2025年7月12日土曜日

7月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたの中にある光」

「あなたの中にある光」

聖書箇所 マタイ6:22-24。470/493。

日時場所 2025年7月13日平安教会朝礼拝


参議院選挙などのニュースを見ていますと、日本もいろいろと変わったなあと思わされます。アメリカのトランプ大統領などの行動を見ていても、アメリカもいろいろと変わったなあと思います。またヨーロッパの国々の様子を見ていても、なんかいろいろ変わったなあと思わされます。そういう面では世界も変わったなあというような気がします。全体的にみると、自国中心主義が声高に語られ、すこし優しさが失われてしまったような気がして、不安になります。

時代の変わり目の出来事というものがあります。よく「第二次世界大戦後」とか「明治以降」とか、世の中の動きが大きく変わるというときというのがあります。よく「百年に一度の危機」というようなことが言われます。なんとなく世界が変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと、わたしは思います。「

寺島実郎という人が書いた『二十世紀から何を学ぶか(上)一九〇〇年への旅 欧州と出会った若き日本 』(新潮社)という本の中に、夏目漱石の言葉が紹介されていました。夏目漱石と言えば、『坊ちゃん』という小説で、「松山の人はみな語尾に『ぞなもし』とつける」ということを広めたことで有名な人です。わたしは夏目漱石が書いた小説を若い時に有名な小説を一通り読みました。比較的好きな小説家の一人でした。

夏目漱石はロンドンに留学をしていますが、その時の日記にこう記しています。【「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿(なか)れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々(しし)として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼(たいこ)する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実(しじつ)に行へ。汝の現今(げんこん)に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)】(P.25)(寺島実郎『二十世紀から何を学ぶか(上)』、新潮社)。

1894年(明治27年)に日清戦争、1902年(明治35年)に日英同盟が結ばれる、1904年(明治37年)に日露戦争というような時代です。「未来はどうあるべきか。得意になったりするな。投げやりになったりするな。牛のように黙々と。鶏のように熱心に。中身のない大言壮語をするな。真面目に考えよ。誠実に語れ。真摯に行なえ。あなたがいま播く種はやがてあなたの未来となって現れる」。

「100年に一度の危機」と言われるとき、私たちはじっくりと自分たちの歩みについて、私たちが何を頼りにして生きているのか。私たちが本当に必要としているものは何であるのか。夏目漱石のように、真面目に考えるときであるような気がします。

今日の聖書の箇所は、「体のともし火は目」「神と富」という表題のついている聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は、山上の説教の一部です。マタイによる福音書は5章から7章が、山上の説教です。イエスさまが言われた大切なことが、まとめられている聖書の箇所です。

マタイによる福音書6章22-23節には【「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」】とあります。マタイによる福音書6章19節以下には「天に富を積みなさい」という話があり、マタイによる福音書6章24節以下には「神と富」という話があります。この「体のともし火は目」という話は、お金の話の間にはさまれています。「目が澄んでいる」というのは、「物惜しみしない」という意味で、お金に対してこだわりのない態度ということです。「濁っている」というのは、お金に目がくらんでしまって、貪欲な気持ちになってしまっているということです。

マタイによる福音書6章24節には【「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」】とあります。この聖書の箇所は、とても端的なので、「そうだなあ」というふうに思うしかないわけです。【あなたがたは、神と富とに仕えることはできない】。

マタイによる福音書19章16節以下には、「金持ちの青年」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の37頁です。

お金持ちの青年はとても誠実に生きようとしていたのです。「どうしたら、永遠の命を得ることができるのか」。そんなことを考える青年であり、そして律法を守って生活していた、まじめな青年だったのです。しかしイエスさまから【「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい】と言われると、やっぱり青年は立ち去っていくのでした。そしてイエスさまの結論はこうです。【「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」】。

また、ルカによる福音書12章13節以下には「愚かな金持ち」の表題のついた聖書の箇所があります。。新約聖書の131頁です。ルカによる福音書12章16節以下で、イエスさまは譬えを話されました。

この譬えを読んでいますと、「そうだなあ。お金は天国に持っていくことはできないいんだ」と思います。そんなふうにも思いながら、しかし私たちはなかなかお金の力から逃げ出すことはできません。まあ不思議ですね。そんなにお金があるわけでもないのに・・・。お金というのは、やっぱり魔力があるわけです。私たちを暗闇へと誘っていくかもしれません。しかしイエスさまは【あなたがたは、神と富とに仕えることはできない】と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。【だれも、二人の主人に仕えることはできない】と、イエスさまは言われます。神か、金か、どちらかだと、イエスさまは言われるのです。

【「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」】。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ【目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い】と言っているだけです。そして聖書は言います。【だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

私たちは自分の暗闇の中でもがき苦しみ、自分のこころの汚さや目のどんよりとした感じにうんざりしたりするわけですが、しかし聖書は「あなたの中には光がある」と言っているのです。「そんな、光なんて、わたしの中にあるんだろうか」と思えます。しかし聖書は確かにあると言います。

私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。新約聖書の163頁です。【光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】(JN0105)。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た】(JN0114)。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

私たちの心の中にはとても弱い部分があります。魔力的な力に引き込まれていくような弱さをもっています。私たちの中には底知れぬ暗闇があるのです。引き込まれてしまうと、どんどん、どんどんと引き込まれていくような暗闇です。【(目が)濁っていれば、全身が暗い】と言われる暗闇です。しかしイエスさまは、「あなたがたの中に光がある」と言ってくださっています。【あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】と、ちょっと悲観的な言い方ですが、それでも「いま、あなたの中には光がある」と言ってくださっています。私たちは底知れぬ暗闇を抱えていながら、しかし同時に「光」をもっているのです。「あなたのなかには確かに光がある」と、イエスさまは言われます。

私たちの中の光とは、私たちのために十字架についてくださり、私たちと共に歩んでくださるイエス・キリストへの信仰です。イエスさまが私たちの光の源となってくださっているのです。私たちの中で、イエス・キリストが光り輝いてくださっているのです。私たち自身は、暗く多くのだめで、だらしないものを抱える者であるかも知れません。薄汚れた心しかもっていないかも知れません。しかし私たちの中で、イエス・キリストは輝いてくださっているのです。

イエスさまは私たちの救い主として、私たちを導いてくださり、私たちを神さまのもとへと導いてくださるのです。私たちが迷い、富に仕えそうになるときに、イエスさまは私たちに正しい道を示してくださり、私たちを神さまへと引き戻してくださるのです。イエスさまは私たちの中で、ともしびとなってくださり、私たちの中にある光として、私たちを支えてくださっているのです。

【だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】。私たちは光の源であるイエスさまの光を消してしまってはいけないのです。真っ暗闇になってしまってはいけないのです。

不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちキリスト者は、何により頼んで生きているのか。何を支えにして生きているのか。私たちの光となってくださっている方はだれであるのか。

私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエスさまの御救いに、死すべき私たちは生かされ、私たちはキリスト者として生きています。

イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


(2025年7月13日平安教会朝礼拝)


0 件のコメント:

コメントを投稿

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》