「わたしもイエスさまにほめられたい」
聖書箇所 マタイ15:21-31。466/512。
日時場所 2025年2月23日平安教会朝礼拝式
「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。いまは「誉めるだけではだめだ」というようなことも言われ、まあこう言うのは流行のようなもので、当り前ですが、程度があるわけです。でもまあ、わたしも怒られる時代に育っていますから、やっぱり「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。
まあ昔の日本の若者はよく叱られて育ちました。意味もなく怒る大人がたくさんいたからでしょう。昔の映画監督になりますが、大島渚という人がいましたが、この人は怒ることで有名な人でした。大島渚は『戦場のメリークリスマス』(1983年)の監督をしています。この映画に音楽家の坂本龍一やお笑いタレントのビートたけしが出演しています。出演する時に彼らが大島渚に対して言ったことは、「おれたち怒られたら辞めるから」ということだったと言われています。
最近、京都教区定期総会議事録精査委員というのに選ばれて、2024年度に行なわれた京都教区定期総会の議事録を読んでいました。誤字脱字とかを探したり、意味のわからない表現になっていないかというようなことを探すわけです。京都教区定期総会のなかでいろいろなやりとりがなされているわけですが、やはり激しいやりとりもなされています。精査委員として議事録の校正をしているときに、京都教区の総会議長をしています今井牧夫議長にお会いする機会がありました。今井牧夫議長も最近、2024年度の定期総会議事録を読んでいて、「ぼく、なんでそんなに悪く言われなければならんのかなあ」「ぼく自身というより、まあ京都教区に対して言っているということなんだろうと思うけど」というような感想をもらしておられました。「まあ今井牧夫議長も一生懸命にやっておられるのだから、やっぱり誉められたいよなあ」と思いました。
今日の聖書の箇所は「カナンの女の信仰」「大勢の病人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。この聖書の箇所はマルコによる福音書7章24−30節に、同じような内容の聖書の箇所があります。
マタイによる福音書15章21−23節にはこうあります。【イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」】。
イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれたということですから、ユダヤから離れて北の方の外国の地に行かれたということです。そこでカナンの女性に出会います。マルコによる福音書7章24節以下では「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題がついています。新約聖書の75頁です。そしてそこでは【女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであった】と記されています。まあ女性はユダヤ人ではなく、外国人であったということです。女性の娘さんは病気にかかっていました。ですからこの女性はイエスさまに治していたいだきたいと思っています。女性は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びながら、イエスさまについてきます。あまりにうるさいので、イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまに「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言いました。
マタイによる福音書15章24−28節にはこうあります。【イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。】。
イエスさまのように、人々の病をいやしている人が外国人にもいました。ですからイエスさまは、わたしはイスラエルの人々をいやすことにしているので、あなたはそうした人にいやしてもらったよいですよと、やんわりとことわったわけです。まあ外国にいって外国人をいやしていると、外国人のお医者さんから「イエスはおれたちのシマを荒している」というようなことをいわれてしまうかも知れません。まあそうしてことはイエスさまもできるだけさけたいわけです。それでイエスさまは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。「子供たち」というのはユダヤ人たちで、「小犬」というのは外国人ということです。まあ現代的に言えば、あんまりふさわしい例え方ではないような気もします。外国人を小犬呼ばわりするなど、まあ現代ではありえないわけです。
しかし女性はそうしたことにこだわらず、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言いました。小さいこどもは食べ物をよくこぼします。こどもが食べているのか、こどもが着ている服が食べているのかわからないというようなことがあったりします。またこどもが食べ物をたくさん落として、落としたものを小犬が食べているというようなこともあります。女性はそれに例えて、「イエスさまの立場もよくわかります。こどもが落として食べ物を小犬が食べるというようなこともあるんだから、わたしの娘は外国人でユダヤ人でないけれども、でも治してくださっても大丈夫ですよ。なにか言われたら、『あの女はつきまとってきて、うるさくてうるさくてたまらなかったから、迷惑だったけど、特別に娘を治してあげたんだよ。うるさくてしかたがないんだから、どうしようもないよ』って言ってくださったら結構ですから」と言いました。
女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。
マタイによる福音書15章29−31節にはこうあります。【イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。】。
イエスさまはカナンの女性の娘をいやされたあと、ティルスとシドンの地方から、いつも自分たちが活動をしているガリラヤ湖のほとりに帰られました。イエスさまが山に登ると、大勢の群衆がイエスさまのところにやってきます。たくさんの病気の人たちが、イエスさまにいやしていただこうと連れて来られました。足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人。たくさんの人たちをいやされるわけですから、イエスさまもお疲れになられるだろうと思います。ユダヤの人たちも大勢病気の人たちがおられるわけですから、外国人まで手が回らないということも、それはそうかもしれないと思わされるほど、たくさんの人たちが、イエスさまのところに癒やしてもらうとやってきました。そしてみんなイエスさまによって癒やされたのです。それをみた、人々は神さまを賛美しました。
カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。貧しい生活のうえに、いろいろな病気や不自由なところをかかえて生きていくのは、それはそれは大変であるわけです。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人と助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。
「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていた、カナンの女性やユダヤの群衆たちは、私たちと同じように、日常生活のなかで、誉められるというようなことはそんなになかったのではないかと思います。イエスさまの弟子たちはカナンの女性のことを、「叫びながらついてくる面倒な女」「イエスさまに追い払って欲しい女」という目で見ていました。まあ弟子たちだけでなく、いろいろな人が女性をそういう目で見ていたということだと思います。しかしイエスさまはカナンの女性をほめられました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」。
イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかというようなことが気になるということもあるかも知れません。わたしはそれは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」という説教をするわけにもいきません。
しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。
いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。
(2025年2月23日平安教会朝礼拝式)
0 件のコメント:
コメントを投稿