「クリスマス、小さき私たちのために」
聖書箇所 ルカ2章1-7節。261/264。
日時場所 2025年12月21日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式
クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。
平安教会は12月10日に教会創立149周年を迎えました。そして来年、教会創立150周年を迎えます。平安教会ではいま、建物の改修に取り組んでいます。大屋根や外壁、また階下室のトイレも改装され、こうしてクリスマスを迎えることができ、とてもうれしく思います。新年からはこの礼拝堂などの改装が行われることになります。また覚えてお祈りくださればと思います。
詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。
【だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生れてきたー
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて】
赤ちゃんが生まれると、「この子に会えてよかった」と思います。こどもさんやお孫さんが生れると、「この子に会えてよかった」と思うだろうと思います。そのような愛のなかに私たちは生れてきているわけですが、でも大きくなると、「わたしは何のために生れてきたのだろう」という孤独感をもつときも出てきます。だれもわたしに関心があるとは思えない。わたしなんかいてもいなくても同じではないか。そのようなさみしい気持ちになることもあります。日常生活を送っていると、いろいろなつまらない出来事やこころがふさぎ込んでしまうような出来事に出会い、前向きに物事を考えることができないときというのがあります。そんなとき、この「あいたくて」という詩を読むと、元気が出るような気がします。
【だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生れてきたー
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて】
わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。赤ちゃんに会うとうれしく思うのは、赤ちゃんが「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えるからです。だから赤ちゃんに会うと、元気がでます。赤ちゃんは話さないですから、「いやちがうよ」とは言いません。「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えた息子や娘も、大きくなると、どうやらそういうことでもないような気がしてきます。でもそれはそれでいいと思えます。息子や娘が結婚でもすれば、「ああ、この人にあうために生れてきたのね」と思えて、うれしく思うこともあるでしょう。さみしくもあり、うれしくもあるのです。
娘や息子、あるいは近所の赤ちゃんはそうであるわけですけれども、ただひとりの赤ちゃんだけはそうではない赤ちゃんがおられます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてきてくださったのです。クリスマスは、このだたひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは私たちにあうために生れてこられたのです。「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。
今日の聖書の箇所は、「イエスの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−3節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った】。
歴史的にはローマ皇帝アウグストゥスが統治していた時代(紀元前27−紀元14年)に、全国的な住民登録があったという記録はないと言われています。キリニウスがシリアの総督であったときにパレスチナで住民登録がありましたが、それは紀元6年頃のことだと言われています。ルカによる福音書の著者は、イエスさまがお生まれになられたということを、政治的、歴史的に位置づけるために、このように記しています。私たちが政治や歴史と無関係に生きているのではないのと同じように、イエスさまもまた一人の民として、世の中の出来事に引きづりまわされながら生きておられたということです。ローマ皇帝が「こうする」と決めれば、そのようにせざるをえないのです。【人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立】つしかないのです。どんな個人的な事情があろうと、そうするしかないのです。
ルカによる福音書2章4−5節にはこうあります。【ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである】。
ヨセフもマリアも、他の人々と同じように、住民登録を行うしかありませんでした。ヨセフもマリアも、【登録するためにおのおの自分の町へ旅立】ちます。ただふつうの人々と違うのは、マリアは身ごもっていたということです。身ごもっていながらの旅であるのです。旅といっても、いまの時代のような旅ではないのです。「新幹線にのってビューッと快適に」、「タクシーに乗り換えて、到着」という旅ではないのです。歩いたり、ロバや馬にのっての旅であるのです。身重のマリアにはつらい旅なのです。
ルカによる福音書2章6ー7節にはこうあります。【ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】。
旅の途中で、マリアは初めの子を産みました。よく知っている自分の町ではなく、旅先でマリアは初めての子を産んだのです。それがイエスさまでした。マリアとヨセフはイエスさまを布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。飼い葉桶というのは、牛や馬などの家畜に餌をあげるための桶のことです。マリアとヨセフは宿屋に泊まることができませんでした。宿屋に泊まることができず、牛や馬とともに家畜小屋に泊まり、マリアはイエスさまを産み、そしてイエスさまは飼い葉桶の中に寝かせられました。
【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】【布にくるんで飼い葉桶に寝かせた】。そのように聞くと、とてもイエスさまがかわいそうな気がいたします。神殿や王宮とまではいかなくても、もうすこしいいところでお生まれになってくださればよかったと思います。しかしイエスさまが馬小屋でお生まれになられるのは、神さまの御心なのです。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。イエスさまは居場所がない者として、この世にお生まれになられました。それは神さまの御子、救い主が、小さき者の友として、私たちの世に来られたということでした。
イエスさまは小さき私たちのために、この世にお生まれになられました。りっぱであるわけでもなく、よいことをしているわけでもない。思い上がった気持ちをもったり、また人を傷つけたりすることもある、弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。自分の弱さをなげき、さみしい思いをもったり、自分のことを恥ずかしく思ったりする弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。
御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。
そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。
【だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生れてきたー
そんな気がするのだけれど
それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている
それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ
だから
あいたくて】
「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いをあらわしたいと思います。手の中にしっかりと握りしめて生れてきた、みえないことづけを、イエスさまにお渡ししたいと思います。
小さな私たちのためにお生まれになったイエスさまに感謝いたしましょう。そしてクリスマス、大きな喜びをもって、イエスさま、神さまをほめたたえましょう。
(2025年12月19日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式)
0 件のコメント:
コメントを投稿