2025年8月15日金曜日

8月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「平和があるようにと何度も唱える」

「平和があるようにと何度も唱える」

聖書箇所 マタイ9:35-10:15。351/371。

日時場所 2025年8月17日平安教会朝礼拝式


哲学者の千葉雅也は【精神的にしっかりするとは、。・・・。ものごとに対し、良かれ悪しかれ鈍感になることだ】と言っています。『センスの哲学』という本のなかで、こんなふうに書かれてあります。【思い起こすと、若い時には、年長の存在が何事かを結論することが、それだけで怖く感じるものです。若者は、弱いからです。肉体的には勢いがあっても、精神的にしっかりしたものをまだ持っていない。精神的にしっかりするとは、根拠づけられた思考ができるようになると共に、それだけでは不十分で、ものごとに対し、良かれ悪しかれ鈍感になることだと思います。慣れるということです。結局、絶対的な根拠づけはできないということを受け入れる。世界には複数の人間がいて、全員が納得する解はありえない(自然科学は、「科学的に考えるならば」という条件つきの平面においてその理想を実現するかに見えますが、人間が生きている世界はその平面のみでできているわけではない)。それが体感としてわかるには、年月がかかるものです。加齢によって指が硬く、ゴワゴワになっていくように、精神も耐性を持つようになる】(千葉雅也『センスの哲学』、文藝春秋)(P.349)

【結局、絶対的な根拠づけはできないということを受け入れる。世界には複数の人間がいて、全員が納得する解はありえない。それが体感としてわかるには、年月がかかるものです】。わたしも若い時は「正しいか正しくないか」「良いか悪いか」、「わたしの考えが絶対に正しい」「真実はいつも一つ」というふうに思っていました。しかし年を取るにつれて、まあ世の中にはいろいろな考えの人たちがいて、みんなが納得するような答えを出すということはなかなかむつかしいと思うようになりました。世の中は人間の集まりであるわけですから、そんなに単純であるわけではありません。みんなそれぞれにいろいろな考え方をしています。そうしたことを受け入れつつ、それでも良いことを目指して歩んでいくわけです。

今日の聖書の箇所は、「群衆に同情する」「十二人を選ぶ」「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書9章35−38節にはこうあります。【イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」】。

イエスさまはいろいろな町や村を回って、神さまの愛を宣べ伝え、そして病気の人たちをいやしておられました。イエスさまのところに集まってくる人々はどういう人だったのかと言いますと、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々でした。みんなとても弱り果て、そして打ちひしがれているのです。生活の上でいろいろな苦労があり、疲れ果てていました。問題を抱えて困っている人々が、イエスさまをたよりにして、イエス様のところに集まってきたのでした。そしてそういた人々をみて、イエスさまは「深く憐れま」れました。

マタイによる福音書10章1−4節にはこうあります。【イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。】

イエスさまは十二人の弟子を選び、そして弟子たちに汚れた霊を追い出す力を与えられます。そして弟子たちが病気をいやすことができるようにされました。そして十二人の弟子の名前が記されています。十二人というのは、イエスさまの国であるイスラエルという国が十二部族からなる国であったことから、イエスさまの弟子は十二弟子ということになっています。ほかの聖書の箇所にも「十二人を選ぶ」という表題のついた聖書の箇所があります。のっている十二人の弟子たちの名前は若干違っています。そういう意味ではちょっとおおざっぱな形の十二弟子であるわけです。

マタイによる福音書10章5ー10節にはこうあります。【イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。】

イエスさまは弟子たちを人々のもとに派遣する時に、いくつかの注意事項について話されました。マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも、「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所があります。おおざっぱに見てみますと、マタイによる福音書では、弟子たちがつかわされる先が、イスラエルの民であるとされています。【「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい】。「イスラエル人ファースト」ということか、と思ったりしますが、マタイによる福音書では、異邦人に対する宣教ということが視野に入っています。イエスさまの誕生物語では、異邦人である「占星術の学者たち」が、イエスさまのところを訪れます。ですからまあ、まずは近くにいるイスラエルの民から始めようかというようなことなのだろうと思います。

マタイによる福音書10章11−15節にはこうあります。【町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」】。

【『平和があるように』と挨拶しなさい】というところも、マタイによる福音書に特徴的なことのようです。【その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる】。まあ「平和があるように」というのは、シャロームという日常の「こんにちは」という挨拶であるわけですから、そんな深い意味があるのかどうかということもあります。でも平和が与えられたり、平和が帰ってきたりするところが、微妙なやりとりであるわけです。弟子たちは、いつでもだれでも歓迎されるわけではないですし、いつでも平和に迎えてもらえるわけでもありません。それでもお家に迎えられたら、「平和があるように」と挨拶をするわけです。

【あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい】という作法は、なかなか考えさせられる作法であるわけです。弟子たちは「わたしが言っていることが正しい」と思っているわけですが、でもまあその言葉に耳を傾けてくれようともしない人たちがいるわけです。イエスさまからの教えであるから、弟子たちは「ぜーったい、わたしの言うこことは正しい」と思っているわけです。でも耳を傾けてくれようともしない人たちがいるわけです。「めっちゃ頭にくる」と言って、この人たちのことをののしりたいと思うわけですが、でもそれはしてはだめなのです。呪い倒してやりたいところであるわけですが、そういうのもだめなのです。「あの人たちは最低だ」と良からぬ噂さをたてたいところですが、そういうのもだめなのです。ただ足の埃(ほこり)を払って立ち去るのです。まあ腹を立てて、仕返しをしても、何もいいことはないということです。まあ確かにそうだと思います。

弟子たちがつかわされる世の中は、なかなか大変な世の中です。貧しさがあり、さみしさがあります。みんな弱り果てて、打ちひしがれている。人々を見てイエスさまが深く憐れまれるというような状態です。また「サマリア人の町に入ってはならない」というような地域差別があるような社会です。病気で苦しんでいる人たちがたくさんいます。また弟子たちのことを受け入れてくれるか受け入れてくれないかもよくわかりません。親しみをもって「平和があるように」と挨拶をしても、それが受け入れられないかも知れません。人間の現実とはそういうもので、みんな悩みを抱えながら生きています。人にやさしくしようと思っても、やさしくすることができなかったり。もう暴力を振るうのはぜったいに止めにしようと思っても、やっぱりそのように振る舞うことができなかったり。ののしったり、辱めたりすようなばかげたことはしないでおこうと思いながら、人をののしっていたり、人を辱めていたり。それは弟子たちの世の中だけがそうでなく、私たち人間の世の中はそうした罪深いものであるわけです。

しかしだからこそ、イエスさまは「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われるのです。受け入れられるかどうかはわからない。それでも信じて、「平和があるように」と挨拶をするのです。あなたとわたしの間に、神さまが立ってくださって、私たちに平和をもたらしてくださいますようにと挨拶するのです。どうなるかはわからないけれども、ただただ信じて、「平和があるように」と挨拶するのです。

私たちの世界も、争いの多い世界です。私たちは「神さまの平和が来ますように」と祈ります。しかしなかなか平和が訪れるような兆(きざ)しは見えてきません。ウクライナとロシアの戦争が終わらないうちに、イスラエルはパレスチナのハマスと戦争を始めます。アメリカはイラクにミサイル攻撃をします。。タイとカンボジアは国境付近で交戦します。いろいろな国で排外主義的な雰囲気が大きくなってきます。そうした世界であるわけですが、私たちは「平和があるように」と挨拶をします。何度でも、あきらめることなく、拒否されることがあったとしても、「平和があるように」と挨拶をします。

アジア・太平洋戦争後、80年の時を経て、私たちは希望を失うことなく、「平和があるように」と祈りたいと思います。

  

(2025年8月17日平安教会朝礼拝式) 


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