「ごめんね。わたしが悪かったね。」
聖書箇所 マタイ5章21-37節。404/444。
日時場所 2025年7月6日平安教会朝礼拝
以前、わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。昔、わたしの友人が、ある人と喧嘩をしました。原因というのは、わたしの友人ではない人が大きな声を出して騒いでいて、わたしの友人はその巻き添えをくって喧嘩になったのです。あとからある人はわたしの友人に「わしも悪かった」と謝ったのですが、わたしの友人は「わしも悪かったやないやろう。わしが悪かったやろ!」と息巻いていました。まあ確かにそのときは「わしが悪かった」というのが正しい日本語だとわたしも思いましたが、でも「わしが悪かった」ということがわかっていても、「わしも悪かった」と言って謝るときって、わたしにもあるよなあと思いました。
今日の聖書の箇所は「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書の5−7章は、イエスさまが弟子たちに大切なことを話されたという山上の説教という聖書の箇所の一部です。
マタイによる福音書5章21-22節にはこうあります。【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる】。
この聖書の箇所はこの前の表題の「律法について」という聖書の箇所の流れの中にあります。イエスさまは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ですからこの聖書の箇所では、「律法ではこう言われているだろう。それはこう言うことだ」というふうに説明をしているわけです。【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける】ということです。
『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』というのは律法で言われていることです。モーセの十戒には【殺してはならない】とあります。出エジプト記20章にモーセの十戒について書かれてあります。旧約聖書の126頁です。
イエスさまは「律法では『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と言われているけれど、『ばか』とか『愚か者』と言って兄弟を見下すのもいけない」と言われました。「兄弟」というのは親族関係ということではなくて、ユダヤ人同士という意味です。ですからまあ人一般というふうに考えたらいいと思います。イエスさまは「殺すな」というような具体的な犯罪というだけでなく、「人を見下す」という心の中のことにまで踏み込んで、それはいけないことなのだと言われました。【火の地獄に投げ込まれる】というわけですから、それは神さまが裁かれる。神さまが良しとされないということです。
マタイによる福音書5章23-26節にはこうあります。【だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」】。
イエスさまは争い事をしている人に対して、和解を勧められました。人と争い事をしているならば、神殿に供え物をしにいく前に和解をしなさい。そして和解をしたあとに、神殿に供え物をしにやってきなさいと、イエスさまは言われました。神殿に供え物をしにいくというのは、神さまと和解をするということです。神さまのところに「ごめんなさい」を言いにいくということです。神さまに「ごめんなさい」を言いにいく前に、争い事をしているのなら、その人にまず先に「ごめんなさい」を言いにいきなさいということです。
私たちはまじめですから、「いや、まず先に、自分が愚か者であったということを神さまの前にお詫びしたのちに、人のところにお詫びしにいったらいいのではないか」と思います。でもイエスさまは「そんな私たちの神さまはやさしいから許してくれるから、とっとと先に人のところに行って詫びを入れてきなさい」と言われたのでした。
マタイによる福音書5章27-30節にはこうあります。【「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」】。
ここもそうですが、「姦淫するな」というのはモーセの十戒に書かれてあることです。イエスさまは律法ではこう言われているけれども、「しかし、わたしは言っておく」というふうに言われるわけです。イエスさまは姦淫という出来事だけを捕えるのではなく、人の心の中にまで踏み込んで問うておられます。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。
実際に姦淫をするのと、心の中で考えるのとでは、まあふつうは大きな違いがあるわけです。ふつうは出来事が起こらない限り、裁くということはできません。しかしイエスさまは厳しく心の中までも問われるのです。極端過ぎると言えば、そうだと思います。実際に姦淫をするのと、心の中で考えるのとでは、大きな違いがあります。「殺してやる」と思うのと、実際に殺してしまうのでは、やはり大きな違いがあるわけです。しかし現代でも心の中で思っていることがあるのとないのでは、犯罪に対する刑罰の重さは違ってきます。殺人事件でも殺意があったのか、なかったのかとことで、刑罰の重さは違ってきます。
まあそれでもイエスさまの言われることは極端です。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」と言われます。それは「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」ということです。ですから「地獄に落ちる」ということですから、私たちは神さまの前に立たされているんだということを忘れてはならないということです。人の前であれば実際に行なうことと、心の中で思うことでは大きな違いがあるわけです。しかし罪ということにおいて、私たちは神さまの前に立たされているのです。このことを忘れてはならないということです。
マタイによる福音書5章31-32節にはこうあります。【「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」】。
申命記24章1節には【人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる】とあります。旧約聖書の318頁です。この申命記の規定はもともと離縁状を書かなければならないということによって、安易に離縁をしないようにするために作られた規定だったわけです。しかしあまり効果はありませんでした。「離縁状を書いて妻に渡しさえすれば、どんな場合でも離縁できる」というように解釈されたりするようになります。しかしイエスさまは女性が簡単に離縁されないために、そもそも離縁するということが姦通の罪を犯させることになるんだと言われました。イエスさまは女性が弱い立場にいる場合、離縁するということは、神さまの前に罪を犯すことだと言われました。
マタイによる福音書5章33-37節にはこうあります。【「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」】
レビ記19章12節には【わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である】とあります。旧約聖書の192頁です。モーセの十戒にも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。「天地神明にかけて」というふうに日本語でも言います。【『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』】というように、誓ったら誓ったとおりにしなければならないということです。しかしイエスさまは「誓うな」と言われます。【わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない】。
イエスさまがなぜ「誓うな」と言われるのかと言いますと、だいたい日常生活において「天にかけて誓う」というようなときは、もうすでにその人の言葉に対する信頼が失われているわけです。もちろん私たちは結婚式とか就任式とかで誓約をしますけれども、そうしたときでなく、一般的なときに「天にかけて誓うか?」と問われるとしたら、それは疑われているということです。「天にかけて誓う」というのは「あんたじゃ、信用ならん」ということです。ふつうは天にかけて誓ったり、神さまに誓ったりしなくても、信じてもらえるわけです。
たとえばよく寝坊をする人が、「昨日もまた朝起きるのが遅かったじゃない」と言われると、「明日は絶対、朝6時に起きるから」と言う。「天にかけて誓うか?」と言われ、「天にかけて誓います」と答えるわけです。そして翌朝6時には起きなかったとなるわけです。よく酔っぱらって帰る人が「もう酔っぱらって家に帰りません」と言うと、「天にかけて誓うか?」と問われるわけです。
イエスさまはどうせそんなろくでもない誓いなのだから、「誓うな」と言われます。そして【あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい】と言われます。「『できることはできる』『できないことはできない』と正直に言いなさい」ということです。
わたしの友人でよくいろいろな会で一緒になるに牧師さんがおられるのですが、その人に「Tさんは夜たまに、教区の委員会などが終わった後に、付き合いで食事をしながら一杯飲んでも帰ってきても、おつれあいはあまり何も言われないの?」とたずねると、「外に出る時、夕食を家で食べるかどうかだけ聞いてきますね」ということでした。この話をお聞きしながら、これってイエスさまが言われる。『然り、然り』『否、否』ということだなあと思いました。「一杯飲んで帰ってきません」とは誓わせてもどうせ無理だろうから、夕食を食べるかどうかということだけを尋ねるわけです。「Tさんのおつれあい、イエスさまみたいやなあ」と思いました。
「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。イエスさまは私たちはいいかげんなことや自分勝手なことをしていると言われます。
そんな私たちであり、絶望的なのだから、「火の地獄に投げ込まれ」てしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこうと、イエスさまは言われます。許せないけれども、やっぱり許し合っていこう。やっぱり仲直りできるときに仲直りしよう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、日曜日に大切な大切な礼拝に行く途中であっても、やはり仲直りしにいこう。
そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。
そして無意味に誓ったりするのではなく、『然り、然り』『否、否』というように、自分のできることを考えて、謙虚に生きていきなさいということです。「おれはこんなにすばらしい人間なんだ」というふうに人に見せかけるのではなくて、自分のできることを淡々と謙虚に行なっていきなさいということです。イエスさまは「赦し合い、自分の罪を見つめ、謙虚に生きていきなさい」と言われました。
私たちはみな、神さまから赦されて生きています。神さまは私たちの罪のために、イエス・キリストを私たちの世に送ってくださいました。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちは神さまの前にふさわしい者ではないけれども、イエスさまの私たちへの愛のゆえに、神さまは私たちの罪を赦してくださいました。私たちはみな、神さまから罪赦された者として生きています。
いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。
私たちは神さまから赦されている。私たちは神さまの愛のなかに生かされています。神さまの愛に気づき、大いなる平安のなかにあることを、喜びをもって受けとめましょう。神さまは私たちをしっかりととらえ、守ってくださっています。
(2025年7月6日平安教会朝礼拝)
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