2026年2月28日土曜日

3月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「凛としてあきらめない」

「凛としてあきらめない」

聖書箇所 マルコ3:20-27。294/516。

日時場所 2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2


ロシアがウクライナを攻撃を始めて、4年の月日がたっています。イスラエルがパレスチナのハマスと戦争を始めたり、最近ではパキスタンとアフガニスタンの戦争がニュースで流れていました。いろいろなところで、いままでとは違った世界になってしまったなあと思わされます。

2026年1月3日にアメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こして、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を拘束し、アメリカへ連行するということが起こりました。ベネズエラの政権はアメリカにとって好ましい政権ではないですし、マドゥロ大統領も独裁的な国家運営をしていました。しかしこんなに突然、アメリカが他国に軍事行動をしかけて、その国の大統領を拘束・連行するということに、わたしはとても驚きました。アメリカが自分にとって好ましくない政権について、いろいろな手段を使って政府の転覆工作を行ったりするというようなことは、いままでもありました。ですからベネズエラに対して転覆工作を行なうということは、アメリカはそういうことする国だなあと思っていましたので、その点はあまり驚くことはないのです。でも他国の大統領を拘束し、連行するという手法には、戸惑いを覚えました。

そして戸惑いと同時に、とてもいやな気持ちになりました。それはアメリカが悪いとか、トランプ大統領が悪いというようなことではなく、自分自身のこころのなかの問題として、とてもいやな気持ちになったのです。わたしのこころの中の罪の問題というようなことです。

人は「この人がいなくなれば、世界が良くなるのではないか」「この人がいなくなれば、この戦争は終わるのではないか」というようなことを考えたりするようなときがあります。A大統領がいなくなれば、B戦争は終わるのではないかとか、C大統領がいなくなれば、D戦争が終わるのではないかと考えるわけです。世界でいろいろな戦争が行なわれているとき、「○○大統領がいなくなれば」というような思いに、わたし自身もなるときがあります。第二次世界大戦のときに、「アドルフ・ヒトラーがいなくなれば、戦争が終わるのではないか」と思い、ヒトラーの暗殺計画に加わったドイツの牧師がいました。ディートリヒ・ボンヘッファー牧師です。

「○○大統領がいなくなれば」。わたしは頭のなかでそのようなことを考えていたのですが、しかしアメリカのトランプ大統領は実際にそのことを行いました。「○○大統領がいなくなれば」ということで、ベネズエラのマドゥロ大統領を武力で持って取り除いたわけです。わたしが頭のなかで考えていた手法が、実際に行なわれたのをみたときに、なんともいやな気持ちがしました。「ああ、やっぱりこれはだめなことなのだ」と思いました。

不法な手段によって物事を解決するというのは、やはりよくないことです。そうしたことを許せば、世界中でそうしたことが行なわれるようになり、どんどんと世界は混乱していきます。「この人がいなくなれば」というのは、やはり倫理的に問題がある考え方なのだと思いました。ですから「○○大統領が心から悔い改めて、良き人となりますように」ということを願いたいと思います。

今日の聖書の箇所は、「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。ベルゼブルというのは「悪霊の頭」であり、まあサタンということです。マルコによる福音書3章20−21節にはこうあります。【イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。】。

イエスさまは人々に神さまの愛を伝えておられました。そして病の人々をいやしておられました。イエスさまの話を聞きたいということで、多くの人々がイエスさまのところにやってきていました。「食事をする暇もない」というくらいに、イエスさまは人気があったわけです。しかしイエスさまの家族や親戚の人々にとっては、イエスさまはちょっとやっかいな人に見えました。ユダヤの指導者を批判したり、律法学者たちやファリサイ派の人々と論争をしたりしているからです。「なんかイエスが面倒をおこしそう」ということで、身内の人たちはイエスさまを取り押さえにやってきます。ユダヤの指導者に逆らうなんて、「あの男は気が変になっている」というふうに、イエスさまは見られていました。

マルコによる福音書3章22節にはこうあります。【エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。】。

エルサレムはユダヤの中心の町ですので、エルサレムから下って来た律法学者たちというのは、特別に偉いと言われている人たちということです。律法学者たちはイエスさまのことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言いました。「イエスはいやしのわざを行なっているけれども、それは悪霊の頭であるサタンの力で行なっているのだ。あいつは悪霊に取りつかれている」。そのようにイエスさまのことを言っていました。

マルコによる福音書3章23−27節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。】。

イエスさまは律法学者たちにたとえをもちいて反論をされました。国が内輪で争えば、その国は成り立たないし、家が内輪で争えば、その家は成り立たない。悪魔たちも内輪で争えば、悪魔たちも成り立たない。だからサタンがサタンを追い出すというようなことは成り立たない。強盗が家に押し入るときも、その家の強い人を縛り上げることができなければ、強盗の仕事をすることができない。悪霊をやっつけるのであれば、やはりサタンに打ち勝つ力がある人でなければ、悪霊をやっつけることはできないのだ。「だからわたしはサタン、悪霊の頭ベルゼブルではない」と、イエスさまは言われました。

でもまあ国が内輪で争うことはよくありますし、家が内輪で争うこともよくあります。内戦で国が成り立っていない国はいくつもありますし、家族仲の悪い家族もあります。世界はケンカだらけですし、悪霊が満ちあふれているように思える世界です。そして世界は不安で立ち行かなくなっています。私たちの世界の状態の悪さは、イエスさまの想像を超えていると言えるかも知れません。

それはまあ残念なことではあるわけですが、それでもイエスさまは「悪魔が支配するような社会であったとしても、一定の秩序というようなものがあるのだ」と言われるのです。「サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。立ち行くためにはサタンであっても、「内輪もめして争うのはよくない」という、ある一定の秩序というのが必要であるわけです。

私たちクリスチャンは神さまの前に良き生き方を求めて歩んでいきたいと思います。律法学者たちは、自分にとって都合の悪い人は、「悪い奴」と決めつけます。そして「あの男は悪霊に取りつかれている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言います。イエスさまは律法学者たちからそのように言われました。またイエスさまは「あの男は気が変になっている」というようなことも言われました。

私たちもまた自分とって都合の悪い人を、あしざまに言ってみたり、また話すことさえできないというような思いになったりします。しかしだれしも、神さまにとって大切な一人であることを思い出したいと思います。落ち着いて、人を信じるという気持ちをもちたいと思います。

悪霊は人を誘惑し、そして人が自分勝手に生きることを望みます。そして悪霊は暴力で持って人を支配させ、人が互いに傷つきあって、悲しみの中に生きることへと導いていきます。うそ、いつわりが広がっていき、正しさや優しさをもつことが愚か者の行ないのようになってしまいます。

悪霊の力はなかなか強いですし、人は誘惑に陥りやすいです。しかしそうした世の中にあっても、私たちは聖霊の力を信じて、神さまの愛に立ち返る生き方をしたいと思います。だれもが神さまからの愛を受けて生きているかけがえのない一人です。互いに尊敬しあい、互いに助けあい、互いに祈りあう。聖霊は私たちを導いてくださり、私たちを良き人へと立ち返らせてくださいます。

「凛としてあきらめない」、そうした私たちの歩みでありたいと思います。神さまの義と平和にみちた世界が来ることを信じて歩んでいきたいと思います。

レント・受難節も第2週を迎えました。自らの歩みを顧みつつ、十字架につけられ、よみがえられたイエス・キリストが私たちの希望となって、私たちを導いてくださることに感謝をして歩んでいきましょう。



(2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2) 


 


2026年2月21日土曜日

2月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「道を外れることなく栄える」

「道を外れることなく栄える」

聖書箇所 マルコ1:12-15 。512/59。

日時場所 2026年2月25日平安教会朝礼拝式

 

石田梅岩は江戸時代中期の日本の思想家です。京都府亀岡市の生まれです。亀岡市には石田梅岩の記念館があります。去年の9月1日にオープンしました。石田梅岩は京都の商家に奉公に出ます。そして仕事をしながら、儒教や仏教、神道などの学問を独学で勉強をします。「人間の本質とは何だろう」ということについて、石田梅岩は生涯考え続けました。石田梅岩の教えの根幹は、「正直」「勤勉」「倹約」という三つの徳の実践であったと言われています。「人の本当の価値は、生まれや財産、学歴ではなく、その心根の誠実さにある」と説く彼の言葉は、多くの庶民の心をとらえました。彼の教えはとくに商人のなかで受け入れられていきます。

石田梅岩は「道徳と経済の両立」を説いたと言われます。石田梅岩はその著書、『都鄙問答(とひもんどう)』のなかでこう言っています。【商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道にかなって栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである】。

石田梅岩は「正直」「勤勉」「倹約」が大切だと言ったと言われますが、中国の孔子の言葉を引用して、「正直」についてこう言っています。【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】(『斉家論』)。

【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】。「正直」「勤勉」「倹約」。「正直」「勤勉」「倹約」と言われると、なんかちょっとしんどいなあという思いもいたします。でも江戸時代の商人は、石田梅岩の言葉に耳を傾けて、正直に商売をすることの大切さを、こころに刻みました。

石田梅岩は「道徳と経済は両立するものであり、道徳がなければ経済は発展することはないのだ」と言いました。現代の私たちの世の中は、そうした道徳的なあり方が失われ、「法律に書かれていないのであれば、何をしてもかまわないのだ」「それが頭の良い賢い人のすることなのだ」というようなあり方が広がっています。とても残念な気がいたします。石田梅岩はひとのこころの中にあるあさましい思いが、社会を経済的に豊かにするのを妨げていると考えています。道に外れたことをしているから貧しくなっていく。「道を外れることなく栄える」という道筋を整えることが大切だと言うのです。

森田健司『石田梅岩 俊厳なる町人道徳家の孤影』(かもがわ出版)の「序」には、石田梅岩の幼い日の思い出について書かれてあります。石田梅岩が10歳のときの思いです。石田梅岩は山で栗の実を5つ拾ってきて、それを昼食の時に、両親の前に披露します。家族のために石田梅岩が拾ってきたおいしそうな栗です。するとお父さんは石田梅岩に「この栗は、どこで拾ってきた」と尋ねます。梅岩は「お父さんの山と、お隣の山の境界のような場所、だったように思います」と答えます。するとお父さんは「我が家の山に生えている栗の樹で、他山との境に枝が伸びている物は、一つもない。だが、他山に生えている樹の枝で、境界に掛かっている物は、幾つかある。ところで、おまえは我が家の山と他山との境に落ちている栗を拾ったと言ったな」「おまえの拾った栗は、他人の栗だ。我が家の栗では、決してない。断りもなく、他者の物を取ること、それを盗むというのだ」「飯は終わりだ、今すぐ、栗を元あった場所に返してこい」。石田梅岩は生涯この栗の話を忘れず、この話をことあるごとに人々に語ったそうです。そして話した後に、「親の愛とは、かくあるべし」と言ったそうです。

私たちの世の中は誘惑の多い世の中です。サタンの誘惑にさらされています。ですから聖書の中で、イエスさまがサタンの誘惑にあわれた話が出てきます。今日の聖書の個所は「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」という表題のついた聖書の個所です。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そのとき天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との祝福を受けました。そしてそのあと、荒野での誘惑を経験されます。

マルコによる福音書では荒れ野でイエスさまがどのような誘惑をサタンから受けられたのかということは書かれてありません。マタイによる福音書4章(4頁)やルカによる福音書4章(107頁)に書かれてありますので、そちらを参考にされたらよいかと思います。

マタイによる福音書4章では、サタンはお腹を空かせているイエスさまに、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。またサタンは「神の子なら神殿の屋根から飛び降りてみたらどうだ。神さまが助けてくださるだろう」と、イエスさまに神さまを試みてはどうだと誘惑します。そして最後に、「わたしを拝むなら、この世界をくれてやる。どうだ」と、イエスさまを試みます。しかしいえすさまはきっぱりと、「退け、サタン」と言われます。

マルコによる福音書1章12-13節にはこうあります。【それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた】。【野獣と一緒におられた】ということですから、まあ緊張するような状態がずっと続いていたということでしょう。いつ野獣から襲いかかられるかわからないわけです。そのような緊張した状態であったわけですが、【天使たちが仕えていた】とありますように、イエスさまを守ってくれる天使がいたわけです。野獣が襲いかかってくるというときには、天使がイエスさまを守ってくれるのです。

マルコによる福音書1章14-15節にはこうあります。【ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。】。イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、ユダヤの指導者たちを批判していたために捕らえられ、牢獄に入れられてしまいます。そして洗礼者ヨハネのあと、イエスさまがガリラヤで神の福音を宣べ伝えられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

格差社会になってきますと、自分がこんなにひどい状態にあるのは、悪いやつがいるからだというふうに思えます。「共産主義者が悪い」「おんなが悪い」「若者が勝手なことをしているからだ」「老人が優遇されているからだ」。いろいろな人たちが悪者になります。いまは「外国人が悪い」というようなことが言われたりします。アメリカなどではまあ「移民が悪い」と言われて、壁を作ったりしていました。自分たちがひどい状態にあることを、移民のせいにしたりして、なんかひどいことをしているなあと思っていたわけです。しかし日本でも「外国人が悪い」というようなことが言われだし、なんともいやな気がします。人々が「悪い奴がいるに違いない」と思い始める社会は、それは良い社会の状態ではありません。良い社会の状態に変えていかなければならないわけです。できるだけ格差をなくして、みんなが穏やかに過ごすことができる社会を作り出していくことが大切であるわけです。

私たちは人間ですから、野獣の世界に生きていくことはできません。「食うか食われるか。力づくで支配するのが正しいのだ。暴力を使うことなく世の中を収めることができるはずないではないか」。そんなふうに言われると、「ああ、ちょっとわたしの住む世界ではないなあ」と思います。そうした社会は野獣の世界です。人間の世界ではありません。

聖書は、イエスさまはサタンから誘惑を受けられ、そして「その間、野獣と一緒におられた」と記されています。誘惑の多い世界は、野獣が一緒にいる世界です。わたしはよくギャング映画など見ますけれど、ギャングの世界は欲望が多いです。そして野獣がいっぱいいます。ギャングの頭であっても、いつとって変わられるかわかりません。野獣がいっぱいですから、ちょっと油断をすると寝首をかかれます。ですから部下も信用できませんし、親族も信用できませんし、また子どもも信用できません。自分を殺して、ギャングの頭にとって変わるかも知れないからです。イエスさまの時代のヘロデ王は、そんな感じでした。皇帝アウグストゥスは「ヘロデの息子に生まれるよりも、豚に生まれたほうがましだ」と言ったと言われています。ヘロデ王によって保身のために、ヘロデ王の息子は殺されますが、豚は宗教上の理由から殺して食べるということがなかったからです。

誘惑の多い、何をしてもかまわないという世界は、野獣の世界です。イエスさまはサタンの誘惑にあわれたとき、野獣と一緒におられました。しかし聖書はそのあと、「天使が仕えていた」と記しています。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

聖書は野獣の世界に思える世界にあっても、イエスさまがおられる世界は天使が仕えているのだと記しています。イエスさまの時代の人々は自信を失い、不安になりました。どのように生きていけばよいのか、そのことに自信をもてなくなりました。自分勝手に生きたらよいのではないか。みんなそんな感じで生きている。野獣のように生きたらよいのではないのか。そんなとき、イエスさまは人々に神さまの愛のうちに生きていくことの幸いを伝えました。神さまの愛に根ざして生き方をして、愛に満ちた世界のなかで生きていく。神さまに対して恥ずかしくない生き方を求めていく。こそこそと生きていくのではなく、神さまの祝福のもと、胸をはって生きていく。神さまに依り頼んで生きていく。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。こそこそと良心がとがめるようなことをしているあさましい人たちの世界は終わり、神さまの愛と義と平和に満ちた世界がやってくる。私たちにはそうした世界に生きていく幸いがそなえられている。悔い改めて、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまはそのように呼びかけられ、私たちを招いておられます。

2月18日(水)に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。イエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちのこころのなかの邪な思いを、イエスさまは打ち砕いてくださり、私たちを神さまの愛のうちに導いてくださいました。

イエスさまの御苦しみを覚えて、レント・受難節のときを過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある罪に、しっかりと向き合いつつ、神さまの祝福のなかに生かされていますことを、こころから感謝したいと思います。




(2026年2月25日平安教会朝礼拝式) 



2026年2月12日木曜日

2月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「命の種は広がっていく」

「よき仲間に囲まれて」 

聖書箇所 マルコ2:1-12。484/486。

日時場所 2026年2月8日平安教会朝礼拝


ことし京都南部地区の地区長をしていて、京都南部地区の印刷物を印刷したり、郵送したりする作業を行なうことが、何度かありました。韓日合同賛美礼拝のプログラム、新年合同礼拝のプログラム、京都南部地区定期総会の資料など、なかなかたいへんです。以前は多くの人の手を借りてやっておられたようですが、いまは4人くらいの常任委員の方々がそうした作業をしておられます。コロナのときにあまり集まることができなかったので、そうした感じで、いま京都南部地区運営がなされていて、ちょっとどうにかしたほうが良いと思いました。それでも常任委員という仲間がいるので、とても心強いと思えます。

私たちは一緒にいてくれる仲間がいるから、どうにか生きていくことができます。自分ひとりでは、たとえ簡単なことであったとしても、なかなかできなかったりします。たとえば単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。教会総会の資料などを作っているときも、やっぱりひとりでやるより、みんなでやるほうがうれしいわけです。掃除などもひとりでするとなると、なにかとてもたいへんなことのような気がします。しかしみんなでするとそんなに、たいへんに感じないということがあります。ひとりで1キロも歩くということはなかなかおっくうですが、二人で話をしながら歩くと、1キロなどあっという間です。

このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。重い病気を患うということは、だれにとってもたいへんなことです。それ自体ものすごく苦しいことです。ましてだれも支えてくれる人が回りにいないで、ひとりで病気に向き合うということになると、本当に苦しいことだと思います。あきらめてしまって、自暴自棄になってしまうということもあると思います。しかし、だれかが一緒にいて共に歩んでくれるなら、どうにか病気に向き合うことができるのではないかと思います。わたしは35年くらい前に、岡山で伝道師をしているときに、甲状腺機能亢進症という病気で入院しました。病院には多くの人が入院していました。しかし病気で入院している人々は、ひとりで病気に向き合うというのではなく、夫婦や家族で病気に向き合うという感じでした。

今日の聖書の箇所は「中風の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は「よき仲間に囲まれる」ことが、どんなに幸せなことかを感じさせる聖書の箇所です。マルコによる福音書2章1ー2節にはこうあります。【数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると】。

イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。そしてイエスさまはカファルナウムに帰ってこられました。カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ伝道の拠点としておられたところです。当時、人口が5万人ほどあり、ガリラヤ湖畔の中心的な町でした。イエスさまが帰っておられるといううわさを聞きつけて、多くの人々が集まりました。いつものように、イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。しかしあまりに人が多すぎて、イエスさまのところに、近寄ることのできない人が出てきます。

マルコによる福音書2章3ー4節にはこうあります。【四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした】。

大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。

いろいろな注解書には、当時のパレスティナの家について書かれてあり、屋根をはがすことができるような家であることを説明しています。【パレスティナの屋根はテラスのように平らであり、屋根は木の枝などの上に粘土を約30センチの厚さに置いて、固めたものであった。したがって屋根に穴をあけるのは容易であった】とあります。しかし容易であっても、そのようにするのは、やはり普通のことではないのです。まして自分の家の屋根をはぐのではなく、人の家の屋根をはぐのです。それは、どう考えても普通のことではありません。いくら屋根に穴をあけるのは容易であったとしても、床に病人をのせたまま屋根の上から吊り下げるということは、たいへんなことです。それはもう大騒ぎであると思います。人の迷惑顧みずということだと思います。もうなにがなんだかわからないというような状況に、この家はなっていただろうと思います。

しかし、イエスさまはこの状況にどうじることなく、彼らの行動を評価します。マルコによる福音書2章5節には【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。ユダヤ人は、病気やさまざまな不幸はすべて、罪の結果であると思っていました。そしてこのような災いから救われるためには、罪のゆるしを受けることが必要であると信じられていました。この中風の人もそのような信仰をもっていたのだと思います。ですからイエスさまは「あなたの罪はゆるされた」と言われ、中風の人を安心させたのでした。

しかし【子よ、あなたの罪は赦される】というイエスさまの言葉を、快く思わない人々がいました。マルコによる福音書2章6ー7節には【ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」】とあります。

律法学者たちは、中風の人がいやされたことを喜ぶのではなく、イエスさまに罪をゆるす権威があるのかどうかというようなことを気にしています。律法学者がここで語っている、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という言葉は、確かに正しいことです。イエスさまが好んで引用されるイザヤ書には、【わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする】(イザヤ43:25)とあります。神さまこそ、私たちの罪を許してくださる方なのです。

しかし病を担って今まで生きていた人が、いままさにいやされようとしているのです。まさにそのときに、そうした律法や聖書に書かれてあることが気になるというところに、律法学者たちのおかしさがあります。彼らは人々と共に生きていないのです。彼らは生活と掛け離れた議論だけをしているのです。彼らはいやされた人々と共に喜びを分かち合うということがないのです。

マルコによる福音書2章8ー11節にはこうあります。【イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」】。

「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが簡単であるのかと言われると、どちらであるかわからないような気もします。人の罪をゆるすことなどできないから、「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが簡単であるような気もします。

しかしここではやはり「あなたの罪は赦される」と言うほうが、簡単であるということです。それは「あなたの罪は赦される」というのは、別に結果が現れる必要がないからです。罪がゆるされたかどうかなどは、見えるものではありません。ですからなんとでも言えるということです。しかし「起きて、床を担いで歩け」というと、実際にその人が床を取りあげて、歩かなければ、そのように言った人に力がないということが証明されてしまいます。そういう意味で「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが、むつかしいわけです。でもそうした議論も、聖書学的には大切なような気もしますが、たぶん当時の民衆にとってはどうでもよい議論だろうと思います。

ですからイエスさまは「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。そしてイエスさまの力が人々の前に示されることになります。【その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った】。【人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した】となります。ほんとによかったなあと思います。

今日の箇所の中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。

イエスさまに出会う人々には、痛みや苦しみの中で苦闘している人々がたくさんいます。ベトザタの池でイエスさまによっていやされた人など、病を患い、そしてそのうえ病のために人々から疎外され、孤独な生活を強いられている人々がいます。またそのほか、だれからも相手にされず、お金だけをたよりに生きている人であったり、罪の女として人々から蔑まれていた人であったりと、どうしようもない孤独の中で、ひとりさびしく生きていくことを強いられている人々がいます。その人々がイエスさまとの出会いによって救われるのですから、すばらしいことなのです。しかしイエスさまに出会うまでは、本当にさびしい生活を強いられています。今日の聖書の箇所の中風の人は、たしかに病を担ってたいへんな生活であったのですが、孤独ではなかったのです。彼の回りには彼と共に歩んでくれる人々かいました。彼を中心にして助け合い支え合う集まりがあったのです。

今日の聖書の箇所では、イエスさまが中風の人ではなくて、四人の男の人の信仰をほめているので、なんか中風の人がただ連れてこられているような感じがしていやだということが言われたりもします。たしかにマルコによる福音書2章5節には、【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。しかしたぶん四人の男の人たちと、中風の人との関係は、一方的に助けているというような関係ではなかったでしょう。そうでなければ、なにも屋根に穴をあけてまで、イエスさまのところに連れてくるようなことにはならなかっただろうと思います。戸口の辺りがいっぱいで、イエスさまのところに近づくことができないのであれば、もうそこで帰ってしまうでしょう。しかし四人の男たちと中風の人の関係は、そんなに希薄なものではありませんでした。「こいつをイエスさまのところに、絶対に連れていってやる」と思わせるほどの関係が、四人の男たちと中風の人の間にはあったわけです。一方的に助けているのではなくて、共に担いあっているという関係があったのです。

共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。共にいる・支え合うということには、大きないやしが、お互いにあるのです。四人の男たちにとって、中風の人は、多くのものをあたえてくれるかけがえのない友だったのです。

【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】。イエスさまは中風の人を中心にした温かい交わりを、祝福されました。助け合い、支え合う友がいることを、イエスさまは喜ばれました。

ヤコブの手紙5章13-16節には、共に支え合うこと、共に祈りあうことを勧めている聖書の箇所があります。新約聖書の426頁です。【あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします】。

私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。助け合い支え合い、いたわりあう友がたくさんいます。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。そしてともに支え合い、ますますお互いにおぎないあいながら、信仰を深めていきたいと思います。「良き仲間に囲まれて」、神さまの祝福をいっぱい受けて歩みましょう。


(2026年2月8日平安教会朝礼拝)


3月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまがいつも一緒に」

「イエスさまがいつも一緒に」 聖書箇所 マルコ8:27-30。298/484。 日時場所 2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3 周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。こどもが小さなときに、「○○の映画に連れ...