「凛としてあきらめない」
聖書箇所 マルコ3:20-27。294/516。
日時場所 2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2
ロシアがウクライナを攻撃を始めて、4年の月日がたっています。イスラエルがパレスチナのハマスと戦争を始めたり、最近ではパキスタンとアフガニスタンの戦争がニュースで流れていました。いろいろなところで、いままでとは違った世界になってしまったなあと思わされます。
2026年1月3日にアメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こして、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を拘束し、アメリカへ連行するということが起こりました。ベネズエラの政権はアメリカにとって好ましい政権ではないですし、マドゥロ大統領も独裁的な国家運営をしていました。しかしこんなに突然、アメリカが他国に軍事行動をしかけて、その国の大統領を拘束・連行するということに、わたしはとても驚きました。アメリカが自分にとって好ましくない政権について、いろいろな手段を使って政府の転覆工作を行ったりするというようなことは、いままでもありました。ですからベネズエラに対して転覆工作を行なうということは、アメリカはそういうことする国だなあと思っていましたので、その点はあまり驚くことはないのです。でも他国の大統領を拘束し、連行するという手法には、戸惑いを覚えました。
そして戸惑いと同時に、とてもいやな気持ちになりました。それはアメリカが悪いとか、トランプ大統領が悪いというようなことではなく、自分自身のこころのなかの問題として、とてもいやな気持ちになったのです。わたしのこころの中の罪の問題というようなことです。
人は「この人がいなくなれば、世界が良くなるのではないか」「この人がいなくなれば、この戦争は終わるのではないか」というようなことを考えたりするようなときがあります。A大統領がいなくなれば、B戦争は終わるのではないかとか、C大統領がいなくなれば、D戦争が終わるのではないかと考えるわけです。世界でいろいろな戦争が行なわれているとき、「○○大統領がいなくなれば」というような思いに、わたし自身もなるときがあります。第二次世界大戦のときに、「アドルフ・ヒトラーがいなくなれば、戦争が終わるのではないか」と思い、ヒトラーの暗殺計画に加わったドイツの牧師がいました。ディートリヒ・ボンヘッファー牧師です。
「○○大統領がいなくなれば」。わたしは頭のなかでそのようなことを考えていたのですが、しかしアメリカのトランプ大統領は実際にそのことを行いました。「○○大統領がいなくなれば」ということで、ベネズエラのマドゥロ大統領を武力で持って取り除いたわけです。わたしが頭のなかで考えていた手法が、実際に行なわれたのをみたときに、なんともいやな気持ちがしました。「ああ、やっぱりこれはだめなことなのだ」と思いました。
不法な手段によって物事を解決するというのは、やはりよくないことです。そうしたことを許せば、世界中でそうしたことが行なわれるようになり、どんどんと世界は混乱していきます。「この人がいなくなれば」というのは、やはり倫理的に問題がある考え方なのだと思いました。ですから「○○大統領が心から悔い改めて、良き人となりますように」ということを願いたいと思います。
今日の聖書の箇所は、「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。ベルゼブルというのは「悪霊の頭」であり、まあサタンということです。マルコによる福音書3章20−21節にはこうあります。【イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。】。
イエスさまは人々に神さまの愛を伝えておられました。そして病の人々をいやしておられました。イエスさまの話を聞きたいということで、多くの人々がイエスさまのところにやってきていました。「食事をする暇もない」というくらいに、イエスさまは人気があったわけです。しかしイエスさまの家族や親戚の人々にとっては、イエスさまはちょっとやっかいな人に見えました。ユダヤの指導者を批判したり、律法学者たちやファリサイ派の人々と論争をしたりしているからです。「なんかイエスが面倒をおこしそう」ということで、身内の人たちはイエスさまを取り押さえにやってきます。ユダヤの指導者に逆らうなんて、「あの男は気が変になっている」というふうに、イエスさまは見られていました。
マルコによる福音書3章22節にはこうあります。【エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。】。
エルサレムはユダヤの中心の町ですので、エルサレムから下って来た律法学者たちというのは、特別に偉いと言われている人たちということです。律法学者たちはイエスさまのことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言いました。「イエスはいやしのわざを行なっているけれども、それは悪霊の頭であるサタンの力で行なっているのだ。あいつは悪霊に取りつかれている」。そのようにイエスさまのことを言っていました。
マルコによる福音書3章23−27節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。】。
イエスさまは律法学者たちにたとえをもちいて反論をされました。国が内輪で争えば、その国は成り立たないし、家が内輪で争えば、その家は成り立たない。悪魔たちも内輪で争えば、悪魔たちも成り立たない。だからサタンがサタンを追い出すというようなことは成り立たない。強盗が家に押し入るときも、その家の強い人を縛り上げることができなければ、強盗の仕事をすることができない。悪霊をやっつけるのであれば、やはりサタンに打ち勝つ力がある人でなければ、悪霊をやっつけることはできないのだ。「だからわたしはサタン、悪霊の頭ベルゼブルではない」と、イエスさまは言われました。
でもまあ国が内輪で争うことはよくありますし、家が内輪で争うこともよくあります。内戦で国が成り立っていない国はいくつもありますし、家族仲の悪い家族もあります。世界はケンカだらけですし、悪霊が満ちあふれているように思える世界です。そして世界は不安で立ち行かなくなっています。私たちの世界の状態の悪さは、イエスさまの想像を超えていると言えるかも知れません。
それはまあ残念なことではあるわけですが、それでもイエスさまは「悪魔が支配するような社会であったとしても、一定の秩序というようなものがあるのだ」と言われるのです。「サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。立ち行くためにはサタンであっても、「内輪もめして争うのはよくない」という、ある一定の秩序というのが必要であるわけです。
私たちクリスチャンは神さまの前に良き生き方を求めて歩んでいきたいと思います。律法学者たちは、自分にとって都合の悪い人は、「悪い奴」と決めつけます。そして「あの男は悪霊に取りつかれている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言います。イエスさまは律法学者たちからそのように言われました。またイエスさまは「あの男は気が変になっている」というようなことも言われました。
私たちもまた自分とって都合の悪い人を、あしざまに言ってみたり、また話すことさえできないというような思いになったりします。しかしだれしも、神さまにとって大切な一人であることを思い出したいと思います。落ち着いて、人を信じるという気持ちをもちたいと思います。
悪霊は人を誘惑し、そして人が自分勝手に生きることを望みます。そして悪霊は暴力で持って人を支配させ、人が互いに傷つきあって、悲しみの中に生きることへと導いていきます。うそ、いつわりが広がっていき、正しさや優しさをもつことが愚か者の行ないのようになってしまいます。
悪霊の力はなかなか強いですし、人は誘惑に陥りやすいです。しかしそうした世の中にあっても、私たちは聖霊の力を信じて、神さまの愛に立ち返る生き方をしたいと思います。だれもが神さまからの愛を受けて生きているかけがえのない一人です。互いに尊敬しあい、互いに助けあい、互いに祈りあう。聖霊は私たちを導いてくださり、私たちを良き人へと立ち返らせてくださいます。
「凛としてあきらめない」、そうした私たちの歩みでありたいと思います。神さまの義と平和にみちた世界が来ることを信じて歩んでいきたいと思います。
レント・受難節も第2週を迎えました。自らの歩みを顧みつつ、十字架につけられ、よみがえられたイエス・キリストが私たちの希望となって、私たちを導いてくださることに感謝をして歩んでいきましょう。
(2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2)