ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
《聖母子(アルベルティーニの聖母)》
「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」
聖書箇所 ヨハネ1章1-5節。242/269。
日時場所 2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3
アドヴェントも第三週に入りました。
教会の建物改修も進み、外の足場も取り除かれ、大屋根が外壁もきれいに修復がなされています。来年になりますと、礼拝堂の改修が行われます。クリスマスはこの礼拝堂で行われ、1月4日の礼拝のあとは、下の集会室で礼拝が行われることになります。いろいろとご不便をおかけすることと思いますが、ご協力、よろしくお願いいたします。
クリスマスが近づいていますが、みなさんはどのように過ごされていますか。わたしは明日、クリスマスのプレゼントを買いに行きます。
わたしは毎年、クリスマスに見たいDVDというのがあります。なかなかバタバタとして見ることができなかったりもします。ひとつは『素晴らしき哉、人生!』です。定番というのがあって、クリスマス、この映画をみると、こころがあたたかくなりますね。もう一つは『Mr.ビーン3』の「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」。これは見ても、こころはあたたかくはりません。ならないですけど。ちょっとイギリスの下品な冗談もありますが、でも「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」、おもしろいです。こうしたものをじっくりと見るのも、クリスマスにふさわしいですね。クリスマスはクリスマスにふさわしいDVDや小説などを読んで過ごすのがいいと思います。
絵画を見るのもいいかもしれません。ルネサンスの画家に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオという人がいます。ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵を描いています。週報の説教要旨の上のところに、QRコードがあります。そのQRコードを読み込みますと、聖母子(アルベルティーニの聖母)が出てきます。以前の説教などもこのQRコードから読むことができますので、またご利用くださればと思います。
「聖母子」という絵ですから、マリアさんに抱かれたイエスさまの絵です。この絵のイエスさまの右手は、だらんとなっています。ちょっと態度の悪い赤ちゃんのようにも思えますが、この「だらん」となっている手には意味があるそうです。わたしには態度の悪い赤ちゃんにしか見えない絵の中に大切な意味があるということですから、絵画というのはなかなか奥深いものだなあと思います。この「だらん」となっているイエスさまの右手というのは、イエスさまの死を表しています。十字架につけられて死なれたイエスさまを、マリアさんが抱いている絵というのは、「ピエタ」と言われます。その場合、イエスさまは成人されている大人であるわけです。成人のイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「ピエタ」で、赤ちゃんのイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「聖母子」であるわけです。
このティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵は、「聖母子」を描きながら、イエスさまの死を暗示させるために、イエスさまの右手が死んだ人のように「だらん」となっています。御子イエス・キリストが私たちの世に来てくださったのは、私たちのために十字架についてくださるためだからです。ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》は、イエスさまのご降誕のお祝いの絵でありながら、イエスさまの十字架の死を同時に、私たちに伝える絵であるのです。
今日の聖書の箇所は「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまがお生まれになられたときのお話は、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあります。マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあることを合わせて、幼稚園や教会学校でもたれるクリスマスの劇は作られています。マルコによる福音書にはイエスさまがお生まれになられたときのことは書かれてありません。ヨハネによる福音書には、マタイによる福音書やルカによる福音書のように、イエスさまがお生まれになられたときのお話は書かれていませんが、しかしイエスさまがお生まれになられたことの意味について書かれてあります。それが今日の聖書の箇所です。
ヨハネによる福音書1章1ー3節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった】。【初めに言があった】とあります。この「言」というのは、何であるのかということですが、ヨハネによる福音書1章を読み進めていきますと、この「言」がイエス・キリストを表しているということがわかります。ヨハネによる福音書1章14節にはこうあります。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた】。「言」というのは、イエスさまのことであることがわかります。イエス・キリストは私たちの世に来てくださり、人間となられた。肉体をもたれ、私たちと同じように、この世にお生まれになられた。神さまの御子であるイエス・キリストは、神さまの大切な大切な独り子であり、神さまからの栄光を受け、恵みと真理とに満ちておられる方である。そのように告げられています。
ヨハネによる福音書1章4−5節にはこうあります。【言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ヨハネによる福音書は、イエスさまのことを、言・命・光といったとても象徴的なもので描いています。イエス・キリストは命の源である。イエス・キリストは人間を照らす光である。イエス・キリストはどんなときも光として、暗闇の中で輝いている。しかし暗闇の世は、光であるイエス・キリストのことを理解しなかった。暗闇の世は、イエス・キリストを理解しなかった。
ヨハネによる福音書の今日の聖書の箇所は、イエスさまが私たちの世にきてくださったその理由について書き記しています。イエス・キリストは神さまの御子であり、神さまの独り子であったが、私たちのためにこの世にお生まれになられた。それは私たちの世が暗闇の世であり、神さまのみ旨に反した世の中であるからである。暗闇の世は、私たち人間の罪が作り出した悪しき世の中である。どろどろとした邪な思いを抱え、苦しみ私たちのために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださり、私たちの罪をあがなってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために、私たちを代表して、神さまの前に罪を贖ってくださった。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまによって救われた。イエス・キリストは暗闇の世に生きる私たちの光であり、私たちの救い主である。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。
《聖母子(アルベルティーニの聖母)》を描いた、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、「聖母子」という絵で、イエスさまのご降誕を描きがら、イエスさまの死を暗示させました。イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために、私たちの世にお生まれになられました。
クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、日本のいろいろなところでなされる問いです。クリスマスのとき、街角でテレビのアナウンサーが、聞いて回るというようなこともあるような問いです。「クリスマスは、サンタクロースの誕生日です」と答えるような人もいるかも知れません。昔、twitterを見ていますと、クリスマスのショーウインドウの飾り付けに、十字架にかかっているサンタクロースの写真がのっていました。勘違いなのか、前衛的なのか、よくわからないですが、なかなかの迫力でした。実際にみたら、びっくりするだろうなあと思いました。
「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、よくなされます。でもクリスマスの意味についての問いというのは、私たちクリスチャン以外の人が問うということは、あまりないことだと思います。イエス・キリストがこの世に来られたのには意味があるのです。私たちの罪をあがなうために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださったのです。私たちクリスチャンは、クリスマスのとき、このことをしっかりと受けとめたいと思います。
先週の金曜日に、「外国人との共生をめざず 関西キリスト教代表者会議 関西キリスト教連絡協議会 結成40周年記念」のお祝いの会に、京都教区を代表して出席をしてきました。外国人との共生をめざず関西キリスト教代表者会議というのは、もともと外国人登録法に反対をしてできたキリスト教の代表者の会議です。1985年、全国のキリスト教会は、指紋押捺制度の廃止を求めて、外国人登録法に反対をしていました。わたしが学生の時でしたので、わたしもときどき外国人登録法に反対する学習会などに出席をしていました。それから40年がたちました。40年間ずっとこのことに取り組んでこられた在日朝鮮人の方は、「日本人ファースト」という言葉が飛び交う、いまの日本の現状を危惧しておられました。「在日朝鮮人の立場からすると、『この40年間、日本人ファーストでなかったことがありましたか』と言わずにはいられない」とお話くださいました。
人間の心の闇が広がってくると、かならず排外主義的な主張が、世の中に拡がってきます。そして争いの雰囲気が広がり、世界が不幸な道へと歩み始めていきます。いま、私たちの世界はどうでしょうか。日本だけでなく、いろいろな地域で排外主義的な雰囲気が広がってきています。それは人が自分の心の闇に静かに目を向けることが少なくなってきているからです。こころ静かに、自分のことを顧みる時に、私たちは神さまの深いあわれみを知ることができます。そして私たちは自分が神さまから愛されている大切な人間であることを知ることができます。そしてまた自分がそうであるように、わたしの隣人も同じように神さまから愛されている大切な人間であることに気づきます。
「光は暗闇の中で輝いている」と、今日の聖書の箇所にはありました。ヨハネによる福音書は、御子イエス・キリストは世の光であると告げています。私たちの世の中がどんなに暗くとも、イエス・キリストは暗闇の中で輝いておられる。どんなに私たちの世が暗闇を抱えていても、イエス・キリストはその暗闇を打ち砕き、そして神さまの大きな祝福を、私たちにもたらしてくださる。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。
暗闇の中で輝く光であるイエス・キリストがおられます。イエス・キリストは私たちに勇気を与え、私たちの希望の光となって、私たちに先立って進んでくださっています。
(2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3)
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