「悪魔はどんな顔でやってくる?」
聖書箇所 マタイ12:22-32。294/300。
日時場所 2024年3月16日平安教会朝礼拝式
2月に京都教区の教師一泊研修会がありました。講師は小西二巳夫牧師でした。新潟市にあります敬和学園高等学校で校長をされたあと、四国にあります清和女子中高で校長をされました。わたしより10歳くらい年上の方です。
小西二巳夫牧師は敬和学園に校長としてつとめるときに、周りの人からこのように言われるようになったら、敬和学園の校長をやめようと思っていたという言葉があったそうです。それは「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」という言葉だそうです。校長になって自分の思いでやろうとするのですが、うまくいかないこともありました。「こうしよう」と思っても、周りの人たちから反対をされてできないこともありました。しかし粘り強くやっているうちに、成果が上がり、周りの人たちも、小西二巳夫校長の思いを汲んでくれるようになります。そして学校も良いように回っている。すると、周りの人たちが「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言うようになります。まあまことに、小西二巳夫校長にとってはうれしいことではありますし、やりやすいことではあるわけです。しかし小西二巳夫校長は、そろそろ潮時だなと思い、敬和学園高校をやめることにしました。これ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は、そうそう高慢になるような方ではないと、わたしから見れば思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。赴任をされた清和女子中高は、キリスト教主義の中高ですが、経営的にもなかなか苦しい中高で、そこでいろいろと苦闘しながら歩んでいかれることになります。
マタイによる福音書の4章1節以下には「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の個所があります。イエスさまが悪魔から誘惑を受けるというお話です。悪魔は人を誘惑するものであるわけです。近づいてくるものが悪魔であるということがはっきりしていたら、その誘惑にのることはないわけです。よく言われることに、「悪魔は黒い服をきて、角としっぽが生えている状態で現れるのではない」ということです。だれもが「ああ、悪魔だね」という姿で現れてくれるのであれば、「退け、悪魔」「退け、サタン」と言うことができるわけです。しかしそうではなく、とても親切な顔をして現れる悪魔もいるわけです。
怖い話ですが、ホスト倶楽部にだまされて、数千万という借金をつくってしまった女性の話などがニュースでながれたりします。「そんなホスト、悪魔だろう」というふうに、私たちは思うわけですけれども、まあだまされた本人にとっては、悪魔には見えなかったのだろうと思います。「いや、黒い服きて、角としっぽがはえている悪魔としか思えない」と、私たちは思うわけですが、「わたしは精神的に落ち込んでいた時に助けてくれた恩人なの」というような返事であったりするわけです。なかなか怖いなあと思います。微笑みながら近づいてくる悪魔もいるわけです。
今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。「ベルゼブル論争」などという表題がついていますと、「なんかむつかしすぎて、読む気がしない」というように思いますが、そんなに「論争」というような大したことが書かれてあるわけでもないのです。最後の、マタイによる福音書12章31−32節に書かれてあることは、「ちょっと、なんだかわからない」という気がするので、これがまたこの聖書の箇所をとっつきにくいものにしている原因のような気がします。
マタイによる福音書12章22ー24節にはこうあります。【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った】。
イエスさまの時代は、病気にかかっている人は悪霊に取りつかれていると考えられていました。イエスさまは病気の人々をいやされます。それで人々は、イエスさまが神さまの力によって悪霊を追い出していると思いました。しかしファリサイ派の人々は、イエスは悪霊の頭だから、悪霊を追い出すことができるのだと言って、イエスさまのことを「悪霊の頭ベルゼブル」呼ばわりしたわけです。「ベルゼブル論争」と言うと、「ベルゼブル」って何だろうと思って、むつかしい気がしたわけですが、まあ答えがすぐに書いてあるわけです。「ベルゼブルは、悪霊の頭」であるわけです。まあ「サタン」ということです。「イエスさま、サタン呼ばわりされる」という表題でも良いような気がします。
マタイによる福音書12章25−30節にはこうあります。【イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。】。
ファリサイ派の人々から、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルだから、悪霊を追い出すことができるんだ」と言われたので、イエスさまはファリサイ派の人々に、「そんなばかな話があるか」と答えるわけです。サタンがサタンを追い出すのであれば、内輪もめとなる。サタンは馬鹿じゃないから、そんなことをするはずがない。あなたたちの仲間も悪霊を追い出しているけれども、それじゃあ、あなたの仲間も悪霊なのか。そうじゃないだろう。わたしは神さまの霊で悪霊を追い出しているんだ。まず強い悪霊をやっつけて悪さをしないようにしたのちに、私たちの世の中を良いように整えて行こうとしているのだ。わたしに味方をしない、あなたたちは悪魔の仲間であり、わたしと一緒に神さまの国を作ろうとしないあなたたちは神さまのみ旨にかなったことをしようとしていないということだ。
マタイによる福音書12章31−32節にはこうあります。【だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」】。
この聖書の箇所はすこしわかりにくい聖書の箇所だと思います。なにがわかりにくいのかと言いますと、私たちはキリスト教の教えで、「三位一体」という教義を知っています。神さまとイエスさまと聖霊が一つであるという教義が、三位一体という教義です。それからすると、イエスさまに言い逆らう者は赦されるのに、どうして聖霊に言い逆らう者は赦されるのだろうという疑問がわいてくるからです。人の子というのは、イエスさまのことです。三位一体であるならば、聖霊に言い逆らうことがだめなら、イエスさまに言い逆らうこともだめなのではないかという疑問がわいてくるからです。しかしここでイエスさまが言われることは、人間はいろんなことで罪を犯してしまうし、神さまを冒涜するというようなことも、人間の弱さのゆえに行なってしまう。しかし神さまや聖霊の力が偉大であるということを信じないものは、それは赦されることのないことなのだ。というようなことでしょう。いくら自分に対して悪口をいったり、ばかにしたりしても良いけれども、しかし高慢になって神さまのことをないがしろにするような振る舞いは赦されないということだと思います。
イエスさまはファリサイ派の人々や律法学者たちと激しい論争をすることがありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちの多くは、イエスさまのことを憎んでいます。この関係はなかなか修復し難いものでありました。お互いのことを、悪魔呼ばわりしているわけですから、なかなか大変です。そうした事情がありますから、イエスさまも「敵か味方か」というような話をしています。マタイによる福音書12章30節にはこうあります。【わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている】。あなたたちはわたしに味方するのか、敵対するのかというような感じであるわけです。
私たちはプロテスタントというだけあって、論争や対立することを好む傾向があります。プロテスタントというのは、「抗議する者」という意味です。抗議の声をあげているうちは良いですが、いつのまにか二つに一つというような構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、まったく二つに分かれてしまっている状態で、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合はそれは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。
イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。
レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。
(2024年3月16日平安教会朝礼拝式)
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