2026年2月12日木曜日

2月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「命の種は広がっていく」

「よき仲間に囲まれて」 

聖書箇所 マルコ2:1-12。484/486。

日時場所 2026年2月8日平安教会朝礼拝


ことし京都南部地区の地区長をしていて、京都南部地区の印刷物を印刷したり、郵送したりする作業を行なうことが、何度かありました。韓日合同賛美礼拝のプログラム、新年合同礼拝のプログラム、京都南部地区定期総会の資料など、なかなかたいへんです。以前は多くの人の手を借りてやっておられたようですが、いまは4人くらいの常任委員の方々がそうした作業をしておられます。コロナのときにあまり集まることができなかったので、そうした感じで、いま京都南部地区運営がなされていて、ちょっとどうにかしたほうが良いと思いました。それでも常任委員という仲間がいるので、とても心強いと思えます。

私たちは一緒にいてくれる仲間がいるから、どうにか生きていくことができます。自分ひとりでは、たとえ簡単なことであったとしても、なかなかできなかったりします。たとえば単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。教会総会の資料などを作っているときも、やっぱりひとりでやるより、みんなでやるほうがうれしいわけです。掃除などもひとりでするとなると、なにかとてもたいへんなことのような気がします。しかしみんなでするとそんなに、たいへんに感じないということがあります。ひとりで1キロも歩くということはなかなかおっくうですが、二人で話をしながら歩くと、1キロなどあっという間です。

このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。重い病気を患うということは、だれにとってもたいへんなことです。それ自体ものすごく苦しいことです。ましてだれも支えてくれる人が回りにいないで、ひとりで病気に向き合うということになると、本当に苦しいことだと思います。あきらめてしまって、自暴自棄になってしまうということもあると思います。しかし、だれかが一緒にいて共に歩んでくれるなら、どうにか病気に向き合うことができるのではないかと思います。わたしは35年くらい前に、岡山で伝道師をしているときに、甲状腺機能亢進症という病気で入院しました。病院には多くの人が入院していました。しかし病気で入院している人々は、ひとりで病気に向き合うというのではなく、夫婦や家族で病気に向き合うという感じでした。

今日の聖書の箇所は「中風の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は「よき仲間に囲まれる」ことが、どんなに幸せなことかを感じさせる聖書の箇所です。マルコによる福音書2章1ー2節にはこうあります。【数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると】。

イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。そしてイエスさまはカファルナウムに帰ってこられました。カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ伝道の拠点としておられたところです。当時、人口が5万人ほどあり、ガリラヤ湖畔の中心的な町でした。イエスさまが帰っておられるといううわさを聞きつけて、多くの人々が集まりました。いつものように、イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。しかしあまりに人が多すぎて、イエスさまのところに、近寄ることのできない人が出てきます。

マルコによる福音書2章3ー4節にはこうあります。【四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした】。

大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。

いろいろな注解書には、当時のパレスティナの家について書かれてあり、屋根をはがすことができるような家であることを説明しています。【パレスティナの屋根はテラスのように平らであり、屋根は木の枝などの上に粘土を約30センチの厚さに置いて、固めたものであった。したがって屋根に穴をあけるのは容易であった】とあります。しかし容易であっても、そのようにするのは、やはり普通のことではないのです。まして自分の家の屋根をはぐのではなく、人の家の屋根をはぐのです。それは、どう考えても普通のことではありません。いくら屋根に穴をあけるのは容易であったとしても、床に病人をのせたまま屋根の上から吊り下げるということは、たいへんなことです。それはもう大騒ぎであると思います。人の迷惑顧みずということだと思います。もうなにがなんだかわからないというような状況に、この家はなっていただろうと思います。

しかし、イエスさまはこの状況にどうじることなく、彼らの行動を評価します。マルコによる福音書2章5節には【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。ユダヤ人は、病気やさまざまな不幸はすべて、罪の結果であると思っていました。そしてこのような災いから救われるためには、罪のゆるしを受けることが必要であると信じられていました。この中風の人もそのような信仰をもっていたのだと思います。ですからイエスさまは「あなたの罪はゆるされた」と言われ、中風の人を安心させたのでした。

しかし【子よ、あなたの罪は赦される】というイエスさまの言葉を、快く思わない人々がいました。マルコによる福音書2章6ー7節には【ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」】とあります。

律法学者たちは、中風の人がいやされたことを喜ぶのではなく、イエスさまに罪をゆるす権威があるのかどうかというようなことを気にしています。律法学者がここで語っている、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という言葉は、確かに正しいことです。イエスさまが好んで引用されるイザヤ書には、【わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする】(イザヤ43:25)とあります。神さまこそ、私たちの罪を許してくださる方なのです。

しかし病を担って今まで生きていた人が、いままさにいやされようとしているのです。まさにそのときに、そうした律法や聖書に書かれてあることが気になるというところに、律法学者たちのおかしさがあります。彼らは人々と共に生きていないのです。彼らは生活と掛け離れた議論だけをしているのです。彼らはいやされた人々と共に喜びを分かち合うということがないのです。

マルコによる福音書2章8ー11節にはこうあります。【イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」】。

「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが簡単であるのかと言われると、どちらであるかわからないような気もします。人の罪をゆるすことなどできないから、「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが簡単であるような気もします。

しかしここではやはり「あなたの罪は赦される」と言うほうが、簡単であるということです。それは「あなたの罪は赦される」というのは、別に結果が現れる必要がないからです。罪がゆるされたかどうかなどは、見えるものではありません。ですからなんとでも言えるということです。しかし「起きて、床を担いで歩け」というと、実際にその人が床を取りあげて、歩かなければ、そのように言った人に力がないということが証明されてしまいます。そういう意味で「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが、むつかしいわけです。でもそうした議論も、聖書学的には大切なような気もしますが、たぶん当時の民衆にとってはどうでもよい議論だろうと思います。

ですからイエスさまは「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。そしてイエスさまの力が人々の前に示されることになります。【その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った】。【人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した】となります。ほんとによかったなあと思います。

今日の箇所の中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。

イエスさまに出会う人々には、痛みや苦しみの中で苦闘している人々がたくさんいます。ベトザタの池でイエスさまによっていやされた人など、病を患い、そしてそのうえ病のために人々から疎外され、孤独な生活を強いられている人々がいます。またそのほか、だれからも相手にされず、お金だけをたよりに生きている人であったり、罪の女として人々から蔑まれていた人であったりと、どうしようもない孤独の中で、ひとりさびしく生きていくことを強いられている人々がいます。その人々がイエスさまとの出会いによって救われるのですから、すばらしいことなのです。しかしイエスさまに出会うまでは、本当にさびしい生活を強いられています。今日の聖書の箇所の中風の人は、たしかに病を担ってたいへんな生活であったのですが、孤独ではなかったのです。彼の回りには彼と共に歩んでくれる人々かいました。彼を中心にして助け合い支え合う集まりがあったのです。

今日の聖書の箇所では、イエスさまが中風の人ではなくて、四人の男の人の信仰をほめているので、なんか中風の人がただ連れてこられているような感じがしていやだということが言われたりもします。たしかにマルコによる福音書2章5節には、【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。しかしたぶん四人の男の人たちと、中風の人との関係は、一方的に助けているというような関係ではなかったでしょう。そうでなければ、なにも屋根に穴をあけてまで、イエスさまのところに連れてくるようなことにはならなかっただろうと思います。戸口の辺りがいっぱいで、イエスさまのところに近づくことができないのであれば、もうそこで帰ってしまうでしょう。しかし四人の男たちと中風の人の関係は、そんなに希薄なものではありませんでした。「こいつをイエスさまのところに、絶対に連れていってやる」と思わせるほどの関係が、四人の男たちと中風の人の間にはあったわけです。一方的に助けているのではなくて、共に担いあっているという関係があったのです。

共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。共にいる・支え合うということには、大きないやしが、お互いにあるのです。四人の男たちにとって、中風の人は、多くのものをあたえてくれるかけがえのない友だったのです。

【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】。イエスさまは中風の人を中心にした温かい交わりを、祝福されました。助け合い、支え合う友がいることを、イエスさまは喜ばれました。

ヤコブの手紙5章13-16節には、共に支え合うこと、共に祈りあうことを勧めている聖書の箇所があります。新約聖書の426頁です。【あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします】。

私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。助け合い支え合い、いたわりあう友がたくさんいます。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。そしてともに支え合い、ますますお互いにおぎないあいながら、信仰を深めていきたいと思います。「良き仲間に囲まれて」、神さまの祝福をいっぱい受けて歩みましょう。


(2026年2月8日平安教会朝礼拝)


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