2025年5月28日水曜日

5月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしは道であり、真理である。」

「わたしは道であり、真理である」

聖書箇所 ヨハネ14:1ー11。17/456。

日時場所 2025年5月18日平安教会朝礼拝式


ファン・ジョンウンの『誰でもない』(晶文社)という短編集を読みました。韓国の小説家ファン・ジョンウンは、ノーベル文学賞をとったハンガンの次に期待をされている小説家だと言われています。

【それが必要だった。すべてのものが消えていくときに。暗闇を水平線で分ける 明かりのようなものがー  喪失、暴力、孤独、格差、貧困・・・・・・。“今”をかろうじて生きる人々の切なく、まがまがしいまでの日常を、圧倒的な筆致(ひっち)で描いた8つの物語。いま最も期待される韓国文学の<新しい顔>ファン・ジョンウン、待望の初翻訳】ということです。

ファン・ジョンウンは『誰でもない』という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。多くのは無意識の言い間違いやことば遣いのくせによるものなのでしょうが、私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない。韓国は金融危機から比較的早く抜け出しましたが、その後ずっと後遺症をわずらっています。過去二十年間の日常と非日常のいたるところで人々は、自らが「何でもない人」とされる瞬間を味わい、他人が「何でもない人」として扱われる瞬間を見てきました。私はつまらないものを好む方ですが、人間をつまらないものと見なす社会全体の雰囲気が人々のことばに表れているのを目撃することは、どうにも、わびしいことです】。

世の人々は「誰でもない」というと、「何でもない」、つまり「何にもできない」とか「つまらない」という意味にとるということです。しかしファン・ジョンウンが語るところの「誰でもない」ということは、「他の誰でもない」「何者にもかえがたい」大切な者という意味であるのです。ですからファン・ジョンウンは韓国社会で、孤独・格差・貧困のなか、いまかろうじて生きている人々の姿を小説の中に記しているということです。

「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

今日の聖書の箇所は「イエスは父へ至る道」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章1−4節にはこうあります。【「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」】。

ヨハネによる福音書14章1節からの話は、十字架につけられるイエスさまが弟子たちに、「心を騒がせるな」と言われ、弟子たちを安心させるという聖書の箇所であるわけです。「わたしは十字架につけられて殺されるけれども、それはあなたがたが天の国に行く時のために、ちょっと部屋を用意しにいくだけのことだから。そしてまたあなたたたちのところに戻ってくるから安心しなさい」と、イエスさまは言われました。まあこのところは不安になっている弟子たちを励ますための、イエスさまの冗談であるわけです。

そのあと、イエスさまは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。しかし実際は弟子たちはよくわかっていません。そんなによくわかっている弟子であるわけではないのです。しかし弟子たちがよくわかっていないということを、イエスさまはよくわかったうえで、弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っているのです。それだけイエスさまは弟子たちを愛し、弟子たちを信頼しているのです。

ヨハネによる福音書14章5−7節にはこうあります。【トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」】。

トマスはとても正直な人なので、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と応えます。イエスさまは「あなたたちは知っている」と言われるのですが、でもトマスは「わたしたちには分かりません」と、正直に応えるのです。そして「どうやったら、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスさまに尋ねます。

「道とは何であるのか」ということですが、イエスさまは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っておられます。ですから道とは神さまへの道ということです。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

イエスさまは弟子たちを励まします。イエスさまは「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われます。弟子たちは自分勝手な弟子たちですし、イエスさまが捕まると、イエスさまのことを知らないのと言ってしまうような弟子たちです。しかしイエスさまはそんな弟子たちに対して、あなたたちは既に神さまを知っていて、神さまを見ていると言われます。もうあなたたちは神さまの祝福のうちにあり、そして神さまに連なる永遠の命を得ているのだと、イエスさまは弟子たちに言われます。

ヨハネによる福音書14章8−11節にはこうあります。【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。】。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちはもう十分に神さまのことを知っていて、神さまに連なっているのだと言われるわけですが、しかしフィリポはとてもまじめな人間なので、「わたしたちに御父をお示しください」と応えます。フィリポにしてみえば、なんとなくこころもとないのです。イエスさまは自分たちのことを誉めてくださるけれども、フィリポは自分たちがそんな神さまにふさわしい者でないことを知っています。そしてイエスさまのことは知っているけれども、父である神さまに会ったことはないのです。

そんなフィリポにイエスさまは、わたしに連なっているということが、神さまを知っているということなのだと言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。わたしが神さまへの道であり、神さまの真理であり、神さまの命である。わたしが神さまのなかにあり、神さまがわたしのなかにおられる。わたしが語る言葉は、わたしの言葉ではなく、神さまがわたしを通して語っておられるのだ。神さまがそのようにわたしを用いておられるのだ。わたしが神さまの内にいて、神さまがわたしの内におられる。神さまとわたしは一つであり、わたしは神さまの御心にしたがって、神さまの御業を行なっている。そのようにイエスさまは言われました。

十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、誰でもない、何者でもない弟子たちを愛してくださる方がおられます。イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


     

  

(2025年5月18日平安教会朝礼拝式)


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