2025年3月20日木曜日

3月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良い物をくださる神さま」

「良い物をくださる神さま」

聖書箇所 マタイ7:7-12。470/493

日時場所 2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい


3月4日に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。レント・受難節は、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごすときです。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。

今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい、親しみやすい話をすることにしています。

今日は一つの詩をみんなに紹介します。小曽根俊子(おぞね・としこ)さんの「花」という詩です。小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。


さあ涙をふいて

あなたが花になりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


   上田紀行『覚醒のネットワーク』(カタツムリ社)(P.50)より。


悲しいこととか、くやしいこととか、ときどきないですか。

どうして夫はわたしの気持ちをわかってくれないのだろう。どうして父はぼくの気持ちをわかってくれないんだろうとか。どうしておねえちゃんは大きい方のケーキをとったんだろうとか。どうしておとうとはけんかをしたときうそ泣きをして、それでおねえちゃんのわたしが怒られなければならないんだろうとか。

小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だからね、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でもね。小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

わたしは人生において、やさしさというのは、とても大切なことだと思っています。沖縄には「フクギ」という木がよく植えられているそうです。2月に沖縄に行きましたが、たしかにフクギという木が街路樹などでよく植えられていました。沖縄ではフクギが、その名前のとおり、「この木は福をもたらす」とされてきました。精神科医の中井久夫さんはこ沖縄の「フクギ」についてこんなことを書いています。【フクギは何の役にも立たない木だそうである。とりたてて美しい樹でもない。果実は役に立つどころか、熟して落ちると醜く潰れて悪臭を放つ。だが、ここでは、フクギの名のとおり、この木は福をもたらすと言いならわされてきたという。「子どもの時分には屋敷のまわりにはフクギがあったものです」と案内の人は語った】(P.15)。【役に立たないどころか悪臭を放つ実を降らせるフクギの、いわば存在自体を肯定して、福をもたらすとするのが沖縄の心ばえである。おそらく無用にみえるももの存在を肯定すること自体が福をもたらすのであろう】(P.18)【樹をみつめて】(みすず書房)。

私たち人間は自分たちに利益をもたらすかどうかという判断で、よく植物や生き物をみます。わたしもおいしい実がなる木が好きです。こどものときの家に柿とかいちじくとか夏みかん、なつめ、ざくろなどなど、おいしい実がなる木があったので、とても重宝しました。

しかし私たちはすべての面において、経済効率だけで生きているわけではありません。家で犬を飼っておられる方などもおられると思いますが、別に「お遣いに行ってくれる」ということのために、犬を飼っているわけでもありません。最近は番犬として飼っているわけでもないので、まあ家の中で飼っている場合が多いような気がします。頭がいいから飼っているというわけでもありません。「言うこときかない、ばかな犬なのよ」とか言いながら、でもとてもその犬を愛しておられたりします。経済効率だけがすべてではないわけです。役に立つか役に立たないかだけでなく、その存在を受け入れるというあたたかさが世の中にはなくてはならないわけです。そうしたやさしさを忘れないということが、とても大切なことです。

「人間が人生の最後に願うこと」って、みなさんはどういうことだと思いますか。こんなふうにいう人がいます。児童精神科医の佐々木正美という方がおられました。よく子育ての本などを書いておられました。『子どもへのまなざし』(福音館書店)が有名です。佐々木正美さんはこんなことを言っておられます。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる家族に見守られていたいということだ】(P205)(佐々木正美『佐々木正美の子育てトーク』、エイデル研究所、1429+税円)。わたしはまあ絶対に家族でなければならないということではないと思います。ただ信頼できるだれかに見守れてることができれば、いいのではないかと思います。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる誰かに見守られていたいということだ】。

わたしを、そしてみなさんをいつも愛し、見守ってくださっている方がおられます。神さまはいつも私たちを見守ってくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

【「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」】。

イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


(2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい)




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