「天からの祝福を受けて」
聖書箇所 マルコ1:9-11。419/390
日時場所 2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝
改装をされた礼拝堂で、こうして敬愛する方々と一緒に、神さまを賛美することができますことを、こころから感謝いたします。今日は教会建物改修のために、献金をしてくださった方々へもご案内をして、共に礼拝を守っています。ありがとうございます。
「教会建物についての議論の経緯の略年表」をお配りいたしました。教会建物改修については、ほぼ15年間くらい話し合いがなされてきました。いろいろな話し合いを経て、こうして一区切りをつけることができますことは、教会に連なるお一人お一人の祈りがあってこそだと思います。そして何より私たちの思いを超えて働かれる神さまの導きがあってこそだと思います。まだ少し、手を入れなければならないところもありますが、これからも力を合わせて歩んでいきたいと思います。
毎週、私たちは礼拝に集い、礼拝を守っています。ですからまあクリスチャンとしての生活をしているわけですが、いつもいつも自分がクリスチャンであるという意識をもって歩んでいるわけではありません。しかしときになにか重要なことが起こり、自分がクリスチャンであるということが、その決断にとって欠かせないものとなるときがあります。
先日、『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画をみていました。どういう映画かと言いますと、ハリウッドで大きな影響力をもっていた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインという人が、何十年にもわたって性暴力事件を起こしていました。そのことをニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者が追いかけ、記事にしていくという話です。#MeToo運動が世界へ広がるきっかけの一つとなった出来事だと言われています。被害者はたくさんいるわけですが、でも和解の際に「秘密保持契約」などが結ばれていたりして、なかなか被害を公にすることができません。また匿名ということで、記者に話をしてくれる人たちはいるわけですが、なかなか実名で記事にしてよいという人は出てきません。当り前のことであるわけですが、なかなか実名で告発するのには勇気がいるわけです。
そのなかで、アシュレイ・ジャッドという女優が、実名で記事にしてもよいと言います。そのとき、「女として、キリスト教徒として」、告発しないわけにはいかないと言うのです。「女として、キリスト教徒として」。『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画の中に、実際にその本人として出演をしています。「女として」、これから先、このような事件が起こってほしくない。自分のような被害に合う女性がでないようにしたいというのは、この映画のテーマですから、それはそうだと思うわけです。でも同時に「キリスト教徒として」という言葉が添えられていました。アシュレイ・ジャッドは、キリスト教徒として、神さまの前に立つ者として、このような不正を許しておくことはできないというわけです。多くの人は実名で告発することはできないと思う。だからわたしが実名で告発するということを担うのは、キリスト教徒としてのわたしの務めだというわけです。アシュレイ・ジャッドのなかには、「わたしはキリスト教徒なのだ」ということが、自分が存在する第一のこととしてあるのです。「あなたは何者ですか」と問われるときに、「わたしはキリスト教徒だ」と答えるということです。
クレア・キーガンの「ほんのささやかなこと」という小説もまた、自分がクリスチャンであることについて考えさせられる小説でした。こちらはアイルランドの「マグダレン洗濯所事件」についての小説です。
【マグダレン洗濯所。別名、マグダレン収容施設、マグダレン修道院。実際には婚外交渉により身ごもった女性ばかりでなく、堕落する可能性があると恣意的に判断された女性、身寄りのない少女も収容され、食事のみのほとんど無報酬で、軍隊や施設等から集められた洗濯物の洗濯作業を強いられていた。】〔マグダレンの祈り、Wikipedia)。
マグダレン洗濯所事件とは、アイルランドでカトリック教会と国家によって行なわれた人権侵害事件です。1922年から1996年まで、未婚の母や身寄りのない女性たちを強制収容して、無報酬で過酷な洗濯労働を強いていました。その実態はなかなか明らかになりませんでした。
【1985年、アイルランドの小さな町。クリスマスが迫り、寒さが厳しくなるなか、石炭と木材の商人であるビル・ファーロングは最も忙しい時期を迎えていた。ある日、石炭の配達のために女子修道院を訪れたファーロングは、「ここから出してほしい」と願う娘たちに出くわす。修道院には、未婚で妊娠した娘たちが送り込まれているという噂が立っていたが〜隠された町の秘密に触れ、決断を迫られたファーロングは、己の過去と向き合い始める】(本の見開き)。
1985年のクリスマスです。教会が経営している母子収容所で、長年、ひどい女性虐待が行なわれています。主人公のファーロングという男性はたまたまそのことに気がつき、そしてそこから逃げようとする女性を助けるという話です。教会に対して楯突くと、世間から村八分にされてしまいます。しかしファーロングは決心します。ファーロングはこう自問自答しています。
【町を歩けば知った人にも知らない人にも行き会ったが、ファーロングはいつのまにかこう自問していた。たがいに助けあわずに生きてどうする?そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。(P.135)。
【そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。
日常生活のなかで、自分がクリスチャンであることが問われる出来事というのは、そんなにないわけですが、でもクリスチャンである私たちはときにそうしたことを考えざるを得ないときがあるわけです。そして「わたしは何者なのか」という問いの前に立つことがあるのです。
今日の聖書の箇所は「イエス、洗礼を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章9節にはこうあります。【そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた】。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを求めました。そしてその徴として、ヨルダン川で洗礼を授けていました。イエスさまもヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。
マルコによる福音書1章10節にはこうあります。【水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった】。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、不思議な出来事が起こります。天から霊が鳩のように、イエスさまに降ってきます。先週は聖霊降臨日、ペンテコステでした。ペンテコステはイエスさまの弟子たちに聖霊が降るという話でした。ここではイエスさまご自身が、洗礼を受けられた時に、鳩のような形をした聖霊がイエスさまに降ったことが告げられています。
マルコによる福音書1章11節にはこうあります。【すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。聖霊が天から降ったときに、天から声も聞えてきます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けていました。洗礼を受けるということは、神さまからの祝福を受けるという、とても幸いなことであります。それは私たちが洗礼を受けるのも、イエスさまが洗礼を受けるのも、同じように幸いなことであるわけです。洗礼を受け、私たちは神さまから託されたことを、この世で証して生きていきます。そういうことでは、私たちもまた洗礼を受けるときに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福を、神さまから受けているということが言えるかも知れません。
ただ私たちとイエスさまが神さまの祝福を受けられるということには、少し違いがあります。それはイエスさまが歩まれる道が、十字架への道であるからです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、イエスさまの十字架への道を表わしています。イエスさまは神さまの御心に適う者として、神さまの独り子であるわけですが、私たちの世に来てくださる。そして私たちの罪のために、十字架についてくださいます。イエスさまが私たちの代わりに十字架についてくださることによって、私たちは神さまによって赦され、永遠の命を受ける者として招かれることになります。イエスさまはそのために、私たちの世に来てくださいました。
私たちはイエスさまのように、人の罪を贖うために十字架につくことはありません。ただ私たちには私たちにとっての神さまから託された歩みというのがあるわけです。そういう意味では、イエスさまに語られた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、私たちへ語られた言葉でもあるわけです。
私たちもまた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」として生きています。神さまからの祝福を受けて生きています。神さまからの祝福を受けて生きているということは、とても幸いなことです。私たちは自分のことを見ていると、下を向いてしまわざるを得ないことがあります。「どうもわたしの心の中にあるこの気持ちは、神さまの前には恥ずかしいものだ」「どうしてわたしは自分のことを棚に上げて、人につらく当たってしまったりするのだろうか」「もっと人に優しくしたいと思うのに、ちいさなことでいつも腹を立ててしまって、自分のことながらなさけない」。自分に目を向けると、反省することが多いわけです。でもそんな私たちであるわけですが、でも神さまは私たちを愛してくださっているのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を、私たちにかけてくださっています。
私たちはクリスチャンとして、自分を見たり、人を見たりするのではなく、神さまを見て歩みたいと思います。神さまがわたしを見ていてくださり、神さまがわたしを守ってくださっている。神さまがわたしを愛してくださり、わたしにふさわしい歩みを用意してくださっている。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という励ましの言葉を胸に、神さまの霊である聖霊の力を信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。
(2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝)
0 件のコメント:
コメントを投稿