2025年8月30日土曜日

8月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

 「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

聖書箇所 マタイ10章16-25節。361/462。

日時場所 2025年8月24日平安教会朝礼拝


奄美大島のヘビとマングースの話は、奇妙な話です。マングースはヘビを退治するということで、奄美大島や沖縄に持ち込まれました。しかしマングースの多くは夜行性で、ヘビは昼間活動しているので、マングースとヘビはあまり出会うことがないということが、あとからわかります。マングースはヘビを食べずに、国の特別天然記念物・アマミノクロウサギなどを食べて、大きな被害が出ています。マングースは夜行性で蛇は昼間活動するので出会わないというのは、それはマングースを奄美大島に放す前にわかるやろうと思うわけですが、やっぱりわからなかったんでしょうねえ。ちなみに昔、沖縄でやっていた「ハブとマングースの決闘ショウ」というのは、動物愛護法が改正されてできなくなったそうです。奄美大島のマングースは駆除されて、2024年9月3日に、根絶宣言が出されています。沖縄のマングースはまだ根絶宣言は出されていないようです。

マングースと蛇の話のように、私たちは意外に思いこみや誤解で判断しているというようなことがあります。今日の聖書の箇所の中には、蛇が出てきます。みなさん蛇はお好きですか。だいたい嫌いな人が多いでしょう。その理由に「蛇はなんかぬるぬるとして気持ちが悪そう」ということがあります。どうですか?。わたしはなんか蛇に対して、そんな印象があります。しかし蛇に触ってみると、別に蛇はぬるぬるなんかしていないわけです。鳩は平和の象徴として用いられます。でも実際は攻撃的な鳥だと言われます。

まあそんなことを考えていくと、案外、私たちの世の中は、いろいろな誤解や思い違いがあったりするわけです。それは私たちの生活や人間関係のなかでも、そういうことがあります。私たちも誤解を受けて、嫌な感じになってしまったりすることがあります。また逆に私たち自身も誤解をして人を傷つけたりします。なんか誤解を受けて、なんか自分は悪くないのに、悪者にされたような形になって、納得がいかないというようこともあります。また逆に自分が思い違いをして人を傷つけてしまったりするようなことがあります。ささいな出来事で、親しかった人とケンカ別れになったりすることがあります。一生懸命に働いているのに、誤解を受けたりして、気が滅入ってしまうというようなことがあります。誤解や思い違いの中で、なんとなく嫌になって、何もかも投げ出してしまいたくなる、そんなときはないでしょうか。「あー、もういやになった」と、叫びたいときはないでしょうか。

今日の聖書の箇所は「迫害を予告する」という表題のついている聖書の箇所です。この聖書の箇所は、イエスさまが甦られたあと、イエスさまの弟子たちがイエスさまのことを宣べ伝えていったときに、迫害にあったということが反映されています。

マタイによる福音書10章16節にはこうあります。【「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい】。狼というのは、当時、キリスト者を迫害していた、ユダヤ教徒のことです。まあ狼の群れの中に、羊が送り込まれたら、まあひとたまりもないわけです。キリスト者が自分の方に正しさがあると思っても、多勢に無勢であるわけです。そんなときは、馬鹿正直に向き合うのではなくて、慎重に振る舞うことが求められています。

蛇のように賢くということですが、昔の人たちは蛇がとても賢い生き物と考えていたようです。創世記3章1節には「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とあります。雅歌5章2節には「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。わたしの鳩、清らかなおとめよ」とあります。ですから鳩は恋人に対する呼びかけにもなっているくらいですから、やっぱり昔の人は鳩は素直だと思っていたのでしょう。まあですから「蛇は話もしないし、賢くないだろう」とか「鳩は攻撃的な鳥だ」と言ってみても仕方がないので、とにかく「慎重に、賢く、素直に」生きなさいということです。

マタイによる福音書10章17-18節にはこうあります。【人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる】とあります。イエスさまが総督ピラトやヘロデ王の前に引き出されたように、弟子たちもまたイエスさまと同じ目にあうだろうと言われています。

裁判所に引き出され、総督や王の前に引き出されて裁かれるというのは、ふつうの人々にとっては、恐ろしいことです。イエスさまは総督ピラトの前でも、ヘロデ王の前でも毅然として、言うべきことを言うことができたでしょう。しかしふつうの人々にしてみれば、そんなことはできないと思ってしまいます。

不安を抱える人々に対して、マタイによる福音書10章19-20節では、こう教えられています。【引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。】。迫害の時に裁判において、どうしたらいいのかと不安になる人々に対して、「何をどう言おうかと心配してはならない」「そのときには、言うべきことは教えられる」と言われています。何も心配することはない。聖霊が働いてくださり、ふさわしい言葉をあなたに与えてくださる。「心配するな」と、イエスさまは言われます。

しかし迫害はなかなかはげしいものです。マタイによる福音書10章21-23節にはこうあります。【兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る】。

迫害は家族が殺し合うという、悲惨ですさまじい状況です。イエスさまを信じているということで、すべての人から憎まれる。一つの町で迫害された場合、そこに留まるということを考えずに、迫害がまだ行われていない町に逃げていきなさい。またそこでも迫害が起こったら、また他の町へと逃げていきなさい。やがて終末がくるから、そのときまで逃げ回っていなさいと、イエスさまは言われます。

マタイによる福音書10章24-25節にはこうあります。【弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」】。

イエスさまが悪霊に取りつかれた人を癒されたとき、ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(MT1224)と言いました。イエスさまは悪霊の頭ベルゼブルであるとされたのです。イエスさまの弟子は、イエスさまにまさるものではないわけですから、迫害する側の人たちからすれば、迫害するのはたやすいわけです。イエスさまに対してしたこと以上に、もっともっとひどいことをすることができます。残忍さにおける人間の想像力というのは、すざまじいものがあります。ですからイエスさまは「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」と言われます。「イエスさまが苦しまれたのだから、わたしも苦しまなければならない」というような考え方はしなくていいからと言われます。「わたし以上に苦しみを受けて、迫害される必要はない」と、イエスさまは言われました。

いまの私たちの世の中では、初期のキリスト者が経験したような迫害を経験するということは、あまりぴんとこないかも知れません。日本において8月は平和について考える月であるわけです。8月6日に広島の原爆記念日を、8月9日に長崎の原爆記念日を、そして8月15日には敗戦記念日を迎えました。今年は敗戦後80年の記念の年です。平和についての考え方も、ずいぶん変わってきたと思います。敗戦後80年、テレビなどでいろいろな特集が組まれたりしますが、日本の加害者責任について考えるというような特集は少なくなったような気がします。そうしたなか、「南京大虐殺はなかった」とか「沖縄戦では日本軍が住民を守ったのだ」というウソを、胸を張っていうような政治家たちも出てきて、まあちょっと困ったものだと思います。そうしたなかで、キリスト者として平和について、いままで同じようにはっきりと意見を言うということは、なかなか勇気のいることだと思います。

すこし堅い話になりましたが、イエスさまは【蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい】と言われました。このことは迫害の時代だけでなく、私たちがいまの時代を生きるうえでも大切なことだと思います。迫害されて、裁かれるときも、「何をどう言おうと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」と、イエスさまは言われました。「どうしよう。どうしよう」と心配して、くよくよと考えるのではなくて、言うべきことを教えてくださる神さまを信じなさいと、イエスさまは言われます。

誤解を受けたり、思い違いがあったりと、ごたごたがあったりする私たちの日常生活です。「あーすればよかった、こーすればよかった」と、くよくよと考えたり、「あー、もう嫌になった」と叫び声をあげたりしてしまいます。でもまあ、そのあと、やっぱり神さまがよき道を示してくださる。神さまがいいことをご用意してくださると、信じる者でありたいと思います。仲たがいをしてしまったときも、和解の主イエス・キリストがとりなしてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

イエスさまは迫害されたときに、【一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい】と言われました。迫害されたときも、みんなは「あいつは逃げてしまって卑怯なやつだ」と言うかも知れないけれども、それはそんなに悪いことではないと、イエスさまは言われます。それぞれの事情があり、人からは卑怯に見えるときもあるかも知れない。また人間は弱い者だから、本当に臆病で卑怯なことをしてしまうことがあるかも知れない。でもそうしたときも、責め合うのではなくて、赦してくださる神さまの前で、互いに祈りあうことが大切だと、イエスさまは言われます。みんな弱さを抱えて生きているのだから、責め合うのではなく、祈りあう生き方をしようと、イエスさまは言われます。そして悪いことをしてしまったときは、あとから謝る。また謝罪を受け入れ、共に赦されている者として、また神さまに向かって歩み始めようと、イエスさまは言われます。

私たちが裁きあって、互いに仲たがいをするのであれば、それは本当の敵の思うつぼだと、イエスさまは言われます。私たちは賢くなければならないと、イエスさまは言われます。私たちは「蛇のように賢く」なければなりません。そして私たちは「鳩のように素直にな」らなければなりません。

一番大切なことは、神さまに対して素直であるということです。神さまを信じて、神さまにお委ねするということです。日常の生活の中で、人間のことばかり考えて、「あー、だめだ」「やっぱりうまくいかなかった」「あの人とはどうもうまくつき合うことができない」「もう、なにもかもいやになった」、そんなふうに考えるのではなくて、まず神さまに対して素直になろうというのです。うまくいかないことがあるけど、神さまにお委ねしよう。神さまがよき道を備えてくださることを信じよう。神さま、ごめんなさい。またわたしはだめなことをしてしまいました。神さま、今日も一日、ありがとうございました。そんなふうに、神さまに対して素直でありたいと思います。

神さまに対して素直であるときに、私たちは人に対しても、心を開くことができるのです。神さまの前では、私たちは共に赦されて生かされているひとりの罪人です。欠けたところを持ち、弱いところを持つ者です。神さまの憐れみと愛によって支えられて、神さまからの祝福を受けて生きている一人の人です。

いろいろな誤解や行き違い、また思いやる余裕がないために、互いに傷つけ合ってしまうことが、私たちにはあります。いらいらしたり、自分を見失ってしまったり、弱さを隠すために強がってみたりすることも、私たちにはあります。

しかし私たちはみんな神さまから愛され、生かされています。神さまにお委ねして歩みましょう。私たちを救うために、イエス・キリストを送ってくださった神さまは、みなさんに良き明日(あした)を用意してくださっています。


(2025年8月24日平安教会朝礼拝)



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