「いいものみーつけた!」
聖書箇所 マタイ13:44-52。509/470。(列王上3章4-15節)
日時場所 2025年9月14日(日)平安教会朝礼拝
今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。
今日は第二週の礼拝ですので、「きてみてれいはい」です。今月から「きてみてれいはい」は、子どもの教会と合同礼拝として行なうことにいたしました。そのため子どもの教会でよく使う讃美歌を用いたり、式次第を少し代えてみました。なるべくひらがなで書いてみることにいたしました。全体として礼拝時間が短くなっています。ぜひお子さまと一緒に礼拝にきていただけたらと思っています。子どものための席もつくりましたので、よかったらご利用下さい。来てくださった子どもさんにできれば、何かしてもらうことができればと思って、「かねをならす」ということを式次第にいれてみました。今日は司会者の方にならしていただきました。「1955年1月平安教会教会学校」と記されています。恵老祝福のしおりは、この鐘の写真を用いてつくっています。
みなさんは最近、いいものを見つけられたでしょうか。お気に入りのものがあるでしょうか。わたしは3年ほど前に、銀座の伊東屋で買った伊東屋特製のボールペンが、お気に入りです。このボールペンのどこが良いのかと言いますと、胸のポケットにいれいても、インクがもれるということがありません。ふたがついているので、安心です。銀座に来ることもそんなにないだろうと思って、替えのシンも買いました。なんと言っても銀座の伊東屋特製のボールペンだと思い、長い間大切に使おうと思いました。その後、大阪のグランフロントのなかに、伊東屋があるをみつけて、「ああ、ここにもあるじゃないか」とびっくりしました。替え芯が切れかけていたので、替え芯をまた買いました。「いいものみーつけた!」と思えると、とてもうれしい気持ちになります。そして人に自慢したくなります。
わたしは平安教会に赴任して、この9月で6年と二ヶ月になります。6年と言うと、まあそんなに年月がたったということでもないような気もしますが、でもいろいろなことがあったなあと思います。この6年間でいろいろな人に出会ったなあと思います。とても幸せなことだと思います。わたしがいま親しくしている人たちは、6年前にはほとんど知らない人であったわけですから、そうした人たちと親しく楽しく過ごしているというのは、とても幸せなことだと思います。良き友、良き教会、良き仕事との出会いであったと思います。たぶん「いいものみーつけた!」というのは、伊東屋特製のボールペンではなく、平安教会での交わりということなのでしょう。
今日の聖書の箇所は「『天の国』のたとえ」「天の国のことを学んだ学者」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書13章44-46節にはこうあります。【「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う】。
今日の聖書の箇所は「天の国のたとえ」として語られています。イエスさまの時代、宝物を壺にいれて土の中に隠すということが行なわれていました。持ち主が生きていて、そのことを知っているうちはいいわけですが、突然、死んだりして、だれも土の中の隠し場所を知らないというようなことが起こってくる場合があります。あるいは他国による侵略などで、持ち主が他国へ奴隷となって売られてしまうような場合があります。そうなると畑に宝が隠された状態になります。それをたまたま畑を耕している人が見つけます。そしてその宝物を隠しておいて、持ち物をすっかり売り払って、宝物が埋まっている畑を買うというわけです。
真珠の場合も、良い、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、その良い、高価な真珠を買います。畑の場合も、真珠の場合も、「持ち物をすっかり売り払って」、「それを買う」わけです。このたとえでは「持ち物をすっかり売り払って」「それを買う」というところが、みそであるわけです。天の国はかけがえのないものであるということです。単なる持っていたらちょっと良い物ということではなくて、それは「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」というものであるということです。それに人生をかけるというか、信じるというのは、そういうものだということです。あれも、これも、もって、その上で、信じるということではなくて、信仰のみということです。信仰とはそういうきびしさを持っているということです。
マタイによる福音書13章47-50節にはこうあります。【また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。】。
マタイによる福音書の著者は、(マタイによる福音書13章36節以下の「毒麦のたとえの説明」などからも分かりますが)、「良い」「悪い」の二つに分けるということが好きです。「良い」「悪い」の二つに分けるということは、なかなかむつかしいことです。まあ物なら、そうかなあとも思えますが、人の場合、「良い人」「悪い人」、「正しい人々」「悪いものども」などと分けられますと、「そんなに簡単に正しい人々、悪いものどもなんてわけてしまっていいのだろうか」との思いももちます。
しかしここで全体的に語られることは、「悪い人たちは燃え盛る炉に投げ込まれて、ざまあみろ!」というようなことではありません。そうではなくて、まさにイエス・キリストに出会った私たちの生き方が問われているということとです。マタイによる福音書13章51-52節にはこうあります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」】。
まさに弟子たちはイエスさまから問われたのです。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。そして弟子たちは「分かりました」と答えました。イエスさまに出会った弟子たちは、イエスさまの教えに導かれて、自分の倉から新しいものと古いものを取り出して、そして古いものを捨てなければならないということです。それは畑や真珠を、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ように、とてもきびしい選択であるわけです。
昔、ロフトに買い物に行くと、「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」と「ロフトでゲット」という曲が流れていました。(「お金がないときは、彼に甘えておねだりしちゃおう」、正確ではないけどこんな内容)。まあ確かに梅田などのロフトにいって、「あれもこれも、それもどれも」と自分の気に入ったものを買って行くと、とてもうれしいような気がします。わたしはまあしないですけど、でもまあティファニーで買い物とかそういうわけでもないですから、ロフトで買い物している分には、そんなにびっくりすることもないでしょう。ただ私たちは「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というように、「なんでもかんでも」というわけにはいかないということがあります。やはり慎重に選ばなければならないということがあります。
昔、昔のイスラエルの王様にソロモンという人がいました。ソロモンは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。旧約聖書の列王上3章に書かれてある話です。旧約聖書の531頁です。皆さんは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた何を望みますか。慎重に考えてくださいよ。何がいいですか?。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えたのでした。そしてそれに対して神さまは、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われました。
「長寿も富も敵の命も」というように、ほしいものはいろいろあるわけです。しかし「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というわけにはいきません。ソロモンは「自分のために」ではなく「あなたの民を正しく裁き」とあるように、「神さまのために」ということを謙虚に望みました。ソロモンは「わたしのために」「わたしがわたしが」ということを望まず、「神さまのために」「神さまのみ栄えを現すために」ということを望みました。そしてそれゆえに、ソロモンは神さまから大いなる祝福を受けたのでした。
私たちはときに、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いの前に立たされます。「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いの前に立たされます。元気に飛び回っているときは、そうしたことを考えることがあまりないかも知れません。「あれもこれも、それもどれも」と思いながら、多くのことを手に入れることができるかも知れません。しかし思わぬつまずきに出会ったり、あるいは年を感じ以前と同じように動き回ることができなくなってきたりするときに、私たちは心静かにして、「あなたの大切なものは何ですか?」「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いに答えなければならないときがあります。
そんなとき、私たちには「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」という大切なものがあるということを思い起こしたいと思います。神さまは弱い私たちをしっかりと守り導いてくださる方である。神さまは私たちをいつも愛してくださっている。神さまは私たちと共にいてくださり、私たちに良き道を備えてくださる。私たちはそうした神さまに出会い、信仰生活を送っています。それは私たちにとってかけがえのないものです。
わたしはわたしが銀座の伊東屋でみつけたボールペンを皆さんにお勧めすることありません。しかしキリスト教信仰については、自信をもってお勧めします。キリスト教の神さまを信じて生きることを、わたしは自信をもってお勧めします。神さまに導かれて歩む人生は、本当に大きな安らぎです。
本当に大切なものは、「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。本当に大切なものは、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」に値するものです。心の底から「これに出会うことによって、わたしは救われた」と思うことのできるものです。それは「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。「あれもこれも、それもどれも」は、消え去ってゆきます。それは確かなものではありません。私たちの魂にかかわるもの、永遠なるものが、わたしたちにとっては確かなものであり、私たちにとって本当に必要なものなのです。
神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださっています。確かな方により頼んで歩みましょう。
(2025年9月14日、平安教会朝礼拝、きてみてれいはい、子どもの教会との合同礼拝、恵老祝福礼拝)
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