれはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんなな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

「ほっとできるところがいいよね」という、説教題にしています。「ほっとできるところがいいよね」というのは、教会の雰囲気のことです。教会はほっとできるところがいいのだと思います。ほっとできるところに、人が集まってくるのです。

祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。




 

(2025年2月2日平安教会朝礼拝式)

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