「なんで、私が天国に」
今日は収穫感謝日の礼拝です。新型コロナウイルス感染症が拡がる前は、子どもの教会のこどもたちと一緒に礼拝を守っていました。神さまが秋の実りを私たちに与えてくださり、私たちの世界がわかちあいの世界であることを知ることができ、こころから感謝いたします。
地下鉄にのっていますと、予備校の案内を見ることがあります。わたしはもう受験ということに関係のない年齢になっていますので、あまり興味がわくということはないわけです。しかし興味のある人にとっては、どこの予備校に入学するのかということは、とても関心の高いことだのだろうと思います。四谷学院という大学受験予備校のキャッチコピーに、「なんで、私が東大に!?」というのがあります。「なんで、私が東大に!?」というキャッチコピーは、なかなか目をひくキャッチコピーだなあと思います。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」。「合格すると思っていなかったけど、四谷学院で勉強して、合格することができた」という感じで、なかなか良いキャッチコピーだと思えます。
そして今日の説教題は「なんで、私が天国に!?」にしてみました。大学に入ることは人生の中のとても大きな関心事であるわけです。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」というキャッチコピーに多くの人が魅かれていきます。しかし私たちはそろそろ、そうしたこの世でのことだけでなく、「なんで、私が天国に!?」ということに関心を寄せたほうが良いのではないかと思います。
「天国に入る方法を教えます。平安教会」ということで、今日の聖書の箇所は「十字架につけられる」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書23章35−38節にはこうあります。【民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。】。
イエスさまは十字架につけられます。ユダヤの議員たちはあざ笑います。「神さまのメシアであるのなら、自分を救ってみろ。いままでいろいろな人たちを救っただろう。自分を救ったらいいじゃないか」。兵士たちもまたイエスさまのことを侮辱します。兵士たちはイエスさまに近寄って、イエスさまに酸いぶどう酒を飲ませようとします。酸いぶどう酒というのは、まあ気付け薬のようなものです。イエスさまが気を失ってしまわないようにするわけです。そうするとイエスさまは痛みを感じ続け、苦しむことになります。イエスさまがつけられた十字架には、罪状書きとして「これはユダヤ人の王」と記されてありました。イエスは自分のことをユダヤ人の王と偽っているということです。兵士たちは「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と、イエスさまをあざけりました。
ルカによる福音書23章39−41節にはこうあります。【十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」】。
イエスさまが十字架につけられたとき、二人の強盗が一緒に、十字架につけられたということは、マルコによる福音書にも書かれてあることです。マタイによる福音書でも、【イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた】と記されています。マタイによる福音書では【一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった】と記されてあります。マタイによる福音書では、二人の強盗がどちらもイエスさまをののしるわけですが、ルカによる福音書では片方の強盗だけがイエスさまをののしります。
犯罪人のひとりが、「おまえはメシアなんだろ。自分とそしておれたちを救ってみろよ」と言いました。するともう一方の犯罪人はたしなめます。「おまえは神さまを恐れないのか。この人は神さまのメシアなんだぞ。メシアなのに私たち強盗が受ける十字架刑を受けている。私たちは強盗をして十字架刑につけられているけれども、この人は何も悪いことをしていない。貧しい人たちや困っている人たちに、神さまが共にいてくださることを知らせ、病気にかかっている人たちをいやしておられただけだ。
ルカによる福音書23章42−43節にはこうあります。【そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。】。
犯罪人のひとりは、最後にイエスさまに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。あなたは神さまのところに帰られる。あなたはメシアだから神さまのところに帰られる。わたしはそのことを信じています。あなたが神さまのところに帰られたとき、わたしのことを思い出してください。自分のしたことを悔いている。愚かなことをしていた人生だった。人を傷つけてしまい、人から奪うことしか考えていなかった、愚かなわたしを赦していただきたい。あなたが神さまのところに帰られたとき、一緒に十字架につけられた愚かな強盗が、神さまの前に申し訳ない人生であったことを悔いていたことを思い出してほしい。そのように強盗は言いました。強盗の悔い改めを聞き、イエスさまは強盗に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
最後の最後に、悔い改めることができた強盗は幸せであると思います。人はなかなか悔い改めたり、自分のことが悪かったと認めることはできません。ですから悔い改めることのできた強盗はとても幸せだと思います。人はなかなか悔い改めることができないですし、わたし自身もそうですから、悔い改めなかったほうの強盗を、「あいつはだめなやつだ。あいつはおろかな奴だ」と言うことも、わたしにはできません。ただ最後に悔い改めることができた強盗は幸せだと思います。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、イエスさまに言っていただけるなんて、とても幸せだと思います。
この悔い改めた強盗の気持ちを表す言葉が今日の説教題であります、「なんで、私が天国に!?」ということです。強盗であるわたしが天国にいるなんて信じられない。「なんで、私が天国に!?」。
「人はなぜ救われるのか」ということについて、キリスト教は「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というふうに考えています。イエスさまのお弟子さんの使徒パウロが言い表している「信仰義認」ということです。ローマの信徒への手紙3章21節以下に「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。
新約聖書の277頁です。ローマの信徒への手紙3章21−26節にはこうあります。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。】。
律法を守るということが、神さまから救われる、神さまから愛されるということの前提であると考えられていました。しかし使徒パウロは、人が救われる、人が義とされるのは、律法を守ることができるからではないと言いました。何かをすることによって、人は義とされるのではない。神さまの義は、イエス・キリストを信じることによって、すべての人に与えられるものだと言いました。神さまの義、神さまの救い、それは人が何かをしたから与えられるものではなく、神さまの憐れみによってそれはすべての人にあたえられるものだと、使徒パウロは言いました。
神さまの憐れみによって人は救われるのです。十字架の上で悔い改めた強盗は、神さまの憐れみによって救われたのです。イエスさまの憐れみによって「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と声をかけられ、救われたのです。人は神さまの憐れみによって、人は神さまの恵みによって救われるのです。その人がりっぱば行ないをしたから救われるのではありません。ですから人はみんな、「なんで、私が天国に」という思いをもって、天国に行くのです。
今日は収穫感謝日です。収穫の実りも恵みとして与えられています。もちろん畑を耕す人々や、くだものの木を手入れし、管理する人々の労力によって、収穫の実りがもたらされます。農機具を開発する人たちがいたり、そうした起業にお金を融資する銀行の人たちがいたり、多くの人々の手によって収穫の実りがもたされます。しかしそれでもやはり収穫の実りは恵みとして与えられているのです。
宇宙で農業ができるようにしたいということで研究しているそうです。「火星で可能か研究中」ということです。【宇宙で農業はできるのか? 普段、わたしたちは、何気なく呼吸し、ご飯やパン、肉、魚、野菜、果物などを食べて生活しているけれど、それは地球が資源の豊かな星だからできることなんだ。気温や水、光などの環境が、ぜんぜん違う宇宙ではどうなんだろう?。・・・。宇宙航空研究開発機構(JAXA)は現在、火星で農業ができないか、研究中だよ。・・・。火星は地球と比べて直径は半分なんだ。火星の地表面の気温は20度~氷点下130度(平均で氷点下55度)、重力は地球の3分の1で、日射量はおよそ半分。1日の長さは地球と同じだけれど、1年は地球の2倍。大気は160分の1しかなくて、9割以上が二酸化炭素だ。地表面は主に玄武岩と安山岩の岩石でできている。このままでは、農業はできないよね。】(JAグループ福岡、アキバ博士の食農教室「宇宙で農業はできるの?」、https://www.ja-gp-fukuoka.jp/archives/akiba/2755/)
私たちが住んでいる地球では、農作物が育つ土地があり、適度な気温があり、さまざまな条件が合って、作物は実りをもたらします。それら神さまが備えてくださっているものです。私たちは神さまからの多くの恵みを受けて生きています。
私たちが生きていることも、また私たちが天に召されることも、神さまの御手のうちにあります。神さまは私たちに多くの祝福を備えてくださり、そして私たちの歩みを守り導いてくださっています。神さまにお委ねし、安心して歩んでいきましょう。
(2022年11月20日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日)
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