2025年5月28日水曜日

4月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの杯、苦い杯」

「イエスさまの杯、苦い杯」

聖書箇所 マタイ20:20ー28。313/301。

日時場所 2025年4月6日平安教会朝礼拝式


大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。桜の季節だからでしょうか、この季節は大山崎美術館は月曜日も開いていたので、桜も見ることができるかと思い出かけました。松本竣介についてはほとんで知りませんでした。

松本竣介(まつもと・しゅんすけ)は明治から昭和にかけて活動した洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は『みづゑ』の社長に、反論を書きたいとかけあいます。そして1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。その後、陸軍省情報部の黒田千吉郎中尉からの再反論の「時局と美術人の覚悟」という文章が、『みづゑ』に掲載されます。この時代に軍部に対して、反論をするというのは、なかなか勇気のいることだっただろうと思います。松本竣介は戦争中に戦意高揚のポスターを描いたりしているので、抵抗の画家というような人でもなかったようです。松本竣介のおつれあいの松本禎子(まつもと・さだこ)さんは、松本竣介について、こう言っています。【「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。】。まじめな常識人であった松本竣介も、戦争中、言わずにはいられないと思えることがあったわけです。自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいちうも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。今日の聖書の箇所にもそうした弱さを抱えて生きる人たちが出てきます。

今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書20章20−21節にはこうあります。【そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」】。

この聖書の箇所は、同じような話が、マルコによる福音書にも書かれてあります。マルコによる福音書10章35−45節です。新約聖書の82頁にあります。ここの表題は「ヤコブとヨハネにの願い」となっています。今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」です。ヤコブとヨハネのお母さんが、イエスさまにお願いをしたという話になっているわけです。

ゼベダイの息子たちというのは、ヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネのお母さんが、ヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまのところにきて、ひれ伏します。そしてなんか願おうとしているわけです。すぐに願いを言ったというのではなく、言ってもいいかなあ、だめかなあと思いながら、イエスさまの前にひれ伏しているということです。まあそれで、イエスさまが「何が望みか」と、お母さんに声をかけます。そこで彼女はイエスさまに言うわけです。イエスさまが王座にお着きになられる時には、わたしの息子たちであるヤコブとヨハネを、一人は右に、一人は左に座れるようにしてほしいというのです。まあ「右大臣・左大臣にしてほしい」ということです。あからさまなお願いであるわけです。ほかの弟子たちを差し置いて、自分の息子たちをとりたててほしいというわけです。まあイエスさまがえらい王さまになるとしても、ほかにも弟子たちがいるわけですから、そう簡単にそんな話が通用するはずのない話であるわけです。

マタイによる福音書20章22−23節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」】。

まあお母さんに連れられて立身出世のお願いのために、イエスさまのところにやってくるヤコブとヨハネも、まあどうかしているわけです。よくもまあそんな恥ずかしいことをするなあと思うわけですが、しかしそうしてことだけでなく、ヤコブとヨハネは根本的なことがわかっていないのです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが人々を支配する王さまになるに違いないと思っています。しかしイエスさまは十字架につけられる道を歩んでおられるのです。今日の聖書の箇所の前の聖書の箇所には「イエス、三度死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所であるわけです。イエスさまはこの聖書の箇所ではっきりと言っておられます。【今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。】。そして今日の聖書の箇所になるのです。

イエスさまは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」とヤコブとヨハネに訪ねます。この杯というのは、イエスさまが十字架につけられて殺されたように、あなたたちもまたわたしのように迫害を受け、殺されることになるかも知れないけれども、それでもわたしに付き従ってくるかということです。ヤコブとヨハネは元気よく「できます」と答えるわけですが、しかし彼らはわかってはいないのです。しかし彼らがわかっていようがわかっていまいが、彼らはイエスさまと同じ道を歩むようになると、イエスさまは二人に言われます。そしてわたしの右と左に座るのはだれかというのは、わたしが決めることではなく、神さまがお決めになることだと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書20章24−28節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」】。

登場人物はイエスさまとヤコブとヨハネとおかあさんの4人だったのに、どうしてその話が伝わっていくのかなあと思うわけですが、まあこういう話はだれかが見ていたりして、伝わっていくわけです。そしてみんな、ヤコブとヨハネのことで腹を立てるのです。イエスさまのお弟子さんたちはみんな、自分が出世したいと思っているのです。意外に向上心のある人たちであるわけです。

イエスさまは弟子たちを諭されます。あなたたちも知っているだろう。強い外国の国では支配者たちが民を支配して、偉い人たちが自分たちの思うがままに権力を振るい、人々を苦しめている。それをあなたたちはどう思う。ひどい話だと思うだろう。ろくでもない人たちだと思うだろう。だからあなたたちの間ではそうではなく、偉くなりたい者はみんなに仕える人になってほしい。外国の支配者たちのようにはなってほしくない。いちばん上になりたい者は、みんなの僕になってほしい。だからわたしは仕えられるためではなく仕えるために、この世に来たのだ。そしてわたしはなんども話しているように、十字架につけられる。わたしが世の人々の罪をあがなって、十字架につけられる。そのことによって、神さまは人間の罪を贖ってくださるのだ。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの身代わりとなって、御子イエス・キリストが罰を受けてくださいます。そのことによって、私たちは神さまの前に罪赦された者として、永遠の命に預かる者として生きていくことができるのです。イエスさまの弟子たちは、このとき何もわかっていませんでした。自分が出世するためにはどうしたら良いだろうかというようなことを考えていました。しかしイエスさまが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたイエスさまに出会うことによって、弟子たちは自分がどんなに神さまから離れたところを生きているのかということに気づきます。そして弟子たちは、イエスさまに従って歩むことを望みます。

イエスさまな杯は苦い杯でした。イエスさまはヤコブとヨハネに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。ヤコブとヨハネは「できます」と答えます。「イエスさまの言われる杯の意味もわからず、『できます』と答えるヤコブとヨハネはだめなやつらだ」というふうに思うわけですが、しかしそれでもヤコブとヨハネはのちに、イエスさまの苦い杯を飲む生き方をしたのでした。まあ人生とはわからないものであるわけです。あのときはイエスさまがから「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われたとき、まったく意味もわからず、「できます」と答えたけれど、でもそう答えて良かったような気がすると、ヤコブとヨハネはのちに思ったのではないかと、わたしは思います。「できます」とイエスさまの前で答えたのだから、わたしはやはりどんなことがあっても、イエスさまに付き従っていくという思いになったのではないかと思います。

神さまの導きは、どんな形でいつ行われるのかというのは、人間にはわからないところがあります。私たちは人間ですから、完璧に生きられるというわけでもありません。弱さを抱えていますから、ヤコブやヨハネのように恥ずかしいことをしてしまうかも知れません。やっぱりこの世のことも大切だよねと思うこともあるでしょう。曲がったことをしてしまうかも知れません。あるいは思い立って、自分が考えている以上に、正しい道を歩んでいくことになるというようなこともあります。あのときは正しい道を歩むことができたけれど、今回はどうもよくない道を歩んでいるような気がすると思えるときもあるかも知れません。

弱さや悩みを抱える私たちですが、しかしイエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちには帰ってくる場所があるのです。私たちはイエスさまのところに帰ってきます。そしてイエスさまが私たちに教えてくださった道はどういう道であったのかと振り返ることができるのです。

イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったなり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。自分が高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。神さまの御心に適った歩みをしていくことができますように。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

  

(2025年4月6日平安教会朝礼拝式)


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