2025年12月19日金曜日

12月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「クリスマス、小さき私たちのために」 

「クリスマス、小さき私たちのために」

聖書箇所 ルカ2章1-7節。261/264。

日時場所 2025年12月21日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式


クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

平安教会は12月10日に教会創立149周年を迎えました。そして来年、教会創立150周年を迎えます。平安教会ではいま、建物の改修に取り組んでいます。大屋根や外壁、また階下室のトイレも改装され、こうしてクリスマスを迎えることができ、とてもうれしく思います。新年からはこの礼拝堂などの改装が行われることになります。また覚えてお祈りくださればと思います。

詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。

【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


赤ちゃんが生まれると、「この子に会えてよかった」と思います。こどもさんやお孫さんが生れると、「この子に会えてよかった」と思うだろうと思います。そのような愛のなかに私たちは生れてきているわけですが、でも大きくなると、「わたしは何のために生れてきたのだろう」という孤独感をもつときも出てきます。だれもわたしに関心があるとは思えない。わたしなんかいてもいなくても同じではないか。そのようなさみしい気持ちになることもあります。日常生活を送っていると、いろいろなつまらない出来事やこころがふさぎ込んでしまうような出来事に出会い、前向きに物事を考えることができないときというのがあります。そんなとき、この「あいたくて」という詩を読むと、元気が出るような気がします。


【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。赤ちゃんに会うとうれしく思うのは、赤ちゃんが「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えるからです。だから赤ちゃんに会うと、元気がでます。赤ちゃんは話さないですから、「いやちがうよ」とは言いません。「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えた息子や娘も、大きくなると、どうやらそういうことでもないような気がしてきます。でもそれはそれでいいと思えます。息子や娘が結婚でもすれば、「ああ、この人にあうために生れてきたのね」と思えて、うれしく思うこともあるでしょう。さみしくもあり、うれしくもあるのです。

娘や息子、あるいは近所の赤ちゃんはそうであるわけですけれども、ただひとりの赤ちゃんだけはそうではない赤ちゃんがおられます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてきてくださったのです。クリスマスは、このだたひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは私たちにあうために生れてこられたのです。「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。

今日の聖書の箇所は、「イエスの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−3節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った】。

歴史的にはローマ皇帝アウグストゥスが統治していた時代(紀元前27−紀元14年)に、全国的な住民登録があったという記録はないと言われています。キリニウスがシリアの総督であったときにパレスチナで住民登録がありましたが、それは紀元6年頃のことだと言われています。ルカによる福音書の著者は、イエスさまがお生まれになられたということを、政治的、歴史的に位置づけるために、このように記しています。私たちが政治や歴史と無関係に生きているのではないのと同じように、イエスさまもまた一人の民として、世の中の出来事に引きづりまわされながら生きておられたということです。ローマ皇帝が「こうする」と決めれば、そのようにせざるをえないのです。【人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立】つしかないのです。どんな個人的な事情があろうと、そうするしかないのです。

ルカによる福音書2章4−5節にはこうあります。【ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである】。

ヨセフもマリアも、他の人々と同じように、住民登録を行うしかありませんでした。ヨセフもマリアも、【登録するためにおのおの自分の町へ旅立】ちます。ただふつうの人々と違うのは、マリアは身ごもっていたということです。身ごもっていながらの旅であるのです。旅といっても、いまの時代のような旅ではないのです。「新幹線にのってビューッと快適に」、「タクシーに乗り換えて、到着」という旅ではないのです。歩いたり、ロバや馬にのっての旅であるのです。身重のマリアにはつらい旅なのです。

ルカによる福音書2章6ー7節にはこうあります。【ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】。

旅の途中で、マリアは初めの子を産みました。よく知っている自分の町ではなく、旅先でマリアは初めての子を産んだのです。それがイエスさまでした。マリアとヨセフはイエスさまを布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。飼い葉桶というのは、牛や馬などの家畜に餌をあげるための桶のことです。マリアとヨセフは宿屋に泊まることができませんでした。宿屋に泊まることができず、牛や馬とともに家畜小屋に泊まり、マリアはイエスさまを産み、そしてイエスさまは飼い葉桶の中に寝かせられました。

【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】【布にくるんで飼い葉桶に寝かせた】。そのように聞くと、とてもイエスさまがかわいそうな気がいたします。神殿や王宮とまではいかなくても、もうすこしいいところでお生まれになってくださればよかったと思います。しかしイエスさまが馬小屋でお生まれになられるのは、神さまの御心なのです。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。イエスさまは居場所がない者として、この世にお生まれになられました。それは神さまの御子、救い主が、小さき者の友として、私たちの世に来られたということでした。

イエスさまは小さき私たちのために、この世にお生まれになられました。りっぱであるわけでもなく、よいことをしているわけでもない。思い上がった気持ちをもったり、また人を傷つけたりすることもある、弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。自分の弱さをなげき、さみしい思いをもったり、自分のことを恥ずかしく思ったりする弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。

御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。

そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。


【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いをあらわしたいと思います。手の中にしっかりと握りしめて生れてきた、みえないことづけを、イエスさまにお渡ししたいと思います。

小さな私たちのためにお生まれになったイエスさまに感謝いたしましょう。そしてクリスマス、大きな喜びをもって、イエスさま、神さまをほめたたえましょう。


(2025年12月19日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式)


2025年12月10日水曜日

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 


               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

              《聖母子(アルベルティーニの聖母)》


「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」

 

聖書箇所 ヨハネ1章1-5節。242/269。

日時場所 2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3


アドヴェントも第三週に入りました。

教会の建物改修も進み、外の足場も取り除かれ、大屋根が外壁もきれいに修復がなされています。来年になりますと、礼拝堂の改修が行われます。クリスマスはこの礼拝堂で行われ、1月4日の礼拝のあとは、下の集会室で礼拝が行われることになります。いろいろとご不便をおかけすることと思いますが、ご協力、よろしくお願いいたします。

クリスマスが近づいていますが、みなさんはどのように過ごされていますか。わたしは明日、クリスマスのプレゼントを買いに行きます。

わたしは毎年、クリスマスに見たいDVDというのがあります。なかなかバタバタとして見ることができなかったりもします。ひとつは『素晴らしき哉、人生!』です。定番というのがあって、クリスマス、この映画をみると、こころがあたたかくなりますね。もう一つは『Mr.ビーン3』の「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」。これは見ても、こころはあたたかくはりません。ならないですけど。ちょっとイギリスの下品な冗談もありますが、でも「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」、おもしろいです。こうしたものをじっくりと見るのも、クリスマスにふさわしいですね。クリスマスはクリスマスにふさわしいDVDや小説などを読んで過ごすのがいいと思います。

絵画を見るのもいいかもしれません。ルネサンスの画家に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオという人がいます。ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵を描いています。週報の説教要旨の上のところに、QRコードがあります。そのQRコードを読み込みますと、聖母子(アルベルティーニの聖母)が出てきます。以前の説教などもこのQRコードから読むことができますので、またご利用くださればと思います。

「聖母子」という絵ですから、マリアさんに抱かれたイエスさまの絵です。この絵のイエスさまの右手は、だらんとなっています。ちょっと態度の悪い赤ちゃんのようにも思えますが、この「だらん」となっている手には意味があるそうです。わたしには態度の悪い赤ちゃんにしか見えない絵の中に大切な意味があるということですから、絵画というのはなかなか奥深いものだなあと思います。この「だらん」となっているイエスさまの右手というのは、イエスさまの死を表しています。十字架につけられて死なれたイエスさまを、マリアさんが抱いている絵というのは、「ピエタ」と言われます。その場合、イエスさまは成人されている大人であるわけです。成人のイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「ピエタ」で、赤ちゃんのイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「聖母子」であるわけです。

このティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵は、「聖母子」を描きながら、イエスさまの死を暗示させるために、イエスさまの右手が死んだ人のように「だらん」となっています。御子イエス・キリストが私たちの世に来てくださったのは、私たちのために十字架についてくださるためだからです。ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》は、イエスさまのご降誕のお祝いの絵でありながら、イエスさまの十字架の死を同時に、私たちに伝える絵であるのです。

今日の聖書の箇所は「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまがお生まれになられたときのお話は、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあります。マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあることを合わせて、幼稚園や教会学校でもたれるクリスマスの劇は作られています。マルコによる福音書にはイエスさまがお生まれになられたときのことは書かれてありません。ヨハネによる福音書には、マタイによる福音書やルカによる福音書のように、イエスさまがお生まれになられたときのお話は書かれていませんが、しかしイエスさまがお生まれになられたことの意味について書かれてあります。それが今日の聖書の箇所です。

ヨハネによる福音書1章1ー3節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった】。【初めに言があった】とあります。この「言」というのは、何であるのかということですが、ヨハネによる福音書1章を読み進めていきますと、この「言」がイエス・キリストを表しているということがわかります。ヨハネによる福音書1章14節にはこうあります。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた】。「言」というのは、イエスさまのことであることがわかります。イエス・キリストは私たちの世に来てくださり、人間となられた。肉体をもたれ、私たちと同じように、この世にお生まれになられた。神さまの御子であるイエス・キリストは、神さまの大切な大切な独り子であり、神さまからの栄光を受け、恵みと真理とに満ちておられる方である。そのように告げられています。

ヨハネによる福音書1章4−5節にはこうあります。【言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ヨハネによる福音書は、イエスさまのことを、言・命・光といったとても象徴的なもので描いています。イエス・キリストは命の源である。イエス・キリストは人間を照らす光である。イエス・キリストはどんなときも光として、暗闇の中で輝いている。しかし暗闇の世は、光であるイエス・キリストのことを理解しなかった。暗闇の世は、イエス・キリストを理解しなかった。

ヨハネによる福音書の今日の聖書の箇所は、イエスさまが私たちの世にきてくださったその理由について書き記しています。イエス・キリストは神さまの御子であり、神さまの独り子であったが、私たちのためにこの世にお生まれになられた。それは私たちの世が暗闇の世であり、神さまのみ旨に反した世の中であるからである。暗闇の世は、私たち人間の罪が作り出した悪しき世の中である。どろどろとした邪な思いを抱え、苦しみ私たちのために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださり、私たちの罪をあがなってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために、私たちを代表して、神さまの前に罪を贖ってくださった。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまによって救われた。イエス・キリストは暗闇の世に生きる私たちの光であり、私たちの救い主である。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

《聖母子(アルベルティーニの聖母)》を描いた、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、「聖母子」という絵で、イエスさまのご降誕を描きがら、イエスさまの死を暗示させました。イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために、私たちの世にお生まれになられました。

クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、日本のいろいろなところでなされる問いです。クリスマスのとき、街角でテレビのアナウンサーが、聞いて回るというようなこともあるような問いです。「クリスマスは、サンタクロースの誕生日です」と答えるような人もいるかも知れません。昔、twitterを見ていますと、クリスマスのショーウインドウの飾り付けに、十字架にかかっているサンタクロースの写真がのっていました。勘違いなのか、前衛的なのか、よくわからないですが、なかなかの迫力でした。実際にみたら、びっくりするだろうなあと思いました。

「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、よくなされます。でもクリスマスの意味についての問いというのは、私たちクリスチャン以外の人が問うということは、あまりないことだと思います。イエス・キリストがこの世に来られたのには意味があるのです。私たちの罪をあがなうために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださったのです。私たちクリスチャンは、クリスマスのとき、このことをしっかりと受けとめたいと思います。

先週の金曜日に、「外国人との共生をめざず 関西キリスト教代表者会議 関西キリスト教連絡協議会 結成40周年記念」のお祝いの会に、京都教区を代表して出席をしてきました。外国人との共生をめざず関西キリスト教代表者会議というのは、もともと外国人登録法に反対をしてできたキリスト教の代表者の会議です。1985年、全国のキリスト教会は、指紋押捺制度の廃止を求めて、外国人登録法に反対をしていました。わたしが学生の時でしたので、わたしもときどき外国人登録法に反対する学習会などに出席をしていました。それから40年がたちました。40年間ずっとこのことに取り組んでこられた在日朝鮮人の方は、「日本人ファースト」という言葉が飛び交う、いまの日本の現状を危惧しておられました。「在日朝鮮人の立場からすると、『この40年間、日本人ファーストでなかったことがありましたか』と言わずにはいられない」とお話くださいました。

人間の心の闇が広がってくると、かならず排外主義的な主張が、世の中に拡がってきます。そして争いの雰囲気が広がり、世界が不幸な道へと歩み始めていきます。いま、私たちの世界はどうでしょうか。日本だけでなく、いろいろな地域で排外主義的な雰囲気が広がってきています。それは人が自分の心の闇に静かに目を向けることが少なくなってきているからです。こころ静かに、自分のことを顧みる時に、私たちは神さまの深いあわれみを知ることができます。そして私たちは自分が神さまから愛されている大切な人間であることを知ることができます。そしてまた自分がそうであるように、わたしの隣人も同じように神さまから愛されている大切な人間であることに気づきます。

「光は暗闇の中で輝いている」と、今日の聖書の箇所にはありました。ヨハネによる福音書は、御子イエス・キリストは世の光であると告げています。私たちの世の中がどんなに暗くとも、イエス・キリストは暗闇の中で輝いておられる。どんなに私たちの世が暗闇を抱えていても、イエス・キリストはその暗闇を打ち砕き、そして神さまの大きな祝福を、私たちにもたらしてくださる。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

暗闇の中で輝く光であるイエス・キリストがおられます。イエス・キリストは私たちに勇気を与え、私たちの希望の光となって、私たちに先立って進んでくださっています。



(2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3)

12月7日平安教会礼拝説教要旨(大澤宣牧師)「かけがえのない命」

「かけがえのない命」

1コリント12:14~26

東神戸教会 大澤宣牧師

 平安教会創立149周年を心よりお慶び申し上げます。歴史を導いてくださった神様の御名を讃美いたします。そして、この歴史は、今日お集まりの皆様、そして、今日はここにおられない皆様が、主の導きに応えて編みだしてこられたものであることをおぼえさせられます。多くの方たちがこの教会に連なられ、歩んでこられたことを思います。そして、多くの先達たちが、今は天に召されて、主の栄光をたたえている群れに加えられていることを思います。私たちは、この先達たちと目には見えないつながりを与えられ、今も共にあることを覚えたいと思います。

 灰谷健次郎さんが書かれた『わたしの出会った子どもたち』という本の中に麻理ちゃんという女の子のことが書かれています。麻理ちゃんは、筋肉がマヒしていくという、体の不自由さをもっている女の子でした。笑っているのか、怒っているのか、ふだんから接している人でないと、表情を読み取ることができません。この麻理ちゃんに冷たい言葉を発する人がいました。灰谷健次郎さんは、その言葉をひどい言葉だと思いながらも、堂々と反論することができなかったのでした。

 何かが上手に出来ること、速くできること、力が強いこと、そういうことばかりに心が向いていると、見落としてしまうものがあるのではないかと思います。そして、人を切り捨ててしまうことになってしまうことを思わされます。速さや強さや効率の良さだけに目を奪われて、命を慈しむ心、人間としての優しさ、人間らしささえも失ってしまうことを思わされます。

 聖書の言葉は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

 わたしたちはそれぞれの課題を抱え、重荷を抱えているものです。心細い思いをし、不安を感じつつ歩むものです。しかし、私たちの主イエス・キリストの言葉を携えて歩むことをゆるされている。その歩みは希望を持って進むことのできる道なのです。

 平安教会の皆様が、教会の大きなご計画を持たれ、希望をもって進もうとしておられることと思います。おひとりお一人の信仰の歩みの中に、課題があり、悩みがおありのことと思います。しかし、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。どのようなときにも、希望を持つことがゆるされています。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべてのことに感謝すること。その歩みをすすめてまいりたいと思います。


1月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「汚れた霊が逃げていく」

「汚れた霊が逃げていく」 聖書箇所 マルコ1:21-28。3/520。 日時場所 2024年3月16日平安教会朝礼拝式       8年ほど前に、大阪教区の委員として、韓国基督長老会京畿南老會との交流についての打ち合わせの会で、韓国のソウルの警察庁人権保護センターというところを訪...