「十字架のイエス・キリストに仕える」
聖書箇所 マタイ17:1-13。311/303。
日時場所 2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週
『私にとって「復活」とは』という本の中に、科学史家の村上陽一郎さんが「永遠のいのち」という題で、エッセイを書いています。
村上陽一郎さんは、その本の中で、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と書いておられます。村上陽一郎さんは科学史家ですから、科学についてよく知っておられる方です。一般的に科学と宗教は対立するような印象を受けるわけです。しかし村上陽一郎さんは、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と、きっぱりと言いきっておられます。どうして村上さんがそう信じることができるようになったのかということですが、それは一つの詩に出会ったからです。【復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる。その確信に導いてくれたのは、神学者の高等な言説でもなければ、神父の感動的な説教でもなかった。それは一篇の、短い詩であった】(P16)。
その詩は、G・M・ポプキンズという19世紀のイギリスの詩人の詩です。ポプキンズは、カトリックの信仰を持つ司祭です。村上さんはポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩によって、復活についての確信を得ることができました。
村上陽一郎に復活についての確信を得させることができた、G・M・ポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩とは、いったいどんな詩なのか。
わたしも復活についての確信を得たいと思い、わたしはその詩を探す旅に出ました。3月3日(木)の午後から、関西国際空港からイギリス行きの飛行機にのって、飛び立とうと思いましたが、とりあえず高槻市の図書館に、ポプキンズの詩集があるのではないかと思って、天神山図書館に行きました。図書館で調べると、ピーター・ミルワード、緒方登摩編『ポプキンズの世界』(研究社出版)という本の中に、『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩を見つけることができました(P173)。
このポプキンズの詩は、ちょっと長いので、紹介するのは、また別の機会とさせていただきますが、村上さんはこの詩の最後のところに、こころ打たれたそうです。【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。もう少し前から紹介いたしますと、【ひとたびラッパが鳴り響けば、私はたちまちキリストとなる、かつてキリストは今の私だったのだ。ならば】【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。たとえ平凡な人生で、誰からも注目されることない人生であったとしても、その一人一人の人生は、キリストに祝福された人生だ。そしてその人生は神さまの中に記憶されている、かけがえのないダイヤモンドのようなものなのだと、ポプキンズはこの詩で歌ったのでした。
村上さんはほかの本のなかで、こんなふうに書いています。【存在したものは、有名であろうと無名であろうと、善であろうと悪であろうと、小さきものであろうと、大きな存在であろうと、美しい曲や絵画であろうと、平凡、凡庸な作品であろうと、名言であろうと、陳腐な言説であろうと、とにかく何であろうと、存在したものは、今も存在する。それは一種の「神秘体」(コルプス・ミスティクム)のなかに加えられて、朽ちることなく、その一員を構成する。ものやこと、そして人が、この世の表面から消えて、朽ち去ったとしても、その「記録」はその神秘体のなかに残る、残らざるをえない。それが「世界」である。その記録の神秘体のなかにわれわれも永遠に生き続けられる、というよりは生き続けなければならない宿命にある、そんな風に考えられるのではないか】(P237)(村上陽一郎『生と死への眼差し』、青土社)。
村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだと言っています。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。
どんな平凡な人生であってもかけがえのない人生であり、神さまから祝福され、神さまによって覚えられている人生である。とても幸せなことだと思います。それだけで充分であると思えるわけですが、しかしそれでも私たちは、やっぱり有名になりたいとか、自分が特別に評価されたいというような思いをもったりします。自分だけがすばらしいものに出くわしたいとか、すばらしいものにあやかりたいとか思ったりします。
今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所です。「山上の変貌」といわれる聖書の箇所です。マタイによる福音書17章1−3節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた】。
イエスさまは弟子たちのうち、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、山に登られました。ペトロたちにしてみれば、「おお、おれたちだけが特別に選ばれている」というふうに思えたことだと思います。「やっぱりおれたちは特別だ。となると、イエスさまが王さまになられたときには、おれが右大臣か左大臣だなあ」というふうに思えたことでしょう。そして実際ペトロたちは、その山の上ですばらしいと思える出来事に出会うわけです。イエスさまの姿が光り輝き、そしてモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合います。モーセは出エジプトという偉大な出来事を行った偉人です。そしてエリヤもまた偉大な預言者です。エリヤはは世の終わりのときに救い主が現れる前に現れると言われています。そんな偉人と一緒にイエスさまが三者会談を開いておられるわけです。ペトロは「さすが、イエスさまだ」と思えたことでしょう。
マタイによる福音書17章4節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」】。
ペトロは自分も選ばれて、この三者会談の仲間に入れてもらっているような気になったのでしょう。それですかさず、「口をはさむ」わけです。ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」といいます。「わたしたち」というふうに言うわけです。モーセとエリヤとイエスさまと、そしてヤコブやヨハネはともかく、わたしペトロを入れた、「わたしたち」ということです。仮小屋というのは、まあ記念碑のようなものでしょう。ペトロにしてはとても気の利いたことを言うなあと、わたしは思います。わたしなどはたぶんこんな出来事に居合わせても、ニコニコ、笑っているだけでしょう。
マタイによる福音書17章5ー8節にはこうあります。【ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった】。
ペトロは気の利いたことを言ったつもりになっていましたが、実際にここで起こっている出来事は、そういうことでもなったようです。光り輝く雲が彼らを多い、そして天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。ペトロたちは恐ろしくなって、ひれ伏します。ペトロたちがふるえていると、イエスさまがペトロたちに近づき、声をかけました。「起きなさい。恐れることはない」。ペトロたちが顔を上げると、モーセもエリヤもいなくなっていて、イエスさまだけがおられました。
マタイによる福音書17章9−13節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った】。
イエスさまはこの出来事を話してはならないと言われました。それはイエスさまが十字架につけられて殺され、復活されるまで隠されている出来事であると、イエスさまはペトロたちに言われました。それは、十字架と復活の出来事を通して見なければ、この出来事は理解できない出来事であるということです。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤解されてしまう出来事であるということです。たしかにイエスさまはモーセやエリヤと共にいてもおかしくはない人であるのだけれども、それは単にえらい人たちとイエスさまが一緒におられるということではない。それでは単なる英雄物語になってしまう。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤った英雄賛美に陥ってしまうということです。
弟子たちは救い主に先立ってやってくるエリヤの話をしたときに、イエスさまはエリヤはもう来たのだと言われました。そしてそのエリヤを人々は認めようとせず、彼を苦しめたのだと、イエスさまは言われました。それを聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことをイエスさまが言っておられるのだと、気がつきました。そして洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたように、イエスさまもまた人々から苦しめられることになるということを、弟子たちは感じ始めます。
イエスさまとモーセとエリヤは、いったい何を話していたのでしょうか。皆さんは、いったいイエスさまとモーセとエリヤは、どんな話をしておられたと思いますか。それは聖書には書いていないので、想像するしかないわけです。わたしはたぶんこんな話だろうと思います。
(モーセ)「イエスさま、あんたもこれからたいへんやなあ。十字架につけられるやなんて」。(イエス)「たいだいなんでいつも人間は、神さまが思っておられることを預言者が伝えると、なんでその預言者を殺しにかかるんやろ」。
(モーセ)「そやなあ、エリヤさんと時も、そうやったやないか」。
(エリヤ)「ああ、ほんと。わしも迫害されてたいへんやったわ」。
そこに何もわからないペトロが横から口をはさんで、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言う。
(モーセ)「なんやこいつ。イエスさん、あんたも大変な弟子をかかえとるなあ。こいつ、ぜんぜん、わかっとらんやないか」。
(エリヤ)「でもモーセさんがエジプトから導き出した民も、同じような感じやったでえ」。
たぶん、こんな話をしていたのだと思います。
モーセは律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。イエスさまは旧約聖書の教えを引き継いで、神さまの救いの業を行われます。そしてモーセもひどいめにあったし、エリヤもひどいめにあった、そしてイエスさまもまたひどいめにあわれるのです。たぶんモーセとエリヤとイエスさまが集まって話をされるというのであれば、「神さまの御用をするのは大変だった」という話になるだろうと思います。
ペトロは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という天からの声を聞いたわけですが、それじゃあ、「これ」って、一体何なのでしょうか。それは十字架につけられるイエスさまということです。光り輝くイエスさまではなくて、十字架につけらえるイエスさまのことです。栄光の出来事に見えたモーセもエリヤも消え去り、結局、ペトロたちの前に立っていたのは、十字架につけられるイエスさまでありました。モーセやエリヤは消え去ってしまうのです。
ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。「ペトロさま」なんて、すばらしい響きだろうと、ペトロはそのとき思ったのです。しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あんまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、たぶんペトロは、光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。
ペトロは「あなたの上に教会を建てる」と言われ、初代教会の頭とされた人です。聖ペトロであるわけですから、ペトロはカトリックの聖人で、カトリックの法王はずっとペトロから天国の鍵を譲り渡されているということになっています。ある意味で、ペトロは歴史に名を残すりっぱな人になったわけです。しかし聖書を読む限りにおいて、ペトロは自分が特別にりっぱな人間であると思っている様子はありません。ペトロは光り輝くイエスさまを追い求めたのではなく、十字架についてくださったイエスさまを証しして生きたのでした。聖書に書かれてあるペトロの姿は、まさに「凡夫」(ぼんぷ)です。いろいろな失敗をし、恥をさらしています。しかし不思議なことですが、聖書をよむときに、ペトロの大失敗さえも、「不滅のダイアモンド」に思えてきます。
私たちはなかなか欲張りですから、「あれもほしい」「これもほしい」「あいつがもっているのに、おれがもっていないのはおかしい」、地位も名誉も財産も、永遠の命も、みんなみんなほしいと思います。「このことだけで、充分だ」というふうには、なかなか思えません。使徒ペトロもそうだったと思います。「ペトロさま」と呼ばれたい、そう思っていました。しかしペトロは十字架のイエス・キリストに出会いました。そして十字架のイエス・キリストに出会ったことだけで充分だと思うようになりました。
いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。
聖書は、「イエスのほかにはだれもいなかった」と記しています。私たちにとっては、この方だけで十分なのです。私たちはイエス・キリストによって、十分なものをいただいています。私たちは十字架のイエス・キリストに仕えて歩んでいきましょう。
(2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週)
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