2026年2月21日土曜日

2月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「道を外れることなく栄える」

「道を外れることなく栄える」

聖書箇所 マルコ1:12-15 。512/59。

日時場所 2026年2月25日平安教会朝礼拝式

 

石田梅岩は江戸時代中期の日本の思想家です。京都府亀岡市の生まれです。亀岡市には石田梅岩の記念館があります。去年の9月1日にオープンしました。石田梅岩は京都の商家に奉公に出ます。そして仕事をしながら、儒教や仏教、神道などの学問を独学で勉強をします。「人間の本質とは何だろう」ということについて、石田梅岩は生涯考え続けました。石田梅岩の教えの根幹は、「正直」「勤勉」「倹約」という三つの徳の実践であったと言われています。「人の本当の価値は、生まれや財産、学歴ではなく、その心根の誠実さにある」と説く彼の言葉は、多くの庶民の心をとらえました。彼の教えはとくに商人のなかで受け入れられていきます。

石田梅岩は「道徳と経済の両立」を説いたと言われます。石田梅岩はその著書、『都鄙問答(とひもんどう)』のなかでこう言っています。【商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道にかなって栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである】。

石田梅岩は「正直」「勤勉」「倹約」が大切だと言ったと言われますが、中国の孔子の言葉を引用して、「正直」についてこう言っています。【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】(『斉家論』)。

【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】。「正直」「勤勉」「倹約」。「正直」「勤勉」「倹約」と言われると、なんかちょっとしんどいなあという思いもいたします。でも江戸時代の商人は、石田梅岩の言葉に耳を傾けて、正直に商売をすることの大切さを、こころに刻みました。

石田梅岩は「道徳と経済は両立するものであり、道徳がなければ経済は発展することはないのだ」と言いました。現代の私たちの世の中は、そうした道徳的なあり方が失われ、「法律に書かれていないのであれば、何をしてもかまわないのだ」「それが頭の良い賢い人のすることなのだ」というようなあり方が広がっています。とても残念な気がいたします。石田梅岩はひとのこころの中にあるあさましい思いが、社会を経済的に豊かにするのを妨げていると考えています。道に外れたことをしているから貧しくなっていく。「道を外れることなく栄える」という道筋を整えることが大切だと言うのです。

森田健司『石田梅岩 俊厳なる町人道徳家の孤影』(かもがわ出版)の「序」には、石田梅岩の幼い日の思い出について書かれてあります。石田梅岩が10歳のときの思いです。石田梅岩は山で栗の実を5つ拾ってきて、それを昼食の時に、両親の前に披露します。家族のために石田梅岩が拾ってきたおいしそうな栗です。するとお父さんは石田梅岩に「この栗は、どこで拾ってきた」と尋ねます。梅岩は「お父さんの山と、お隣の山の境界のような場所、だったように思います」と答えます。するとお父さんは「我が家の山に生えている栗の樹で、他山との境に枝が伸びている物は、一つもない。だが、他山に生えている樹の枝で、境界に掛かっている物は、幾つかある。ところで、おまえは我が家の山と他山との境に落ちている栗を拾ったと言ったな」「おまえの拾った栗は、他人の栗だ。我が家の栗では、決してない。断りもなく、他者の物を取ること、それを盗むというのだ」「飯は終わりだ、今すぐ、栗を元あった場所に返してこい」。石田梅岩は生涯この栗の話を忘れず、この話をことあるごとに人々に語ったそうです。そして話した後に、「親の愛とは、かくあるべし」と言ったそうです。

私たちの世の中は誘惑の多い世の中です。サタンの誘惑にさらされています。ですから聖書の中で、イエスさまがサタンの誘惑にあわれた話が出てきます。今日の聖書の個所は「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」という表題のついた聖書の個所です。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そのとき天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との祝福を受けました。そしてそのあと、荒野での誘惑を経験されます。

マルコによる福音書では荒れ野でイエスさまがどのような誘惑をサタンから受けられたのかということは書かれてありません。マタイによる福音書4章(4頁)やルカによる福音書4章(107頁)に書かれてありますので、そちらを参考にされたらよいかと思います。

マタイによる福音書4章では、サタンはお腹を空かせているイエスさまに、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。またサタンは「神の子なら神殿の屋根から飛び降りてみたらどうだ。神さまが助けてくださるだろう」と、イエスさまに神さまを試みてはどうだと誘惑します。そして最後に、「わたしを拝むなら、この世界をくれてやる。どうだ」と、イエスさまを試みます。しかしいえすさまはきっぱりと、「退け、サタン」と言われます。

マルコによる福音書1章12-13節にはこうあります。【それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた】。【野獣と一緒におられた】ということですから、まあ緊張するような状態がずっと続いていたということでしょう。いつ野獣から襲いかかられるかわからないわけです。そのような緊張した状態であったわけですが、【天使たちが仕えていた】とありますように、イエスさまを守ってくれる天使がいたわけです。野獣が襲いかかってくるというときには、天使がイエスさまを守ってくれるのです。

マルコによる福音書1章14-15節にはこうあります。【ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。】。イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、ユダヤの指導者たちを批判していたために捕らえられ、牢獄に入れられてしまいます。そして洗礼者ヨハネのあと、イエスさまがガリラヤで神の福音を宣べ伝えられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

格差社会になってきますと、自分がこんなにひどい状態にあるのは、悪いやつがいるからだというふうに思えます。「共産主義者が悪い」「おんなが悪い」「若者が勝手なことをしているからだ」「老人が優遇されているからだ」。いろいろな人たちが悪者になります。いまは「外国人が悪い」というようなことが言われたりします。アメリカなどではまあ「移民が悪い」と言われて、壁を作ったりしていました。自分たちがひどい状態にあることを、移民のせいにしたりして、なんかひどいことをしているなあと思っていたわけです。しかし日本でも「外国人が悪い」というようなことが言われだし、なんともいやな気がします。人々が「悪い奴がいるに違いない」と思い始める社会は、それは良い社会の状態ではありません。良い社会の状態に変えていかなければならないわけです。できるだけ格差をなくして、みんなが穏やかに過ごすことができる社会を作り出していくことが大切であるわけです。

私たちは人間ですから、野獣の世界に生きていくことはできません。「食うか食われるか。力づくで支配するのが正しいのだ。暴力を使うことなく世の中を収めることができるはずないではないか」。そんなふうに言われると、「ああ、ちょっとわたしの住む世界ではないなあ」と思います。そうした社会は野獣の世界です。人間の世界ではありません。

聖書は、イエスさまはサタンから誘惑を受けられ、そして「その間、野獣と一緒におられた」と記されています。誘惑の多い世界は、野獣が一緒にいる世界です。わたしはよくギャング映画など見ますけれど、ギャングの世界は欲望が多いです。そして野獣がいっぱいいます。ギャングの頭であっても、いつとって変わられるかわかりません。野獣がいっぱいですから、ちょっと油断をすると寝首をかかれます。ですから部下も信用できませんし、親族も信用できませんし、また子どもも信用できません。自分を殺して、ギャングの頭にとって変わるかも知れないからです。イエスさまの時代のヘロデ王は、そんな感じでした。皇帝アウグストゥスは「ヘロデの息子に生まれるよりも、豚に生まれたほうがましだ」と言ったと言われています。ヘロデ王によって保身のために、ヘロデ王の息子は殺されますが、豚は宗教上の理由から殺して食べるということがなかったからです。

誘惑の多い、何をしてもかまわないという世界は、野獣の世界です。イエスさまはサタンの誘惑にあわれたとき、野獣と一緒におられました。しかし聖書はそのあと、「天使が仕えていた」と記しています。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

聖書は野獣の世界に思える世界にあっても、イエスさまがおられる世界は天使が仕えているのだと記しています。イエスさまの時代の人々は自信を失い、不安になりました。どのように生きていけばよいのか、そのことに自信をもてなくなりました。自分勝手に生きたらよいのではないか。みんなそんな感じで生きている。野獣のように生きたらよいのではないのか。そんなとき、イエスさまは人々に神さまの愛のうちに生きていくことの幸いを伝えました。神さまの愛に根ざして生き方をして、愛に満ちた世界のなかで生きていく。神さまに対して恥ずかしくない生き方を求めていく。こそこそと生きていくのではなく、神さまの祝福のもと、胸をはって生きていく。神さまに依り頼んで生きていく。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。こそこそと良心がとがめるようなことをしているあさましい人たちの世界は終わり、神さまの愛と義と平和に満ちた世界がやってくる。私たちにはそうした世界に生きていく幸いがそなえられている。悔い改めて、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまはそのように呼びかけられ、私たちを招いておられます。

2月18日(水)に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。イエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちのこころのなかの邪な思いを、イエスさまは打ち砕いてくださり、私たちを神さまの愛のうちに導いてくださいました。

イエスさまの御苦しみを覚えて、レント・受難節のときを過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある罪に、しっかりと向き合いつつ、神さまの祝福のなかに生かされていますことを、こころから感謝したいと思います。




(2026年2月25日平安教会朝礼拝式) 



0 件のコメント:

コメントを投稿

3月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまがいつも一緒に」

「イエスさまがいつも一緒に」 聖書箇所 マルコ8:27-30。298/484。 日時場所 2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3 周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。こどもが小さなときに、「○○の映画に連れ...