2025年3月20日木曜日

3月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまに強く願う」

「イエスさまに強く願う」

聖書箇所 マタイ14:22-36。566/528。3/5、灰の水曜日

日時場所 2025年3月2日平安教会朝礼拝式      


京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。わたしはいま京都教区「合同」問題特設委員会の委員長をしています。この委員会が二年に一度、沖縄現地研修を行なっています。激しい沖縄戦が行われた沖縄県南部の戦争の跡を訪ねました。一日目は、平和祈念館、平和の礎、アブチラガマ、ひめゆり平和祈念資料館などを訪れました。二日目は、嘉数高台(かかずこうだい)(上陸後米軍を待ち受けて足止めした激戦地)、沖縄国際大学ヘリ墜落跡、嘉手納道の駅(基地を見る展望台)、読谷・チビチリガマを訪れました。そして3日目は新基地が造られようとしている辺野古を訪ねました。

昔、関東教区の沖縄現地研修に、わたしは参加しました。もう30年ほど前のことになります。しかし当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県はやはり戦争反対ということについては、私たちよりもとても熱心な思いをもっておられます。二度と戦争はしたくない。それはやはり地上戦が行われて、実際にご家族が戦争で亡くなった人たちがとても多いからでしょう。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

今日の聖書の箇所は「湖の上を歩く」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書14章22−24節にはこうあります。【それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。】。

イエスさま弟子たちを舟にのせて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かせます。そして群衆を解散させて、ひとり山に登られました。一人になられて心を静め、神さまに祈っておられたのではないかと思います。山というのは神さまと出会う場所であるわけです。しかしその間に、舟に乗っている弟子たちは大変なことになっていました。逆風が吹いて、なかなか思いどおりに舟を動かすことができませんでした。

マタイによる福音書14章25−29節にはこうあります。【夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。】。

「夜が明けるころ」というわけですから、弟子たちも湖のうえで、ずっと漂っているのは、とても大変だったと思います。イエスさまは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。「湖の上を歩いて」というのは、そんなことできるのだろうかと、私たちは思いますが、それはやはり弟子たちもそのように思ったわけです。イエスさまが海の上を歩いて来られたのをみて、弟子たちは「幽霊だ」と言って脅えます。その様子をみて、イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。使徒ペトロは、「ほんとうにイエスさまであるのであれば、わたしに命令をして、水の上を歩いて、イエスさまのところに行かせてください」と言いました。そんなことでイエスさまであることが証明されるのかと、まあ不思議な気もいたします。湖の上を歩くことができる幽霊が、その力を使って他の人を歩かせることもできるような気もします。でもまあそうしたことがたいせつなのではないのです。イエスさまがペトロに命令をされるということが大切なのだと思います。ペトロはイエスさまから「来なさい」と言われ、舟から降りて湖の上を歩き始めます。

マタイによる福音書14章30−33節にはこうあります。【しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。】。

イエスさまだと信じて湖の上を歩きはじめてペトロでしたが、強い風が吹いてくると、怖くなります。そしてペトロは湖の中に沈んでしまいそうになりました。。そのときペトロは「主よ、助けてください」と、イエスさまに助けを求めます。するとすぐにイエスさまは手を伸ばしてくださり、ペトロを助けてくださいました。イエスさまは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。そのあとイエスさまとペトロは舟に乗ります。すると風も静まり、波も穏やかになります。舟の中にいた人たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを拝みます。

マタイによる福音書14章34−36節にはこうあります。【こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。】。

湖の向こう岸に渡ったあと、人々はイエスさまのことを聞いて、イエスさまのところに病気の人たちを連れてきます。そしてイエスさまにいやしてもらいます。「その服のすそにでも触れさせてほしいと願った」という言葉に、その切実さと、イエスさまに対する信頼を見てとることができます。人々はイエスさまのことを信じて、イエスさまのところに集まってきていました。

今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。それは私たちと同じであるわけです。イエスさまの直接の弟子たちは、イエスさまと一緒にいるわけですが、それにしても、いつもいつもイエスさまがいるわけでもありません。イエスさまはお祈りに行かれたりするわけです。どんな人も、いろんな時代に、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。できそうもないことを願っているからです。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

人間ですから失敗することもありますし、「ああ、だめだ」とあきらめてしまいそうになることもあります。しかしだから最初から何もしないでおこうというふうになると、何も良き働きを行なうことができません。失敗するかも知れないけれども、イエスさまに強く願って始めてみるということが大切であるのです。

イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、私たちを励まし、導いてくださっています。私たちはイエスさまに強く願い一歩を踏み出してみたいと思います。「ああ、だめだ」と思えることもあるかも知れません。そんなとき、イエスさまは私たちの手を取ってくださり、私たちを導いてくださいます。

いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。

イエスさまはいつも私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださっています。イエスさまの言葉を信じて、恐れることなく歩んでいきましょう。


  

(2025年3月2日平安教会朝礼拝式)


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