「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」
今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。ここ数年、新型感染症のために、大勢で集うことができません。ことしは以前と同じように案内をして、ご親族の方々も共に集うということにしています。
キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると考えています。クリスチャンは地上での生活を終えて天に帰ります。そして地上で礼拝を守っていたように、今度は天上で礼拝を守ります。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。ご家族を天に送られて、とてもさみしい思いをしておられる方々もおられると思います。そのさみしさはなかなか癒えることない深いものだと思います。今日、私たちは地上で礼拝を守り、天に帰られた方々は天上で礼拝を守っておられます。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。
私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。
今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネは、イエスさまが来られる前に、その備えをするために、人々に悔い改めを迫った預言者です。ルカによる福音書1章57節以下には、「洗礼者ヨハネの誕生」という表題のついた聖書箇所があります。そこには洗礼者ヨハネが生まれたときのことが記されてあります。また読んでいただければと思います。
今日の聖書の箇所であります、ルカによる福音書3章1−3節にはこうあります。【皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた】。
ルカによる福音書の著者は、こういう詳しい書き方が好きです。ルカによる福音書1章3節に、
【そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました】とありますように、詳しく調べているので、詳しく書きたいわけです。だれが治めている時代なのかということが詳しく書かれてありますので、そうした時代にまぎれもなく洗礼者ヨハネが生きていたのだということわかります。洗礼者ヨハネはヨルダン川で、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。神さまは憐れみ深い方であり、赦してくださる方だから、あなたたちは悔い改めて、神さまにふさわしい良い生き方をしなさいと、人々に洗礼者ヨハネは呼びかけたのでした。
ルカによる福音書3章4−6節にはこうあります。【これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」】。
イザヤ書40章3−5節にはこうあります。【呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。】。旧約聖書の1123頁です。
【主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ】とありますように、洗礼者ヨハネはイエス・キリストがこの世に来られる前に、人々に悔い改めを迫り、そして神さまへと帰る道筋を整えるようにと呼びかけたのでした。イザヤ書の40章の聖書箇所は、バビロン捕囚にあって、囚われの身となっていたイスラエルの人々が解放されて、イスラエルに帰ることができるということが告げられているという聖書の箇所です。イスラエルに帰るための道を整える。神さまの道に反して歩んだために、バビロン捕囚という異国に連れて行かれるという苦しみにあって苦しんだ。しかしいまイスラエルに帰るときが訪れ、神さまのところにみんなで悔い改めて帰っていくというようなことが言われているわけです。そのようにいま悔い改めて、神さまのところに帰ろうと、洗礼者ヨハネは人々に呼びかけているわけです。
ルカによる福音書3章7−9節にはこうあります。【そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」】。
洗礼者ヨハネはなかなか恐ろしい言葉で、人々に悔い改めを呼びかけました。一応、悔い改めて洗礼を受けようと思っている人々に対して、洗礼者ヨハネは「洗礼を受けることで、神さまの怒りを免れるというようなことを考えてはいけない」と言いました。そんな簡単なことではない。しっかりと悔い改めるのでなければ、それは悔い改めにはならない。悔い改めにふさわしく、神さまの御心にそって生きるということをしなければならない。
「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と洗礼者ヨハネは言いました。イスラエルの人々は自分たちはアブラハムの子孫で、神さまから特別に選ばれた民だから、神さまが特別扱いをしてくださると思っていました。「神さま、ごめんなさい」とちょっと謝ると、神さまが「ああ、いいよ、いいよ。あなたたちはアブラハムの子孫だから」と言ってくださると思っていました。しかし洗礼者ヨハネは、神さまは石ころからでもアブラハムの子たちを造ることができる。もう裁きのときは来ている。斧はもう木の根元に置かれていて、悔い改めてしっかりと生き直さない人たちは、切り倒されて、地獄の火に投げ込まれてしまう。そのように洗礼者ヨハネは言いました。。
ルカによる福音書3章10−14節にはこうあります。【そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。】。
洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いました。それを聞いた群衆は、「私たちはどうしたらよいのですか」と素直に洗礼者ヨハネにたずねました。洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。徴税人もたずねます。洗礼者ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言いました。兵士もたずねます。洗礼者ヨハネは「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えました。
洗礼者ヨハネはとても具体的にこうしたら良いよということを答えます。洗礼者ヨハネは群衆たちにできないことをしなさいと言ったわけではありません。できることを言っています。とくに徴税人や兵士に対してはそうです。規定以上のものを取り立てたり、金をゆるったりすることは、それはいけないことです。しかしそうしたことが世の中に蔓延し、みんな「まあいいか」というふうになっていたということです。悪いことではあるけれども、まあみんなやってるから、まあわたしもやってもいいか。そういう世の中になってしまっていました。洗礼者ヨハネはそういた世の中にあって、群衆に「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」。みんなわかちあって生きていきなさい。みんなで助け合い、支え合って生きていく、そういう世の中にしていこうと、洗礼者ヨハネは言いました。
倫理的でない社会は、どんどんと貧しくなっていきます。倫理的でない社会は、滅んでいきます。使わなくて良いことのために、力がそがれていくからです。たとえば私たちの社会が嘘が蔓延する社会であったとします。政治家が嘘を言っているのを、それが嘘であるかどうかということを確かめるために、多くの人々の力が注がれることになります。政治家が嘘をつかなければ、そうしたことに労力を使う必要はないわけですが、政治家が嘘をつくので、そうしたことに労力が使われることになります。もっと世の中が良くなることのために労力が使われていけば、社会はもっとよくなるわけですが、しかし政治家が嘘をつくために、仕方なくそれを正すことのために労力が使われ、そしてその間に社会はどんどんと貧しくなります。政治家が嘘を隠すために、役所の人たちを使います。本来であれば、世の中の人のためになる仕事をしたいわけですが、しかし政治家の嘘を隠すために、役所の人たちの労力が使われます。その間に、社会はどんどんと貧しくなります。政治家は嘘を言います。政治家が嘘を言うのだから、私たちも嘘を言って良いのではないかと思って、嘘を言う人々が多くなります。そうしてその社会はどんどんと良くない社会になってしまいます。
人が倫理的でないのを見ていると、だんだんと自分も倫理的でなくて良いのではないかと思い始めます。洗礼者ヨハネの時代もそうしたことがあったと思います。「規定以上のものを取り立てている」徴税人をみて、「おれもしようかなあ」と思った徴税人がいただろうと思います。「金をゆすり取ったり」する兵士をみて、「おれもしようかなあ」と思った兵士がいただろうと思います。しかしそうした世の中にあって、洗礼者ヨハネは人々に、神さまの御心にかなうように、「倫理的に生きていこう」と呼びかけたのでした。
マルコによる福音書の著者は、預言者イザヤの言葉を引用して、洗礼者ヨハネがこの世に現れたことの意味は、【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】ということなのだと言っています。洗礼者ヨハネはなかなか怖いことを言いますし、「これするな。あれするな。悔い改めろ」と言いますから、なんかちょっと近寄りがたいところがあります。しかし洗礼者ヨハネは、人々に神さまの御心にかなった生き方をしてほしい。あなたが倫理的に生きようと思うことによって、あなたたちの世の中は良い世の中になる。。そしてあなたたちはみんな、神さまの救いを仰ぎ見ることになると、人々に告げたのです。【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。「あなたたちの思いにかなってすてきな社会に必ずなるから」と、洗礼者ヨハネは言いました。
いま私たちの住んでいる社会を見回しますと、ウクライナでは戦争があり、いろいろなところで争いがあり、貧しさがあり、人と人が対立して、ののしりあったりしています。ウクライナでの戦争もなかなか終わりが見えません。新型感染症のために、とてもしんどい思いをしている人たちがいます。大人の暴力に脅えながら生きている子どもたちがいます。
なかなか私たちの思いにそった、神さまの愛に満ちた社会になりそうにありません。そうしたことを考えると、とても暗い気持ちになります。洗礼者ヨハネが生きた時代もそうでした。洗礼者ヨハネの思いとは違った、不正の多い、貧しい人々が互いに傷つけあって生きているような社会でした。人々から嫌われている徴税人が、規定以上のものを取り立てて、貧しい人々を苦しめていました。貧しい兵士たちは剣でもって、人をゆすり、人から物を奪ったりしていました。みんなが自分勝手な思いになってしまいそうな社会にあって、洗礼者ヨハネは悔い改めて、私たちを愛してくださる神さまにふさわしい歩みをしようと呼びかけました。
【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。人はそんなふうにつくられているのだ。自分勝手な思いに引きずられてしまうような気がするときもあるけれども、しかし思い直して、神さまの救いを仰ぎ見ながら、みんなで歩んでいく。あなたが望んでいるような神さまの国が必ずくるから、あなたの思いにかなったすてきな世の中に必ずなるから。そのように洗礼者ヨハネは人々に呼びかけました。
【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。私たちも神さまの救いを仰ぎ見る歩みでありたいと思います。希望を持って、神さまの愛を信じて、歩んでいきましょう。
(2022年11月6日平安教会朝礼拝式・聖徒の日)
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