2025年11月12日水曜日

11月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「静かに自らを省みる」

「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。386/507。

日時場所 2025年11月9日平安教会朝礼拝式


新美南吉は、「ごんぎつね」や「手袋を買ひに」で有名な児童文学作家です。新美南吉の作品に「デンデンムシノ カナシミ」という作品があります。「デンデンムシ」というのは、「かたつむり」のことです。


デンデンムシの悲しみというのは、こんな話です。

デンデンムシが自分の背の殻に、悲しみがいっぱい詰まっていることに気がついて、友人のデンデンムシを訪ねます。そして友だちに、「自分の背中の殻に悲しみがいっぱい詰まっている」と言うと、友だちのデンデンムシは「あなただけではない。わたしもそうだ」と答えます。そうするとデンデンムシはつぎの友だちのところを訪ねて、同じように話します。自分の背中の殻に悲しみがいっぱい詰まっている。そうするとその友だちのデンデンムシもまた、わたしもそうだと答えます。そうやって友だちのデンデンムシを訪ねていきます。そして気がつきます。

【トウトウ ハジメ ノ デンデンムシ ハ キ ガ ツキマシタ。

 「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

 ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】(『日本児童文学大系28 新美南吉』、ほるぷ社)(P39)。


「ワタシ ハ ナント イフ フシアハセ ナ モノ デセウ。ワタシ ノ セナカ ノ カラ ノ ナカ ニ ハ カナシミ ガ イツバイ ツマツテ ヰル ノ デス」と言っている人に対して、「アナタ バカリ デ ハ アリマセン。ワタシ ノ セナカ ニ モ カナシミ ハ イツパイ デス。」と答えるのは、カウンセリングの方法としては、たぶんあまりいいことではないのだと思います。

この「デンデンムシノ カナシミ」という話は、悲しんでいる人に「これでも読みなさい。悲しみをいっぱい抱えているのは、あなただけじゃないのよ」と言って、聞かせてあげるという話ではないのでしょう。そうではなくて、悲しんでいる人が、自然に「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ」と思えるためにある話なのでしょう。

【「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】という、このデンデンムシは、たぶん新美南吉自身なのでしょう。

新美南吉は、1913年(大正2年)生まれです。そして1943年(昭和18年)に、結核のため、天に召されています。新美南吉は29年の生涯でした。新美南吉のお母さんは、新美南吉が4才の時に天に召されています。新美南吉はある種のさみしさや悲しみを抱えて生きていたのでしょう。そして1934年、21才の時に結核の症状を自覚します。「デンデンムシノ カナシミ」は、その翌年の1935年に書かれた作品です。そしてその翌年の1936年に再び結核の症状が出ます。そのため新美南吉は、東京での職を辞して、故郷に帰り、先生をしながら、作品を発表するという生活になります。そして近づく死を自覚しながら、書き続け、29才の若さで、天に帰っていきました。

【「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】

とはいうものの、やっぱり自分が背負っている悲しみというのは、重いものです。「あなたの悲しみより、わたしの悲しみのほうが重いのよ」とか「世界にはもっと悲しんでいる人がいるのよ」とか言われても、自分の背負っている悲しみがなくなるというわけでもありません。やっぱり悲しいのです。

しかし「では、その悲しみの記憶を消してあげることができるのだけれども、その悲しみの記憶を消しましょうか」と言われると、みなさんはどうされますか。たとえば大好きな女の子にフラレタというようなとき、「その悲しみの記憶を消しましょうか」と言われたらどうしますか。

手塚治虫の『鉄腕アトム「地上最大のロボット」』という作品を原作にして、浦沢直樹という漫画家が、『プルートウ』(小学館)というマンガを書いています。漫画『20世紀少年』『YAWARA!』『MONSTER』の作者です。そのマンガの中にこういうシーンがあります。ロボットの刑事が、殺されたロボットのおつれあいのところに、やってきます。そのおつれあいがあまりに悲しそうにしているので、ロボットの刑事はこう言います。【記憶を・・・ データの一部を消去しましょうか?】。ロボットは記憶装置というのがあり、それに書かれてある記憶を消せば、きれいさっぱり忘れてしまうことができるわけです。するとそのおつれあいが【あの人の思い出・・・・・ 消さないで・・・・・】と言います。

『プルートウ』という漫画の中では「思い出」「憎しみ」ということがキーワードとなっています。1巻の最後に「アトム君」が出てきます。そしてそのときアトム君が手に持っているのはデンデンムシ、かたつむりです。浦沢直樹はアトム君を、背中に悲しみがいっぱい詰まったカラをもっているデンデンムシと一緒に登場させるのです。

『プルートウ』という漫画の中、もう一度、デンデンムシ、かたつむりが登場します。最後の巻である8巻です。悲しみや憎しみが心の中に一杯になったアトム君が、自分で自分をどのようにしたらいいのかわからなくなります。そしてそのあと、アトム君はデンデンムシ、かたつむりと一緒に登場します。

みなさんのこころのなかが、怒りや憎しみで一杯になっている時に、道端にかたつむりがいたら、どうされますか。たぶんわたしは踏みつぶしてしまうだろうと思います。背中に悲しみがいっぱい詰ったカラを持っているデンデンムシ、かたつむりを、ぐしゃっと踏みつぶしてしまうだろうと思います。しかしアトム君はそうしませんでした。道端にいたデンデンムシ、かたつむりを木の植え込みのなかに帰してあげるのです。そうすることによって、アトム君は心が穏やかになります。背中に悲しみがいっぱい詰ったカラをもっているカタツムリと、悲しみで一杯のアトム君が心を通わすことによって、アトム君は心が穏やかになったのです。

新美南吉の「デンデンムシノ カナシミ」のデンデンムシも「それじゃあ、あなたの背中の悲しみがいっぱい詰まったカラをとってあげる」ということを望んでいるわけではないでしょう。デンデンムシは悲しみを抱えている友を訪ねていくことによって、悲しみを抱えて共に歩んでいる友がいることに気がついたのでした。デンデンムシが望んでいたことは、悲しみのつまったカラを取り除いてくれということではなくて、共に歩んでいる友がいることを見つけることでした。

新美南吉は「牛」という詩を書いています。どちらかというと、わたしには「デンデンムシノ カナシミ」よりも、「牛」という詩のほうが、なんとなく安らぎを与えてくれるような気がします。

【牛    


牛は重いものを曳(ひ)くので

首を垂れて歩く


牛は重いものを曳くので

地びたを睨(にら)んで歩く


牛は重いものを曳くので

短い足で歩く


牛は重いものを曳くので

のろりのろり歩く


牛は重いものを曳くので

静かな瞳で歩く


牛は重いものを曳くので

輪の音にきゝ入りながら歩く


牛は重いものを曳くので

首を少しづつ左右にふる


牛は重いものを曳くので

ゆっくり澤山喰べる


牛は重いものを曳くので

黙って反芻(はんすう)している


牛は重いものを曳くので

休みにはうつとりしている】

(新美南吉作・杉浦範茂『花をうめる』、小峰書店)(P170)。 

たぶん新美南吉は、重いものを曳く牛の姿をみながら、重荷をかかえて歩む自分の姿を重ね合わせたのでしょう。そして泣き言を言わないで、重い荷物を曳く牛が、自分の友のように思えたのでしょう。

悲しみを受けとめて生きるということは、そう簡単にできることでもありません。わたしの母はアルツハイマー病という病気になり、父が15年間くらい母の介護をしていました。わたしの父はわたしの母が天に召されたあと、旅行にいこうとはしませんでした。気分に転換になるだろうと思って、わたしが「お父さん、旅行にでも行こうか」と言うと、父は「おまえたちだけで行ってこい」と言いました。私たちの家族が旅行に行きたいから、父を誘っているわけではなくて、父を連れ出そうとして「旅行に行こうか」と言っているわけです。なんどか誘ったわけですが、父の答えは「おまえたちだけで行ってこい」でした。

旅行が無理であれば、どこかで一緒に食事でもしようかと思って、誘ったりしました。以前、よく行っていた中華料理屋さんにでも行こうかと誘うと、父は「あそこには行かないようにしている」と言います。「あの中華料理屋さんはお母さんと一緒によく行ったから、行ったらお母さんのことを思い出してしまう」というわけです。外で何か食べても、「ああ、これお母さんと一緒に食べたなあ。これお母さんが好きだったなあ」と思い出してしまうというわけです。それでも母が召されて5年くらいして、ときどき旅行に行くようになりました。それでも旅行先で、おいしいものなどを食べたときには、「お母さんと一緒に来ることができたら、どんなに良かっただろう」と思うと言います。なかなか人間の心というのは、むつかしいものだと思います。

人間の心についての本はたくさん出ていますし、「悲しみの心の癒し方」のような本もたくさんあります。しかし悲しみの癒され方というのは、さまざまでしょう。こうすれば癒されるというのでもないでしょう。しかし悲しみを共にしてくれる方がいてくれると思えるときに、すこし悲しみがいやされるということがあります。私たちの悲しみを知ってくださり、私たちの嘆きを受けとめてくださる方がおられることを知るときに、私たちは悲しみを抱えながらも、歩んでいくことができます。

イエスさまは自分が十字架につけられて、殺されるということを、自分の弟子たちにお話になられました。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」】。弟子たちはイエスさまのことを頼っていましたから、イエスさまがいなくなるということは、とても不安なことです。そしてそれは大きな悲しみの出来事です。不安になっている弟子たちに、イエスさまは【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】と言われました。

イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまにまつわる思い出は、すべてが思い出してうれしいという思い出ではありませんでした。弟子たちはイエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを裏切って逃げ出してしまいます。恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさんありました。聖書を読んでいますと、そうした弟子たちの恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさん出てきます。

イエスさまのお弟子さんのペトロさんは、イエスさまがご自分が十字架につけられて殺されてしまうという話をされ、弟子たちはみんなわたしにつまずくと言われたときに、自分はぜったいにイエスさまを裏切ったりしないと言いました。しかし、ペトロはイエスさまのことを知らないと言いました。マルコによる福音書14章66節以下に「ペトロ、イエスを知らないと言う」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の94頁です。

イエスさまのことを知らないと言った出来事は、ペトロにとっては思い出したくない、できれば消し去りたいような思い出だったと思います。しかしペトロはこの思い出を消し去ろうとはしませんでした。この思い出は生涯にとって大切なイエスさまとの思い出であったからです。そしてペトロはこのイエスさまのことを知らないと言った弱い自分を抱えて、イエスさまのことを人々に宣べ伝えていきます。

イエスさまのお弟子さんたちは、「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」という思いを持っていました。イエスさまとの思い出をいろいろな人に伝えたいと思っていました。それはイエスさまが弟子たちの悲しみや苦しみをすべてわかってくださり、共に歩んでくださる方だったからです。そしてイエスさまは弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださる方だったからです。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。イエスさまはそう言われました。私たちにも悲しいことや辛いことが、ときに起りますが、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」というイエスさまの言葉を信じて歩みたいと思います。そしてイエスさまがそうであったように、悲しんでいる人、つらい思いをしている人の傍らに、そっと寄り添ってあげることのできる歩みでありたいと思います。



(2025年11月9日平安教会朝礼拝式)


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