2022年12月21日水曜日

11月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「自由に解き放たれ」

今日、ローソクの灯りがひとつ点きました。今日は、イエスさまの誕生をお祝いするクリスマスを待ちわびる期間である、アドベントの始まりです。

アドヴェントという言葉は、来臨という意味です。【アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった】(キリスト教大事典、教文館)ということですので、イエスさまの誕生をお祝いするための準備のときであり、また世の終わりの時にイエスさまがやってこられるのを待ち望むときという意味もあるけです。ですから、アドヴェントには終末の聖書の箇所が読まれます。

今日の聖書の箇所は、「人の子が来る」「いちじくの木のたとえ」「目を覚ましていなさい」という聖書の箇所です。ルカによる福音書の21章5節ー38節までは、マルコによる福音書の13章1-37節の「小黙示録」と呼ばれる聖書の箇所とよく似ています。ルカによる福音書21章5節以下から「神殿の崩壊を予告する」「終末の徴」「エルサレムの滅亡を予告する」、そして今日の箇所であります「人の子がくる」「いちじくの木のたとえ」「目を覚ましていなさい」。なるほど、世の終わりの時についての一連の流れについて書かれてあるということが、おぼろげにわかってきます。

私たちにとっては、世の終わりというものが、良い悪いは別にして、すぐに起こることとしては、なかなか考えることができません。しかしイエスさまの時代や弟子たちの時代は、世の終わりについての確かな確信というものがありました。世の終わり、終末は、もうすぐそこに来ているというふうに、当時の人々の多くは考えていました。

ルカによる福音書21章25-26節にはこうあります。【「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである】。終末の出来事として、天変地異が起こると言われます。まあおそろしい出来事です。私たちは津波や竜巻、地震などの自然の前に、立ちすくんでしまいます。一瞬のうちに建物が崩れ、波にさらわれ、吹き飛ばされてしまう。多くの人々のいのちと生活が、一瞬のうちに、奪われてしまう、恐ろしい出来事です。

ルカによる福音書21章27-28節にはこうあります。【そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」】。ルカによる福音書の著者は、天変地異が起こったあと、キリストの再臨があると言います。十字架につけられ、天に召された、主イエス・キリストが、世の裁きのためにこられるのです。そして世の終わりを迎えます。

しかしそうしたことは、突然、やってくるのではないと、ルカによる福音書の著者は言います。突然、この世が滅びてしまうということではない。ルカによる福音書21章29-33節にはこうあります。【それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏に近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない】。いちじくの木やほかの木も様子を見ていると、季節がわかる。そのように世の終わりの出来事も、いろいろなことを落ち着いてみているとわかる。ひとつひとつの出来事にあわてふためくのではなくて、じっくりと出来事を見据えて、その時を、その意味を考えなさい。そんなふうにルカによる福音書の著者は、言っています。

ユダヤの人々はエルサレムの神殿が破壊されるという出来事に出会います。神さまの神殿が破壊されるわけですから、人々は非常に同様するわけです。まさに世の終わりのような気がします。「ああどうしよう。世の終わりだ」。そんな雰囲気になるわけです。しかし結局、世の終わりは、そのとき来なかったのです。地震だ、津波だ、神殿の崩壊だ。ひとはそのつど、あわてふためいて、世の終わりだと騒ぎました。しかし世の終わりはきませんでした。そして「世の終わりだ」と騒ぐわりには、同じような生活をしていたわけです。悔い改めて、真剣に生きようとしたわけではありません。「世の終わりだ」という空騒ぎをしただけであったのです。ですからルカによる福音書の著者は、今日の聖書の箇所のあとに、「目を覚ましていなさい」ということを言いました。ルカによる福音書21章34節には【放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい】とあります。

終末の出来事、世の終わりの出来事というのは、たしかに恐るべき出来事であるわけです。天変地異が起こり、【恐ろしさのあまり気を失うだろう】と聖書にはあります。しかしそれはただただ恐れるべきものであるということではありません。聖書は【あなたがたの解放の時が近いからだ】と言っています。そしてまた、【神の国が近づいていることを悟りなさい】とあります。それはいたずらに恐れたり、あわてたりするのではなく、しっかりと出来事を見据えることが大切だということです。

終末において、私たちに求められていることは、平静さを失わないということです。それは終末においてだけではなく、私たちの日常の生活のなかでも、同じことです。いたずらにこころを騒がすのではなく、しっかりと出来事を見据えるということが大切です。私たちはいろいろなことでおろおろとします。終末の出来事のように、天変地異が起こるのでなくても、私たちは日々、おろおろします。そしていたずらに騒ぎたち、こころを乱すのです。こころを乱す必要のないようなことにまで、私たちはこころを乱します。

イエスさまは言われました。【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】。それは「主にあっては、恐れはない」ということなのです。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由であるのです。びくびくする必要はない。たとえ天地が滅びるとしても、私たちは滅びることはないのです。私たちはそうした平安のなかに導かれています。

イエスさまは【天地が滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】、「主にあっては、恐れはない」と、私たちに言ってくださいました。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由なのです。私たちは自由に解き放たれて生きることが許されているのです。

マリアと婚約していたヨセフの夢に現れた天使は言いました。【ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい】。マタイによる福音書1章18節以下には「イエス・キリストの誕生」の話があります。新約聖書の1頁です。【イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである】。

ヨセフは世間体や、律法の上での正しさのために、マリアと別れようとしていました。しかし天使の【ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい】という御言葉を受けとめ、イエスさまにつながることを、恐れず、受け入れたのでした。そのとき、ヨセフは自由に解き放たれたのです。「主にあって、恐れはない」という生き方へと導かれたのでした。

私たちは不安で奇妙な世の中にあって、「主にあって、恐れはない」という生き方へと招かれたいと思います。「主にあって、恐れはない」のです。この世の流れに身をまかせてしまうとき、私たちの流れてしまう先は、不安であり、恐れです。そして恐れは、憎しみを生みだします。イエスさまの誕生の知らせを聞いた、ユダヤのヘロデ王は【不安を抱いた】と聖書にあります。そして不安を抱いたヘロデ王がしたことは、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺すことでした。

憎しみの炎は、ぱっと燃え広がります。そして取り返しのないことをしてしまいます。私たちの心は弱いですから、憎しみの炎を簡単に消し去ることはできないかも知れません。いくら自分の言葉で「人を憎むことはいけないことだ」と戒めてみても、私たちの憎しみの炎は消え去ることがないかもしれません。繰り返し繰り返し、自分の言葉で自分を諭してみても、どうすることもできないような気持ちになってしまうときも、私たちにはあります。

しかし私たちは、【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】という、イエスさまの言葉に、身を置く者でありたいと思います。私たちの言葉は憎しみをうち砕くことができなくても、イエスさまの言葉は私たちの憎しみをうち砕いてくださいます。

そして、私たちは何に依り頼んでいるのかを思い起こしたいと思います。私たちは自分のプライドのために、生きているのでしょうか。私たちは人を憎むために生きているのでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって生きているのです。

私たちの世の中は、私たちの不安をあおり、私たちの憎しみをあおる、そんな雰囲気に満ちています。私たちは【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】という、たしかな言葉を大切にして歩んでいきましょう。

今日はアドベントです。ローソクの灯がひとつ点きました。私たちの心のなかにも、憎しみの炎ではなく、愛のローソクの灯をひとつ灯したいと思います。


(2022年11月27日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週)


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