「さみしさに寄り添われる神」
NHKの「ドキュメンタリー72時間」という番組を見ていると、「阿蘇・ライダーたちの夏 10年に一度の撮影会」というのがありました。10年に一度、8月の終わりにオートバイのライダーが、阿蘇山に集まって、記念撮影を行なっているといいます。2019年に行われましたから、次は2029年です。「あー、なんかいいなあ」と思いました。わたしは大学生の頃、250CCのオートバイに乗っていました。それ以来乗ったことはないので、もうちょっと乗れないと思います。ずっと乗っていたのならともかく、いまから急にオートバイにまた乗るのは、ハードルが高いなあと思います。もう少し若ければ、「まあ、挑戦するぞ」と思いますが、60歳も近くなってくると、「やっぱりケガをしたら怖いなあ」と思えます。でも2029年にオートバイに乗って、阿蘇山にいって記念撮影したら、とっても愉快だろうなあと思えました。そんなことを考えていると、新聞の広告にホンダのオートバイの公告が入っていて、「なんかかっこいいなあ」と思いながら、しばらく見ていました。乗りたいけど、乗れない。乗りたいけど、乗れない。
年を取ってくると、やっぱり止めたほうが良いだろうなあと思えることとかが出てきます。みなさんも、そうしたことがあるのではないかと思います。車に乗るのが大好きだったけれども、やっぱりもう車に乗るのはやめたという方もおられるかも知れません。登山に行くのが趣味だったけど、やっぱりもうあぶない感じがして止めたという方もおられるかも知れません。なんか自分の中では納得しているのだけれども、なんかちょっとさみしいなあと思えることがあります。
いまわたしが見ているドラマに「Silent」というドラマがあります。途中で聴覚障害者となった人と初めから聴覚障害者である人と、そしていわゆる健常者との微妙なずれを恋愛模様の中から描いているドラマです。その中に、初めから聴覚障害者の女性が、可愛い青いハンドバックを買っておしゃれをして、そして携帯電話で思いを寄せる途中から聴覚障害者となった男性を話をする。携帯電話で「どこにいるの」という会話をして、「ここここ」と見つけあって、そして手をつないで、会話をしながら歩くというシーンがありました。そして次のシーンでは女性がベッドで寝ていて、それが夢であったことがわかります。
聴覚障害者である女性は、耳が聞えないので、声で電話で話すことはできないのです。そして手話で話をしているわけですから、好きな人と手をつないで会話しながら歩くということできないのです。可愛いハンドバックではなく、会話をするために手を空けるために、いつもTバックを背負って歩いています。「ああ、恋人と手をつないで、声で会話をして歩けたらなあ」。しかしそれは現実には叶わぬことであるわけです。生まれながらの聴覚障害者ですから、そのことはよくわかっているけれども、でもそんなことができたらなあと、夢を見るのです。自分でもよくわかっているけど、ちょっと切なくさみしいのです。
そうした切なさやさみしさを感じる時が、私たちにはあります。わたしの母はわたしが若い頃にアルツハイマー認知症になりました。もう母もずいぶん前に亡くなっていますし、もう父も亡くなっています。わたしの母はわたしが結婚する前に、認知症になったので、わたしが結婚するということもしっかりとはわかりませんでした。わたしはいまでも、母から「純君はすてきな人と結婚できて良かったね」と言ってもらいたかったなあと思います。しかし母はアルツハイマー認知症でしたので、それは叶わぬことでありましたし、そのことはよくわかっているけれども、そしてもう30年以上前の話であるわけですが、でもやっぱりちょっと切なくさみしい気がするのです。
今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネのお父さんのザカリアと、お母さんのエリザベトの話です。
ルカによる福音書1章5−7節にはこうあります。【ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。】。
バプテスマのヨハネのお父さんのザカリアは祭司でした。そしてお母さんのエリサベトも、アロン家の娘の一人ということですので、祭司の家系の人でした。二人はユダヤの掟を守り、神さまの前に正しい人で、人々からもすばらしい人だなあと思われていました。ただ二人の間には子どもがなく、そして二人とも年を取っていたので、もうこのあと子どもが産まれるということはないだろうと思っていました。
ルカによる福音書1章8−12節にはこうあります。【さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。】。
ザカリアは祭司としての務めを果たしている時に、主の天使に出会います。主の天使がザカリアの前に現れ、ザカリアはとても不安になります。「恐怖の念に襲われた」とありますから、とっても怖かったのだと思います。かわいらしい感じの天使ではなくて、いかつい感じの天使だったのかも知れません。まあふつうは現れることがないものが現れるわけですから、まあそれは怖いだろうと思います。
ルカによる福音書1章13−17節にはこうあります。【天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」】。
主の天使は怖がっているザカリアに「恐れることはない」と言いました。そして「神さまがザカリアの願いを聞いてくださった」と言います。妻のエリザベトに男の子が生まれる。その子にヨハネという名前を付けなさい。その子はあなたに楽しみを与えてくれるし、あなたもとっても喜ぶことになる。そしてその子自身はとっても偉大な人になり、イスラエルの人たちを神さまのもとに立ち返らせる働きをするだろう。その子は偉大な預言者エリヤのような働きをする。そして人々を神さまのもとへと立ち返らせる。主の天使はそのように言いました。
ルカによる福音書1章18−20節にはこうあります。【そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」】。
主の天使がエリザベトは子どもを授かるという、とてもうれしい知らせを届けてくれたわけですから、ザカリアは「ありがとうございます」と言えばよかったわけです。でもまあなかなかそれは信じられることではありません。ですからやんわりとザカリアは主の天使に、「なんか信じられない」というわけです。「そんなことは信じられない」というのではなく、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と、ザカリアは言うのです。「何によって」って、徴(しるし)もなにも、エリザベトが子どもを産んだらわかるだろうと思うわけです。
自分とエリザベトの間にこどもがないということは、もう年をとったザカリアにとってはふれてほしくないことでありました。若い頃であれば、ああ子どもがいたら良いのにとか、いろいろと思ったけれども、もうそのことはずっとそのように思い続けたことであり、年をとり、もうそのことから自分たちなりに、心の中の整理をつけて、そしてもう年齢的にも子どもが産まれるという年でもなくなったということであったのです。
しかし人生には叶わないことと、叶うことというのがあり、それではいま自分が不幸かと言うと、そうではない。人々から信頼をされ、そして神さまの前にとても良い働きをしている。祭司として、正しくりっぱな歩みをしている。それはとても幸いなことであるのです。
ザカリアが主の天使に対して、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と応えたことについて、「それはどうかと思う」「どうして主の天使の言うことを信じられないのか」と責めることは、私たちにはできません。でも主の天使は信じることができなかったザカリアに対して、あなたは信じなかったので、エリザベトの子どもが産まれるまで、口が利けなくなると言い、そしてザカリアは口が利けなくなりました。
ルカによる福音書1章21−25節にはこうあります。【民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」】。
聖所に入ったっきり出てこないザカリアのことを、人々は心配をしていました。「ザカリア、何してるんかなあ。なんか変なことがあったのかなあ」。そんなふうに思っていました。ザカリアはやっと出てきたのですが、彼は話すことができませんでした。その様子を見て、人々はザカリアが聖所で幻をみたのだと思います。まあそれでも祭司としての役目を果たして、ザカリアは自分の家に帰っていきます。そしてエリザベトは主の天使がザカリアに告げたように、あかちゃんをみごもります。そしてエリザベトは言います。「神さまが、わたしに目をとめてくださり、わたしが人々から辱めをうけることを取り去ってくださいました」。
エリザベトの生きていた時代は、子どもが生まれないということは、恥ずかしいことだとされていました。とくに女性に対して、そのように思う人々がたくさんいました。現代でもそのような雰囲気がないわけではありません。しかしいまはいろいろな生き方があります。男性同士のゲイのカップルもいますし、女性同士のレズビアンのカップルがいます。結婚をしない人もいますし、結婚をしてもこどもをもたないということを選ぶ人たちもいます。もちろんそうした人たちに、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」というような差別的な発言を繰り返す政治家が現代でもいます。そうした発言は現代においては、とても差別的な発言です。しかしエリザベトの時代は、そういう時代ではありませんでした。子どもが生まれないということが、あからさまに恥ずかしいこととして考えられる時代でありました。
ザカリアとエリサベトの間にこどもがいないということは、それはもう二人にとっては納得しているけれども、さみしいと思えることでした。ザカリアもエリサベトももう年をとっていますし、もうこのことについては、ある意味、心の整理をしていたのです。ザカリアもエリサベトも神さまの前に正しい人として、周りの人々から信頼を受けて生きています。「ザカリア、あの人はとても立派な人ですよ。そしてエリサベトもとっても立派な人」。そのようにみんなから言われて生きています。子どもを授かることはなかったけれども、神さまの前に良い人生を送ることができました。でもふと思うと、こどもを授からなかったことは、さみしい気がするのです。そのことはもう納得しているけれども、さみしい気がするのです。
ザカリアとエリサベトが子どもを授かるという話は、さみしさに寄り添ってくださる神さまがおられるということを、私たちに教えてくれます。私たちの神さまは、私たちのさみしさに寄り添ってくださる方なのです。こころの底に押し込めている、だれにも見せることのない私たちのさみしさに、神さまは寄り添ってくださり、そして私たちに平安を与えてくださるのです。
ザカリアとエリサベトの話を読むとき、私たちはザカリアとエリサベトの願いがかなって、ほんとうによかったと思います。叶えられることのない願いを抱えながら、ザカリアとエリサベトは生きてきました。もう叶うことはないだろうと思っていた願いが叶えられたのです。私たちもまたかなえられることはないだろうと思える願いをもって生きています。なんかちょっとさみしいという思いをもって生きています。だからザカリアとエリサベトの願いが叶えられて、ほんとうによかったねと思うのです。そうした思いをもつ人々が、このザカリアとエリサベトの物語を語り伝えてきたのだと思います。わたしの願いは叶えられるかどうかはわからないけれども、ザカリアとエリサベトの願いが叶えられてよかったねと思うのです。
そして私たちはこのザカリアとエリサベトの物語をとおして、私たちの切ない思いやさみしさに寄り添ってくださる神さまが、私たちにおられることを知るのです。神さまは私たちの切ない思いやさみしさに寄り添ってくださり、私たちに平安を与えてくださる。
クリスマス、神さまは私たちのところに、主イエス・キリストを送ってくださいます。イエスさまは私たちと共に歩んでくださり、私たちの切ない思いやさみしい気持ちをしってくださり、私たちを暖かく包み込んでくださいます。クリスマス、イエスさまをお迎えして、こころ平安に歩んでいきましょう。
(2022年12月11日平安教会朝礼拝式・アドヴェント第3週)
0 件のコメント:
コメントを投稿