2025年9月6日土曜日

9月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「大切なのは愛だよ」

「大切なのは愛だよ」

聖書箇所 マタイ13:24-43。412/482。

日時場所 2025年9月7日平安教会朝礼拝


みなさんは「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。クリスチャンである私たちの模範解答としては、「洗礼を受けたこと」というようなものかも知れません。でもまあ模範解答は少し横に置いておいて、「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。まあひとそれぞれ、いろいろなことがあると思います。思い出にふけってくださって結構です。良い思い出があるのはとても良いことです。

小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに答えています。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】。

高橋源一郎の『ラジオの、光と闇』という本の中に、ちょこっと書かれてあった一節なのですが、こころに留まりました。宝ヶ池や修学院駅などがロケ地として撮られた、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(2016年12月17日劇場公開日)という映画を、先週、わたしは見ていました。その映画のなかでも、恋人同士が初めて手をつなぐというシーンが出てきます。そういう意味では、【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】というのは、わりあいあることなのかなあとも思います。

しかし誰かと手をつなぐということで、生涯その人のこころのなか、一番感動したこととして残るというのであれば、それは特別な人にだけできることではなく、だれでもできることであるのだと思いました。相手が手を握ってきたら、こちらも握り返すということですから、なにか特別な費用がかかるということでもありません。食事をしてもお金がかかりますし、プレゼントをしてもお金がかかるわけですが、でも手を握るということはお金がかかるわけではありません。だれにでもできることでありながら、それがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

そしてそれは、私たちは知らず知らずのうちに、相手の人生にとってとてもかけがえのない思い出をつくっているのかも知れないということです。手を握りあうという愛に満ちた小さな出来事が、私たちの世の中を愛に満ちたものへと導いていくのです。大げさなことではなく、わたしにできることがあると思えて、とても励まされる思いがしました。

今日の聖書の箇所は、「毒麦のたとえ」「からし種とパン種のたとえ」「たとえを用いて語る」「毒麦のたとえの説明」という表題のついた聖書の箇所です。

「毒麦のたとえ」というのは、イエスさまがされた「天の国」についてのたとえ話です。ある人が畑に良い種をまきます。すると人々が眠っている間に、敵がやってきて、畑に毒麦を蒔いていきます。だんだんと麦が実ってくると、蒔いていないはずの毒麦が現れます。僕立ちは主人のところに行って、畑に良い麦に交ざって、毒麦が生えてきていることを報告します。僕たちは「毒麦を抜いてしまいましょうか」というのですが、主人は「毒麦を抜いてしまうときに、根が絡まっていて良い麦も抜いてしまうかも知れないから、いまはそのままにして、刈り入れのときに毒麦をはじめに集めて燃やしてしまいなさい。良い麦を集めて倉に入れてしまうことにしよう」と言いました。

私たちはすぐに浮き足立って、悪い人を探して、それを取り除いてしまったらいいというふうに考える。でも何が良いのか悪いのかということは、そう簡単にわかることではないので、人を裁くのは遅くしたほうが良いというようなたとえ話です。世の終わり・終末のときに、神さまが裁いてくださるから、あなたたちが裁く必要はないのだ。天の国は裁きあいの世界ではなく、神さまの愛によるゆるしあいの世界なのだと、イエスさまは言われるのです。

「からし種とパン種のたとえ」もまた、「天の国」についてのたとえ話です。からし種はちいさいけれど、畑に蒔くと、そこそこ成長する。からし種は0.5ミリメートルほどの大きさです。とても小さいものですが、大きなやさいくらいには成長します。大木になるわけではないですが、鳥がとまることができるくらいの大きさにはなります。パン種というのは、いわゆるパンを膨らませるイーストのことです。イーストを入れることによって、パンはふっくらと焼き上がります。天の国は私たちがどうこうすることによってできあがるということではなく、神さまの御手によってうまい具合に大きくなっていくのだ。あなたたちは心配性だから、「これはどうなるのだろう」「あれはどうなるのだろう」「大丈夫かなあ。大丈夫かなあ」となにかにつけて心配するけれども、「まあ、あんまり心配するな」と、イエスさまは言われたということです。

「たとえを用いて語る」ということでは、イエスさまが話をされるときに、たとえ話をよくされたということが書かれてあります。たとえ話で話すというのは、みんなにわかりやすく話すために、まあたとえ話で話すわけです。しかし時代によって変化することもありますし、地域によっていない動物というのもあります。その時代のその場所ではよくわかるたとえ話であっても、時代が変わったり、場所が変わったりすると、たとえ話はその意味するところがよくわからなくなるということがあります。イエスさまの地域、イエスさまの時代であれば、「わたしは良い羊飼いである」と言うと、よくわかったわけです。でも私たちの時代では生活の場所で羊がいるというようなことはあまりないですから、説明が必要になってくるわけです。

「毒麦のたとえの説明」というようなことが起こります。イエスさまは「毒麦のたとえ」をはなされたわけですが、そのたとえの説明を弟子たちが求めます。この聖書の箇所は、イエスさまがたとえの説明をされたということではなく、イエスさまのあとの初代教会の人たちがあとから説明を考えたということだと思います。はじめの「毒麦のたとえ」と、「毒麦のたとえの説明」では、話が違い過ぎるからです。

イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。

わたしはこの「毒麦のたとえの説明」という聖書の箇所を読みながら、「イエスさまのたとえ話をどうして曲解するのだろうか」と思いました。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。「もともと人を裁くのには慎重にしたほうがいいよね」という内容のたとえ話の説明が、「悪い人たちは裁かれるぞ」という話になっていくわけです。そして自分たちは正しく裁くことができるので、自分たちの言うことを聞きなさいというような感じになって、組織化されていくというのは、なかなか人のすることというのは、恐ろしいものだなあと思えます。

現代の社会を表わす言葉として、「アメリカはロシアに勝った。だがロシアになった」と言っている人がいました。アメリカは個人を大切にする国でありました。ロシアは個人よりも国家を大切にする国です。でもだんだんとアメリカもまた個人よりも国家を大切にする国になってきています。人は敵をつくり、その敵をやっつけようとすると、その敵に似てくるのです。ですからイエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。

「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)の13章13節でこう言いました。新約聖書の317頁です。【それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である】。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだと、使徒パウロは言いました。

人を裁いたり、人を支配しようとしたりする弱さが、私たちにはあります。世の中には悪いやつらがいて、そういう人たちがいなくなれば、世の中がうまく回っていくのではないかというような気持ちになります。わたしなどはニュース番組を見てると、すぐそういう気持ちになります。ウクライナとロシアの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。パレスチナのハマスとイスラエルのとの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。独裁国家が続いているのは、「・・・のせいだ」。アメリカで対立が深まっているのは、「・・・のせいだ」。批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

小説家の高橋源一郎の【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】と言う話はとても良い話です。私たちの世界に小さな愛の出来事を作り出していくことが、私たちにできる良きわざであるのです。私たちがおこなった小さなわざが、もしかしたらその人にとって生涯忘れることのできない出来事になるかも知れないのです。

讃美歌21−482番は「わが主イエスいとうるわし」という讃美歌です。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの愛を宣べ伝えました。そんなイエスさまをほめたたえずにはいられないという、とても愛に満ちた讃美歌です。澁谷昭彦さんの愛唱讃美歌です。この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。



  

(2025年9月7日平安教会朝礼拝式) 

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