2025年11月29日土曜日

11月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「もういくつねるとクリスマス?」

「もういくつねるとクリスマス?」

聖書箇所 マルコ13:21-37。231/241。

日時場所 2025年11月30日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週


今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントはイエスさまがお生まれになられるのを待ち望む期間です。キリスト教の暦のことを「教会暦」というふうに言いますが、教会暦によると、一年はアドヴェントから始まります。イエス・キリストを待ち望むことから一年が始まるわけです。一年を振り返ってみると、神さまからいろいろな恵みをいただいたと感じます。

一年を振り返ってみて、「わたしの一年はどういう一年だったかなあ」と考えて見ますと、やはり一番大きいのは、みなさんと一緒に教会建物改修を行なうことができたということだと思いました。2月に臨時総会をひらき、そして9月にまた臨時総会をひらき、そして10月9日から建物改修の工事がはじまりました。これからもこころをあわせて、このことに取り組んでいきたいと思います。

今日の聖書の箇所は、「大きな苦難を予告する」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「人の子が来る」「いちじくの木の教え」「目を覚ましていなさい」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は全体として、世の終わり、終末についての聖書の箇所です。アドヴェントに終末の聖書の箇所が読まれるというのは、アドヴェントが「来臨」という意味で「イエスさまが来られる」ということだからです。イエスさまが来られるというのは、ひとつにはイエスさまがお生まれになられるということです。そしてもうひとつは、イエスさまが世の終わりの時に来られるということです。「再臨」と言われますが、世の終わりにイエスさまが来られるということです。ですからアドヴェントにはイエスさまの誕生を待ち望むときであり、再臨のイエス・キリストを待ち望むときでもあるわけです。そういうわけでアドヴェントには終末の聖書の箇所が読まれます。

マルコによる福音書13章21-23節にはこうあります。【そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」】。

世の終わりの時には、預言者エリヤが現われるとか終末の預言者が現われると言われていました。ですからそれに便乗して偽メシアとか偽預言者が現われるわけです。そして「われこそメシアだ」と言う人たちが出てくるわけです。ですからそうした人たちに惑わされることなく、「落ち着いていなさい」と、イエスさまは弟子たちに言われました。そしてあらかじめ、マルコによる福音書13章3節以下のような「終末の徴」について、弟子たちに話しておられました。

マルコによる福音書13章24-27節にはこうあります。【「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」】。

この聖書の箇所は、まさに終末の出来事について記されています。天変地異が起こり、そして再臨のキリストがやってこられるのです。再臨のキリストは終末のときに、大きなる力と栄光を帯びて雲に乗ってやってこられる。そして彼に仕える者を四方から呼び集めるのです。

マルコによる福音書13章28-31節にはこうあります。【「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」】。

木や花はまあまあその季節になると、その季節にふさわしく花開きます。梅はまだ少し寒いときに、そして春になると桜が咲きます。まあ若干、温暖の差や日照条件によって変わってくるのでしょうが、しかしまあだいたいわかるわけです。いちじくの木もやはり同じです。【枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる】。終末もなんとなく気配というものがあるから、なんとなくその気配を感じとりなさいと、イエスさまは言われます。ただし、「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決してほろびない」と言われ、「終末だ。終末だ」と慌てふためかなくてもいいと言われました。【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】とありますように、「あなたたちは確かなわたしの言葉により頼んで生きているのだから、慌てふためいたり、いたずらにあわてたりすることなく、わたしの言葉により頼んで生きているということを大切なこととして歩みなさい」と、イエスさまは言われました。

マルコによる福音書13章32-37節にはこうあります。【「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」】。

終末については、いちじくの木のようになんとなく訪れるという気配というのがあるわけだけれども、しかし「終末がいつであるのか」ということは来てみないとわからない。いつであるのかというのは神さまだけがご存知だ。それは人間がとやかくいうことではなくて、神さまの側のことのなのだ。だから私たちにできることは、いつ終末がきてもいいように「目を覚ましている」ことだ。

旅に出た主人がいつ帰ってくるかはわからない。いまなら電話がありますから、「明日帰る」というふうに連絡を付けることができます。あるいは最近は携帯電話という便利なものもありますから、「いま帰った、玄関の戸を開けて」と言うこともできます。まあそうは言っても、夜寝る前に突然携帯電話にメールが届いて、「明日、終末がくる。神さま」と告げられても困りますが・・・。昔は電話もないですから、旅に出た主人はいつ帰ってくるかわかりませんでした。ですからいつ帰って来てもいいように、備えておかなければなりませんでした。終末もそれと同じように、やはりいつ来てもいいように備えていなければならないのです。

アドヴェントはイエスさまの誕生を待つときであり、また再臨のキリストを待つときであります。ですからアドヴェントのときは、私たちにとっていったい何が大切なことであるのかということを心に留めるときであるのです。私たちは日常生活のなかで、いろいろなことに心を煩わせます。いろいろと考えなければならないことがたくさんあるわけです。「あれも必要だし、これも必要だ」「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」。なんとなく続く日常生活のなかで、本当に大切なものは何だろうかと、手を休めて考えてみるときなのです。

クリスマス時期になると、本屋さんによく並べられている本の中に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティは映画『ティファニーで朝食を』の原作者です。『あるクリスマス』、トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳、山本容子銅版画という、なかなか豪華な本です。「父さんと過ごした最初で最後のクリスマス」と本の帯にあります。

カポーティのお母さんは16歳のときに、28歳だったカポーティのお父さんと結婚をします。そしてカポーティが生まれるわけですが、結婚生活は1年しか続かず、カポーティはアラバマにあったお母さんの実家に預けられることになります。アラバマでの生活が不快であったのかと言うと、カポーティにとってはそうでもありませんでした。お母さんの親戚に囲まれて、そしてとくにいとこでスックという名前の高齢の女性と犬のクーニーと仲良く過ごしていました。カポーティが6歳のときに、ニュー・オーリンズに住んでいた父さんから、クリスマスを一緒に過ごしたいから、ニュー・オーリンズに来ないかと手紙がくるわけです。そして父さんと過ごしたクリスマスが小説となっているのが、『あるクリスマス』です。カポーティは「バディー」という少年として登場します。

バディーは行きたくなかったのですが、スークが「これも主の御こころよ。ひょっとすると雪が見れるかも知れないわよ」というので、行くことにします。バディーのお父さんは、いわゆるジゴロのような人でした。ジゴロというのはフランス語で「女の人から金を巻き上げて生活する男の人」という意味です。ニュー・オーリンズでいい生活をしているわけですが、まああまり上等な人間ではありませんでした。バディーはニュー・オーリンズでお父さんと一緒にクリスマスを過ごすわけですが、こころに大きな痛みを抱えて帰ってくることになります。唯一、ニュー・オーリンズの大きなおもちゃ屋さんで目を引かれた乗り込んで自転車のようにペタルをこぐことができる飛行機を、お父さんに買わせて、それをもってバスに乗って帰ってきます。酒を飲んでよっぱらっているお父さんは、「なあ、お父さんを愛しているって言ってくれ。お願いだよ、バディー、言ってくれ。頼む」と何度もバディーに言ってきます。

帰ってきて、いとこのスックに、さんざんなクリスマスであったということを話し続けます。スックはやさしく慰めてくれて、【さあもうお休みなさい。そして星の数を勘定しなさい。いちばん心の休まることを考えなさい。たとえば雪のこと。雪が見られなくて残念だったわねえ。でも今、雪はお星様のあいだから降ってきているわよ】と言われ、少し心が落ち着きます。そして小説の最後にはこう書かれてあります。

【僕の頭の中で星はきらめき、雪は舞い降りた。僕が最後に覚えているのは、僕がこうしなくてはいけないよと命じる主の物静かな声だった。そして翌日僕はそれを実行した。僕はスックと二人で郵便局に行って、一セント払って葉書を買った。葉書は今僕の手元にある。父は去年亡くなったが、その葉書は彼の貸金庫の中に入っていたのだ。僕はそこにこう書いていた。「とうさんげんきですか、ぼくはげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペタルをこぐれんしゅうをしているので、そのうちそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしています、バディー」】。

バディーのお父さんは女の人からお金を巻き上げて贅沢な生活をするというような人でした。ろくでもない人であったわけですが、しかし彼はバディーが送った葉書を、生涯、大切に大切にしまっておいたのです。6歳のこどもが書いた、「あいしています」という葉書を、大切に大切にしまっておいたのです。たぶんときどき、空を見上げた時、飛行機の形をした自転車のような子どもの乗り物にのって、息子がやってくるような気がしたことだと思います。「とうさんげんきですか、ぼくはげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペタルをこぐれんしゅうをしているので、そのうちそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしています、バディー」。バディーのお父さんにとって大切なものは、自分の息子であるバディーであったのでしょう。しかし彼はバディーを大切にするような生き方をしませんでした。

アドヴェントはイエスさまの誕生を待つときであり、また再臨のキリストを待つときです。アドヴェントは、私たちにとっていったい何が大切なことであるのかということを心に留めるときです。アドヴェントは落ち着いて、自分にとって何が大切なのだろうかと考えてみましょう。そしてできれば、自分が大切だと思うことを、大切にする生き方へと変わっていくことができればと思います。しかし『あるクリスマス』のバディーのお父さんのように、そんなふうに生きることができないかも知れません。

ただ、そんな弱さを抱える人間のために、主イエス・キリストをこの世にやってこれました。だめな私たちの光となるために、愚かな私たちを救ってくださるために、主イエス・キリストは私たちの世にやってきてくださいました。イエス・キリストは病いの人々をいやされ、嘆き悲しむ人と共に涙を流されました。イエス・キリストは、友なき者の友となられ、私たちのために十字架についてくださいました。だからこそ、私たちはイエスさまのことが大切で大切でたまらないのです。

アドベントは私たちの大切な大切なイエスさまを待ち望みながら過ごすときです。私たちを救うためにきてくださるイエスさまを待ち望みながら、クリスマスの準備をいたしましょう。


(2025年11月30日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週)


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